均衡のための分離

昔の日本というのはテレビや新聞、文献や映像などの伝聞や見聞に依存した部分が大きいですが、9-22で営業する店舗があったとしますと平日で9-11で学校や仕事が休みだからとゲームセンターに入り浸る若い人達がいて、13-17で仕事が一段落ついて昼御飯を食べに来る大人の客がいて、19-21で仕事終わりに飲みに来たり、ゲームセンターのスロットコーナーに行くサラリーマンがいたりしていました。そういった店舗にはプライバシーがあり、トラフィックというのが穏やかであったという記憶があります。

休日には9-11で年配の方が朝御飯を食べに来たり、13-17で審美的な活動のために大学教授や芸術家、学術的であったり産業的な研究を行う方々や料理人や職人さんのようなこだわりというもので仕事をする方々が来たり、19-21は音楽の演奏や映画の上映、観劇や演劇を観覧するためにお金や時間に余裕のあるお客様が来たりしていました。また、19-21の休日にはそれにつられて若い人も来たりしていて、そこに出会いやチャンスというのがありました。

今の日本は11-13と17-19の「給食」のために営業時間内のトラフィックを全て集めて、まるで競技のように張り切っていかないといけないような印象があります。そこにプライバシーはなくトラフィックで溢れていて、いかにホットラインというものを作っていくかに焦点が置かれているように思えます。

今でこそアスリートがサブカル的な趣味を持ったりすることがありますが、そういったことがネットのニュースサイトで話題になるのは、文部科学省の管轄であるスポーツと文化の庁舎が「スポーツ庁」と「文化庁」に【完全に分離】されていて、そういうハイブリッドは「共食い」や「争奪戦」になって、職域が重複するからでしょう。それでスポーツが上に置かれているような印象があるのは、「身体的に健康であれば精神的な不健康は解決される」と言っているように思えるからでしょうか。

最近ではSNSなどもあって、「社会的な健康」というものにも言及する所が多くなりました。それは「社会的に健康になれないのはあなたの頑張りが足りないから、足りないと思う暇も作らずに努力をしていけば自然に社会的な健康は満たされる」と言われるのでしょう。社会的な待遇につながる社会的な評価というのは、その社会の上層が与えるものであり、上層にとって満足があるかどうかということですので、それは内集団バイアスに依る要素がかなり大きいものになります。

要約しますと「犬か猿であること」ばかりが優先されて、それ以外は違うというのがそういったところの要求なのです。

1998-2002で長野五輪、日本との時差が同じオーストラリアシドニーでの夏の五輪、日韓のサッカーワールドカップでインターネットがダイヤルアップからISDN、ADSL、ブロードバンド、光ファイバーと普及していき株取引も電話からインターネットで注文するようになって、デイトレードという名称で一般市民に普及するようになっていき、資金集めとして対外的な印象の良さとして愛想や愛嬌があることが優先されるようになり、職人や学者や芸術家や研究者という仕事が日陰に置かれるようになってから、新聞などが喧伝する「斜陽」という日本の評価がついてくるようになっていったと思います。


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