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STOP~B級SF映画の意義

キム・ギドク 監督、脚本、撮影、照明、録音、編集、製作
2015年7月3日 第50回カルロヴィ・ヴァリ国際映画祭招待作品
2016年12月8日 韓国公開
2017年5月13日 日本公開
原題訳 ストップ
宣伝文句「鬼才キム・ギドクが今、どうしても撮りたかった映画」

「原発事故後の世界を描いた問題作『STOP』公開。鬼才キム・ギドク監督インタビュー」飯田高誉(美術手帳)
https://bijutsutecho.com/magazine/interview/4104/

 キム・ギドク論でもある上記を読んだあとでは恐縮するほかないが、私としても一度はじめたことであり、蛇足は承知で書く。

 原発の事故で家を失い東京に移住した夫婦だったが、お腹の子に不安を抱えていた妻は、なぜか突然出産を決意し、反対する夫を振り切りひとり故郷に帰るという物語。
 前半が妻(マリア)のお腹の子(神)をめぐっての、国家(悪魔)と夫(ヨセフ)の争い、後半が母性(妻)と社会(夫)の対立になるところがキム・ギドクらしいが、夫の破壊工作が現代文明への怒り、妻の帰郷が未来への責任を描いたところに本旨はある。

 私の想像に反し、放射能汚染の描写がことさらグロテスクというわけでもないのだから、パッケージ商品にならない理由は、商業映画として低調だということなのだろう。福島の事故から既に4年という時間が経過していたという事実がキム・ギドクの心を急がせたか、確かに完成度は低い。

 ただリアリティの点で批判するのは筋がちがうと思う。
 夫婦が現在の東京から浮いてみえるのは、4年前の福島からやって来たからだ。最後に明らかになるが、本作はB級SF映画なのである。社会批判の意図は強いがエンタメとして製作されている、一種のタイムスリップものであり、夫婦に漂っている違和感には、新宿の夜を眺めるキム・ギドクの、異邦人としての心情を重ねて観ることができる。

 送電線を倒す夫をナンセンスだと冷笑する前に、原発を止められない我々の戯画だということは理解しておくべきだ。実体資産である国土の損失を、幻想にすぎない経済という金勘定で補填できると考える人々のほうが滑稽ではないか。
 電力会社も本音ベースでいえばメリットがない原発を導入したいわけはない。国のエネルギー計画に従っているだけで、その意味では「組織と人間」をテーマにした前作、『殺されたミンジュ』を補完する作品といえる。

 さて、既に国際的名声をもつキム・ギドクが、出来栄えの悪い本作を国際映画祭に出品した。自作に「100%の満足は求めない」と言うキム・ギドクだが、少なくとも失敗作だとは考えていなかったとは言えまいか。実際、シナリオは旧作と比べればシンプルではあっても、劣るものではない。

 そうなると問題は演出だが、役者の素人演技はおそらくノーギャラで日本語がわかる助監督も付けず(撮影、照明含め一人で撮っている)、基本ワンテイクで終わらせた結果だろう。低予算で撮りたいときに撮れる方法で撮ったということになろうが、商業映画のスタンスではない。

 『うつせみ』、『悲夢』で明らかなように、キム・ギドクは映画における言語に自覚的な監督であり脚本家だ。それが作品に世界性を与えてもいる。
 あの演技にキム・ギドクが問題を感じなかったとすれば、日本語が母国語でない観客にも問題にならないということになる。つまり日本人は海外からみればあのように見えるのだ。しかし、役者の演技に鈍感な映画監督というものが存在するだろうか。
 なにより日本を舞台に日本語で撮ったのである。日本の観客に観て欲しかったはずなのだ。その二点を考えたとき、素人演技は当初から運出の範疇にあったように思えてくるのだ。やはり眼目は言語表現にあったのではないか。
 
 極端に稚拙なセリフ回しを使って、夫婦の幻想、あるいは日本国内で流通する妄言を示そうとしたとは考えられないか。

 観客に「誰も観たことがない映画を撮り続けることをお約束します」と宣言したキム・ギドクの狙いはどこにあったのか。彼の作品だと知らなければ愚作と切り捨ててしまったはずだが、そこからみる『STOP』は実に面白い。

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