難しさの安全率
難しくしたら「誰もクリア出来ない」と不興を買い、簡単にしたら「こんなゲームもクリア出来ないのか」と言われます。クリア出来る人数を増やしたらクリア出来ない人達にはプレッシャーになりますし、クリア出来る人数を限ったらクリア出来なかった人達の居心地が悪くなってしまいます。クリア出来る人数が増えたら「クリア出来ないのはお前だけだぞ」と言われ、クリア出来る人数が減ったらどうなるでしょう?
クリアの要件を増やしたら要件の内容で上下が出来てしまいますし、クリアしたかどうかを要件から外したら、今まで努力してきたプレイヤー達に不公平な印象を与えてしまいます。
クリアする時に要件を変えることが出来たら「不正をした」とプレイヤー同士でトラブルになります。クリアする時に時期を不問にしたら「俺はその時は既にクリアしていたぞ」とプレイヤー同士で張り合うようになります。
恐らく、「生徒と先生」のように生徒が「こういう時代があったんですね」と言ったら、先生がそれにうなずく、という関係しか許されていないのかもしれません。あるいはソムリエと客の関係でソムリエの話に対して客が「もっと聞かせて欲しい」という関係だけなのでしょう。
そういう「下側からの自発的な上昇を伴う提供」に対して上方に位置する存在がそれを事務的に受け取る、という関係に限定されているのでしょう。
別の視点からアプローチしてみますと、自分と社会との関係に対して社会の存在をキャンセル出来る場所があったとしても「その場所は社会的な貢献に対する成果として与える」と社会が決めますし、「その場所を動かすためのリソースはお前が社会に対して与えた成果によって社会が与えている」と社会は主張します。「自分で “天気” を決められる場所」であったとしても、「お前の決めた天気を作るリソースはお前が “外” から持ち出してきたもの」と社会は主張するでしょう。
それで「自分から努力しなければいけなくてもいいことをするための道具」として “募金箱” や “発電所” を作ったとしても「努力をしない人達が増えて示しにならない」「募金箱は自分より不利な立場に置かれているものたちのためにあるのであって、お前が働かなくても暮らせるために置いているのではない」「発電所はみんなで使うためにあるのであって、お前の遊興や娯楽のために使っているのではない」と社会は決めるでしょう。
結局そういう社会は自分自身に対して「自発的な連携を伴う社会的な行動を行うために存在するもの」だと定義していて、他の存在を使って自分の暮らしを作る、ということは認めていません。それが「平等で公正であり不公平でないもの」だと社会は主張しています。「いかに怠けることが出来るか」というのは社会は認めていません。だから社会はこちら側に対して健康かつ健全であることを求め、自己研鑽(さん)に励み、誘惑に惑わされず、鍛練を常に続け、怠惰になってはいけないと要求します。それらが極まると睡眠すら怠惰であると言うのです。
「みんなで怠けよう」としても仲間外れが必ず作られますから。
それらを端的に表現しますと、「○ぬまで自転車を漕ぎ続けなければならない社会」ということです。台風の中でも雷の中でも嵐の中でも火山灰の中でも雨でも雪でも強風でも政治のデモ隊の中でも放射線が降り注ぐ中でも命が果てるまで自転車を漕ぎ続けなければいけません。
そうしたら社会というのは「現代の人類は廃絶された外来の思想に甘えている」と主張します。