連載第2回 『ケアの贈与論』
イントロダクション(後篇) ケアにおける贈与と共同性
岩野卓司
他者との非対称な関係、誰も取り残さないという理想と複数の性の声の解放、何も共有しない共同性。これらはケアにおける「根源的な共同性」の条件だ、というのが前回の結論だった。
それでは、このケアにおける「根源的な共同性」と贈与はどう関係しているのだろうか。これを問うていくのが、この連載の主題である。今回のイントロダクションではその方向性だけを示しておこう。
前回、最首悟が「社会主義思想も共産主義思想も、その根源的な共同性に思いをいたして、というより、共同性が危うくなる一方の状況の打破をめざして生まれてきた」と書いていたことを思い出してみよう。
社会主義や共産主義の思想が誕生したのは、「根源的な共同性」が脅かされていたからである。最首は「根源的な共同性」が抑圧されてしまう原因が資本主義にあることを看破していたのである。例えば、利潤の追求、競争、弱肉強食を基調とする市場原理が支配的になると、「どの人も取り残されたり傷つけられたりしない」というギリガンの理想は、ほとんど不可能になってしまう。誰かの支えが必要な障がい者や高齢者は「役に立たない」というレッテルを貼られて、社会から切り捨てられてしまう危険があるのだ。
資本主義のこういった行き過ぎを防ぐために、19世紀のヨーロッパ以来、社会保障の制度が整えられてきた。『贈与論』の著者マルセル・モースは学究的な人類学者であるとともに社会主義の活動家でもあった。彼はオセアニアや北米の先住民たちの風習、古代ローマやゲルマンの法などを研究し、そこから贈与にはお返しの義務があるという法則を導き出したが、『贈与論』の結論部分では、彼が生きていた20世紀前半の社会を論じ、そこで先住民や古代人たちの贈与の知恵によって利益追求の社会のあり方を変えようと試みたのだ。彼によれば、それまで地方の村などで多く見られた贈与の習慣もしだいに失われていき、人間は「エコノミック・アニマル 」になりつつあった。彼は資本主義社会の行き過ぎを警戒していたのである。
そこでモースは、社会保険を贈与交換の理論で根拠づけようとした。労働者は自分の労働の対価として給料をもらっているとふつうは考えられがちだが、そうではない。労働者は自分の労働力だけではなく、自分の生命も雇用者に贈与し委ねているので、雇用者はお返しとして給料のみならず、何かあったときのための保障もしなければならない。疾病や失業の保険、年金などである。そのため、雇用者は他の雇用者や国と連携して社会保険というお返しの義務を果たさなければならないのだ。贈与交換の理論は、現代で新しいかたちで生かされているのである。ここにケアと贈与が結びつくひとつの理由がある。
ケアと贈与が結びつくもうひとつの理由は、贈与が与える者と受け取る者のあいだに精神的なつながりをもたらすということにある。資本主義が前提にしているのは市場における交換であり、ふつうは数値化されたものの等価交換である。そこでは、他者との関係も数値化され、等価であるかどうかが問題になる。心のきずなも利潤につながるかどうか算定されて、その役に立つならば考慮に入れられるが、そうでなければ無視される。ブティックの売り子の仕事や車のディーラーの営業を思い浮かべてみれば、容易に理解できるだろう。こういった交換体制の下で、「根源的な共同性」を見つけることはできるだろうか。たしかに、ケアにおいても介護ビジネスは存在しているし、今の僕らの生活が市場原理抜きになる事態を想像するのはむつかしい。しかし、ケアは教育や医療などと同じように、市場での交換に馴染まない面をもっているのではないだろうか。他者との非対称な関係、誰も取り残さないという理想、何も共有しない共同性、どれも等価交換に還元できない面をもっている。
贈与には、プレゼントなどからもわかるように、人と人をつなげる有縁的な性格がある。貨幣と商品の等価交換と違い、プレゼントを通して人間どうしの精神的な交流が存在するのだ。モースが『贈与論』のエピグラフとして引用している北欧神話『エッダ』のなかの「友情」についての件には、友人どうしお互いに贈与をしあうことで友情は維持できることが説かれている。贈与は心の交流と結びついているのだ。僕らの身近にもいろいろと例がある。バレンタインのチョコレートにしろ、クリスマスのプレゼントにしろ、恋人から恋人、あるいは親から子へのプレゼントというかたちで、愛情を表現している。お中元やお歳暮も、お世話になった人への感謝の気持ちをあらわしている。贈与は物の授受を通して心のきずなをつくることなのだ。
だから、障がい者、子供、高齢者をケアする際に、贈与による交流は必要不可欠なものではないだろうか。この場合の贈与は、物質的なプレゼントには限定されない。献身やサービスまでふくめて広い意味での贈与なのだ。贈与が「人に物を与えること」や「人に自己を与える(委ねる)こと」を通して、サービス、自己犠牲、相互扶助などと結びつくからである。贈与は利潤を求めるための交換とは異なる人間の行為なのだ。もちろん、バレンタインやクリスマスの贈与も資本主義の商業戦略に乗せられたものではあるが、そうした経済の真っただ中でも贈与にはある種の精神性がともなっている。それは贈与が必ずしも等価交換に従わないからである。
さらに、もっと深い次元ででも贈与について考えていく必要がある。モースの『贈与論』では、贈与には必ずお返しの義務がともなわれていた。何か贈り物をもらったとき、そのままもらいっぱなしで何もしないでいたら、贈り主との関係は切れてしまう。最低でもお礼の言葉ぐらいは必要だ。関係を強めたいのであるならば、こちらからもお返しの贈り物をする。モースが取り上げた「友情」のエピグラフが示すように、片方が贈与しているだけでは社会的な関係は成立しない。社会的な慣習の多くは、贈与に対してお返しを要求する。しかし、贈与はその本性をよく考えてみれば必ずしも贈与交換にとどまってはいない。特にケアの場合は、もっと根本的な贈与にまで至る。例えば、ほとんど無反応になっている障がい者や高齢者に接する場合である。彼らとは話す内容での共有物が見つけられない場合がある。それでも彼らが、こちらの呼びかけに何か身体的に反応してくれたとしよう。そのとき、これはこちらの言葉の贈与に対して相手が応答してくれたことだ、と言えるのではないだろうか。通常のコミュニケーションのできない者との交流、共有するものをもたない者との共同性は、ある種の贈与によって開かれるのではないだろうか。そして、「根源的な共同性」は、ケアにおけるこの贈与と深くかかわっているのではないだろうか。
連載第3回は、5月31日(金)公開予定です。
註
【1】拙稿「ケアの贈与論 イントロダクション(前篇) ケアと共同性」。
【2】同。
【3】M. Mauss, Essai sur le don, puf, Quadrige, 2012, p. 231.『贈与論』森山工訳、岩波文庫、2014年、431頁。
【4】Ibid., pp. 216–217. 同、400–401頁。
【5】Ibid., pp. 61–63. 同、53–58頁。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。
執筆者プロフィール
岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。
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