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連載第5回 『ケアの贈与論』

 現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学教授の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

 第5回は、平川克美さんの本を出発点として「贈与」と「ケア」の関係を考えます。平川さんが指摘する「贈与の秘密」、クロポトキンの「相互扶助」、そして、ギリガンの「ケアの倫理」を同じ俎上に載せることで見えてくる、これからの「贈与論」のあり方とは?

贈与の秘密

岩野卓司


 平川克美という文筆家がいる。

 文筆家という肩書があてはまるかどうかはわからない。彼は、翻訳を主業務とするアーバン・トランスレーションを設立したり、リナックス・カフェを設立したりした、立派な実業家でもあるからだ。シリコンバレーのBusiness Cafe Inc.の設立にも参加した経験もあるそうである。それとともに、経済や社会についていくつもの著作を世に問い続けている。

 そういった著作のかたわらで、彼は介護についての本も書いている。

「俺」の手料理

 彼は一年半にわたり父親を家や病院で介護したが、その体験を『俺に似たひと』という一冊の本にまとめている。平川によれば、この本は「わたし」が語る手記ではなく、「俺」というフィルターを通して自分の介護の体験を綴る「物語」なのである。「物語」といっても、これはフィクションではない。このフィルターを通すことで、作者は介護体験の生々しさやそれを語る気恥ずかしさに、一定の距離をもって接することができたのだ。いわば、作者が距離をおいて見つめた自分の分身が語る「物語」なのである。

 母親が死んだあと、残された父親と「俺」は実家に同居して生活することになる。母親に家事を任せっきりにしていた父親は、持病をかかえて弱っていたこともあり、一人で生きていくのは難しかったのだ。

 この介護の「物語」には、「俺」が料理をつくることについての生き生きとした描写がある。実際、親の介護は最終的には死で終わり、親の体も心も弱っていく姿を目の当たりにしたり、親もそういう自分の姿に自尊心を傷つけられて自暴自棄になったり、悲しくつらい話が多い。そういったなかで、この料理の話は実に楽しい。介護の初期で父親がまだ元気で毎日の食事を楽しみにしていたころの話である。介護生活の父親にとって楽しみは、食べることと風呂に入ることだけだったのだ。

 「俺」がつくった料理は、「鍋に野菜類を放り込んで煮るだけの、コンソメ味のポトフ」、「試行錯誤を繰り返したチャレンジングなカレー」、「たくあんを細かく刻んで混ぜた特製チャーハン」、「醤油と砂糖で味付けした玉子焼き」といったものである。

 手軽にできる男の手料理であったが、父親は喜んだ。晩年の母親は料理を作る体力も気力も失い、自炊のできない父親は刺身ばかり食べさせられていた。「俺」の料理は簡単なものであったが、手をかけた料理だったから喜んでくれたのだろう。そんな「俺」に父親は「お前は料理がうまい」と何回も言った。

 嬉しくなった「俺」は、料理にさらに工夫を凝らすことになる。

 「料理本サイトを見ながら、ロールキャベツやハンバーグなどもつくった。バーニャカウダーなどという、覚えたばかりのソースをつくってみた。」

「カレーは特に創造性を要求される料理で、さまざまなルーを組み合わせたり、香辛料を混ぜたり、ときにはチョコレートやココナッツミルク、醤油などを隠し味で配合する。失敗もあったが、大方はおいしいカレーができた。」

 食後には、甘党の父親を喜ばすために、デザートに「クリームぜんざい、アイスクリームと水菓子、ジャムがけヨーグルト」などもつくった。

 最初は、父親に何を食べたいか聞いて料理をつくっていたが、途中からは父親が何が食べたいかわかるようになっていった。お互いに喜びを感じ合う料理をとおしての以心伝心であろう。

 それまで料理をしたことのない「俺」であったが、介護を通して料理の腕をあげて、父親に褒められるほどに上達した。父親に「おまえは料理がうまい」と何度も言われて、嬉しくなってさらに料理の腕に磨きをかけていったの【1】

贈与の秘密

 この料理については後日談がある。それは『俺に似たひと』のなかでは語られていない。父の死後に作者の平川が、自分の介護体験を振り返って、『21世紀の楕円幻想論』のなかで次のように語っている。

 父親が死んでから、わたしはそれまで、毎日欠かさず行っていた料理をする習慣を無くしました。毎日毎日会社が終われば、スーパーマーケットに立ち寄って食材を買い込み、一週間の献立(いや、頭の中の献立らしき料理一覧)にしたがって、夕食の料理にとりかかっていたのですが、父親の死を機に、ほぼ外食の日々となってしまったのです。
 自分のために、料理を作ろうという気持ちがまったく萎えてしまいまし【2】

 どうして父の死後に料理を作るのをやめてしまったのだろうか。なぜ平川はあれほど上達した料理を作って、自分の口腹の欲を満たそうとしなかったのだろうか。どんなに忙しくても毎日欠かさず買いだしをして料理を作り、父親といっしょに食べたのに、父が死んでしまうと、彼は料理をつくらなくなってしまったのだ。その理由について、彼は次のように説明している。

 そのときに、わたしが考えたこと。それこそ、贈与の秘密だったのではないかと思ったのです。つまり、ひとは自分で思うほど自分のために生きているわけではないということです。家に自分が作る料理を待っていてくれるひとがいれば、ひとは何があってもそれをやろうとするだろうし、そこに喜びも見い出せるのですが、自分のためだけに味や栄養を考えて料理をつくろうという気にはなれないので【3】

 贈与とケアの関係を考えるうえで、これは大変貴重な証言である。父親が亡くなったあと、平川が料理をつくるのをやめて外食の日々を送っていたのは、料理をつくることに喜びを見い出せなくなったからである。介護をしているとき、自分の料理を喜び待ち望んでいる人がいるから、彼は料理をつくることに喜びを感じて、一生懸命料理をつくったのだ。僕らは、人が喜ぶ姿からその人のためにサービスしようという気持ちになる。だから僕らは、他人のために生きることに喜びを感じることができるのである。

 平川はここに「贈与の秘密」を見ようとするが、これは贈与とケアの関係を考えさせる、とても鋭い洞察である。人が贈与するのは、他人を喜ばせるためであり、他人が喜ぶ姿を嬉しく思うからである。ここに贈与の原点がある。例えば、クリスマイブに両親がサンタクロースのかわりに子どもたちの枕元にプレゼントを置くのも、子どもたちを喜ばせたいからであり、子どもの喜びを見て自分たちも嬉しく感じるからである。それは子どもたちに借りの感情を抱かせたり、感謝を求めたりするためではない。ただただ、与えたりサービスしたりすることに喜びを感じるからである。平川が料理を作ることに喜びを感じたのは、こういった贈与の原点に存在する感情からである。

 そして、重要なことは、父親に料理を贈与して喜ばせるのは、父親への単なる恩返しからではない、ということである。これはケアの根本についての考えにもつながる。老いた父や母を介護するのは、彼らに育ててもらい世話になった、その恩返しをしたいからなのだろうか。平川が父親の食事をつくったり、下の世話をしたり、お風呂に入れたりしたのは、すべて恩返しのためだったのだろうか。もちろん、そういった気持ちが人の心にあるのを、僕は否定しない。ただ、平川の書くものから読み取れるのは、単なる恩返しよりももっと根本的に、好きな父親を喜ばせたいという気持ちである。人の喜ぶ顔が見たいし、それが自分も嬉しいという、もっと普遍的な感情が、そこにはある。ここに贈与の原点があるとともに、ケアの原点があるのだ。

相互扶助

 人は自分のためだけに生きているのではない。ふつうは誰でも自分が大事だと思っているだろう。たしかに、私たちはさまざまな局面でエゴをむき出しにしたり、わが身かわいさに保身に走ったりする。しかし平川によれば、「人は自分のために生きる」という考えはホッブス以来、資本主義が産み出した偏見であり、人類史的には歴史の浅いものに過ぎな【4】。たしかに、ホッブスの自然状態は「万人の万人に対する戦い」であり、各人はその生存を脅かされている。利潤を求めての自由競争という面においては資本主義も同じような戦いの状態である。弱い会社はつぶれていき、強い会社のみが生き残る。ホッブス流の考え方や資本主義の弱肉強食のみを見るならば、人間は「自分のために生きる」という個人主義こそが正しいと思うかもしれない。どんなにきれいごとを言っても、自分の命、自分の財産、自分の地位が大切なのである。しかし、こういう個人主義の発想が誕生したのは、近世のある時期であって、人間はもともと個人主義的に生きていたのではなかった。ケアが呼び起こすのはこういった記憶なのである。

 それは、相互扶助の記憶である。人はお互いに助け合って生きてきたのである。人だけではない。動物ですらお互いに助け合っているのだ。そういった記憶が受け継がれて現代の僕らの心のなかにも宿っている。そのことを体系的に論じたのが、ピョートル・クロポトキンの『相互扶助論』である。例えば、蟻はお互いに助け合って巣を作ったり、外敵と戦ったりするし、狼は群れをなし協力し合いながら狩りをする。それが人間にも受け継がれている。アフリカ、オセアニア、アメリカの先住民の社会では、自己犠牲と献身によってお互いに助け合っているし、中世の諸都市やギルドでは、封建的な身分を超えての相互扶助が見られる。近世の村落共同体では、繁忙期に農民たちはお互いに助け合って仕事をするし、近代の労働組合においては、職種に関係なく団結をしている。こういった歴史にクロポトキンは相互扶助の精神を読み取っていくの【5】

 僕らはこの記憶を大切にしよう。いかに世の中にエゴイズムや個人主義が浸透しようとも、人は利己だけに還元できない。自分のためだけに生きているのではないのだ。それが平川が介護の体験から得たものである。ケアの喜びを考えていくと、そこには他者を助ける関係、いや思わず助けてしまう関係が存在している。そして、これはまたケアにおける「贈与の秘密」なのである。人は贈与したりサービスしたりして相手を喜ばせることで自分も喜びを得るのである。そういうつながりをとおして相互扶助があり、人間の種も維持されるのだろう。

 さらに、こういった他者とのつながりには、ギリガンの主張する、「取り残されたり傷つけられる者は誰ひとり存在しない」「ケアの倫理」を見出すことができるだろう。ケアをとおして全ての人が受け入れられる場では、どんな人でもつながることのできる共同性が生じるからである。このつながりは、「正しい人」と「正しくない人」に分けてしまう「正義の論理」では掬い取れない根本的な関係である。来るべき贈与論は、ケアによる「贈与の秘密」を受け入れることで、共同性と深い関係を持つのではないだろうか 。

 ここにケアにおける贈与と「根源的な共同性」が結びつくひとつの手がかりがあると思われる。

連載第6回は、8月30日(金)公開予定です。

【1】平川克美『俺に似たひと』医学書院、2012年、59–63頁。
【2】平川克美『21世紀の楕円幻想論──その日暮らしの哲学』ミシマ社、2018年、44頁。
【3】同、44–45頁。
【4】同、49頁。
【5】ピョートル・クロポトキン『相互扶助論 〈新装〉増補修訂版』大杉栄訳、同時代社、2017年。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

↓ 第1~4回の記事はこちらから


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