見出し画像

規則についてのエッセイ

あらゆる決まり事、いわゆる規則を馬鹿真面目に守っている人を見ると、「この人とは気が合わないな」と確信に近いものを感じます。そのような生き方を否定するわけではなく、純粋に自分とは思想がかけ離れているために、お互いに共感しあえないだろうと思います。ただし、規律正しく生きる人を理解できないわけではないです。理解した上で感謝すらしています。彼らのおかげで、社会の秩序は保たれていると思います。

自分は規則について矛盾を含む3つの思いがあります。それは感謝と嫌悪、軽視です。まず1つ目の感謝ですが、この世界の調和を支えていることに対しての思いです。調和がない世界というのはひどく混沌とした乱世だと思います。右も左もわからない、まとまりもない世を導いたのは紛れもなく規則だと思います。自分は会話の中に表れる微妙な意味合いや、その差異について人と共感し合える時、強く安心感を感じ嬉々としますが、その土台を整えているのも規則だと思います。しかしおそらく、感謝は3つの思いのうち一番比重が軽いです。感謝への思いは心の底から湧き出るものではなく、あくまで形式的な、規則についての理解の中で生まれたその必要性に対するものなんだと思います。

2つ目の嫌悪は、世の中を牛耳る規則の由来や本質が奴隷道徳であることに基づきます。奴隷道徳とは、ニーチェの思想を説明する際に用いられる用語です。デジタル大辞泉の定義を引用すると、奴隷道徳とは『強者の道徳としての君主道徳に対し、強者への怨恨(えんこん)から成立する弱者の道徳』です。君主道徳については『弱者の道徳としての奴隷道徳に対し、権力への意志に基づいて生の充実感にあふれた強者の道徳』と説明されています。規則は基本的に没個性化を促し、集団の構成員に同一であることを強います。また、規則があることで考えることが減り、それが諸動作の円滑化に繋がっていることは確かですが、規則がなければ、根底から従来のものとは異なる手法が開発される可能性は高いと思います。このように、規則は強い個性や異なる可能性を潰すものとして述べることができます。人類の発展を支えてきたものではありますが、人類の異なる可能性についての障害となっています。

3つ目の軽視についてですが、上記のことから明らかであるように、規則は我々に多大な影響を及ぼすものであり、到底軽んじられるものではないと思われます。しかし、極端な言い方をすれば、規則はあってないようなものです。そのような不確かなものに感じられるため、遵守しなければならないと思うことができません。

ウィトゲンシュタインという哲学者がいます。彼は規則についてこう説明します『われわれのパラドクスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろうということを示す。なぜなら、どのような行動のしかたもその規則と一致させることができるからである。どのような行動のしかたも規則と一致させることができるなら、矛盾させることもできる。それゆえ、ここには一致も矛盾も存在しない』。ここで述べられているパラドクスとは以下のような状況です『2人がチェス盤に向かって勝負しているように見える時、我々はチェスをしていると言いたくなる。 しかし、実際は2人は、悲鳴やうなり声をあげたり、足を地団駄することを、チェス盤の駒を動かすことと対応してやっているのだと想像してみよう。通常我々が考えるようにチェスの駒を動かして相手の王様をとることを2人はやっているのではなく、お互いが悲鳴を上げ、足を踏みならすために、特定の駒をチェス盤で動かさねばならないと考えるのだ。そんな馬鹿なと思えるが、それは私たちが慣れ親しんだ経験から言えることで、この2人は全然別のゲームやまともなルールとは言い難い、別種の「ルール」に従ってやっていることを、少なくとも観察する限りでは否定することはできない』。

ウィトゲンシュタインの言説を端的に述べると、「規則が行動を決定することはない。なぜなら、どのような行動においても、規則と一致させることや矛盾させることが可能だからである。つまり、私たちは、行動が規則と一致していると意図的に解釈しているだけである。」となります。このことを踏まえると、規則への従属は社会性を前提に成り立っていると言えます。社会性に疎く、規則の意図的解釈が周囲と同じように自然な形で行われないために、規則遵守の精神が弱いのかもしれません。

【引用】
http://www.cscd.osaka-u.ac.jp/user/rosaldo/091111WP.html


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?