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連載第7回 『ケアの贈与論』

 現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学教授の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。

 第7回では、「ケアの両面性」と題し、ケアの肯定と否定の側面に目を向けます。ケアが与える「心地よさ」や「不快さ」とどう向き合えばいいのか、立岩真也さん、最首悟さん、フロイトの議論をもとに考えます。

ケアの両面性 

岩野卓司

 ケアとキュアの違いはご存じだろうか。
 
 今の時代は、きちんと区別されている。ケアは介護をさし、キュアは患者を治す医療行為をさす。ただ、その語源を遡ると、両者の関係は曖昧になってくる。

 ケアはゲルマン系の語であり、もともとは「心配」の意味であった。さらに遡ると、「悲しみ叫ぶ」の意味だそうだ。そこから、「悲しみ」の意味は「気がかり、不安」に変わり、「心配」の意味になっていった。

 キュアのほうはラテン語のクラに由来し、もともと「注意、気遣い」の意味と「治療」の意味をあわせもっていたが、「注意、気遣い」のほうは失われ、「治療」の意味だけになってしまった。

 逆にケアのほうは、「注意、気遣い」の意味が取り込まれて、現代では「心配」だけではなく、「注意」と「世話」の意味もあわせ持つようになっ【1】

 ここにはケアの両面性があらわれている。一方でケアは、不安や心配と結びついており、もう一方でそれを鎮めるための気遣いであり、世話なのである。キュアの一部の意味がケアに移ったのも、こういった二つのことが必要だったからではないだろうか。ケアは治療ではないにしろ、不安を鎮めるための何らかの行為であると思われる。

 ここからケアは、世話や気遣いを通して「不安、心配、気がかり」を「安心、充足、喜び」へと変えていくことだ、と思われる。ケアをおこなう上で、不安を解消していくこういった操作は必要であろう。ケアされる人は、子ども、障がい者、高齢者のように、誰かの助けがないと生きていけない人も多い。死を迎える人たちの「不安」を鎮めて、「安心」や「喜び」に変えていくことも、ケアする人にも求められるだろう。

 ケアする人は、ケアをすることで喜びを得る。これは贈与すること、サービスをすることで相手を喜ばして自分も喜びを得ることである。ケアによる喜びを利他という面で徹底していくと、身内に対してであろうと他人に対してであろうと、たぶん最終的には差異はなくなるだろう。それは人間の他者に対する根本的なあり方だからである。

 しかし、ケアはそれだけではない。ケアする方にも不安、つらさ、負担などがつきまとうからである。そこには拭いがたい負の側面がある。それを覆い隠してケアの贈与に喜びだけを見ていくのは大変危険である。不安でつらいからこそケアは美しい行為であるという物語に収斂させてしまうことは、現実から目を背けることにつながる。それは、ケアの本質を見落としてしまうことのように思われる。

ケアの両面性

 社会学者の立岩真也は、『弱くある自由へ』のなかでケアの両面性について主張している。まず、ケアには肯定的な面がある。「人の生活を助けたり支えたりすること」はいいことである、という気持ちは誰にでも存在する。

 一つ、人が生きていくためにその人に手を貸すことは肯定されるべきであるとされ、また肯定的なことであるとされる。どうしてかはよくわからないが、なすべきことだと思っているところがある。単にしなくてはならないというだけではなくて、行ないたいという部分がないのではない。その行ないからそれなりに充足感のようなものを感じることもある。ときにそこから受け取るものもある。頼られていること、依存されていることも、時には、充実をもたらすだろう。そうした契機もたしかに存在はす【2】

 こういった面を強調することは、「介護にあたる人たちを肯定し勇気づける」ことにもなるだろう。介護を行なう者のモチベーションは、家族であろうとプロの人間であろうと、このサービスする肯定感、贈与する肯定感に支えられている。父親の嬉しがる姿に触発されて料理をつくることに喜びを見い出した平川克美の体験も、障害をもった娘を介護してきた体験から、人のために何かをすることに喜びを感じ、それを自発的な内的な義務とすることで人は充足感を得られると主張する最首悟の考えも、贈与の肯定感にもとづくものだろ【3】

 しかしもうひとつには、ケアには負担であり、そこから逃れたいという気持ちがともなう。例えば高齢者の介護は、それ以上よくなる見込みがないという前提に立っており、相手は徐々に衰弱していくので、それを見ているだけでもつらい。それが自分の父や母、妻や夫だったら、なおさらつらい気持ちになる。しかも、介護はいつ終わるかもわからない。負担が不安を生んでいく。介護のために仕事を辞めたが故に生活が困窮におちいり、生活それ自体が成り立たなくなるケースも見受けられる。また、老々介護という、老夫婦、老いた兄弟姉妹が互いに介護するケースもよくある。立岩は次のように述べている。

 〔…〕やはりつらいことがある。一つには、他のことができないということがあるだろう。また、終わりがいつ来るのかわからないことをそのわからない終わりまで行なわなくてはならない重さもあるだろう。自分(だけ)がずっとやらないとならないとしたら、私がだめになったらだめになるという恐さのようなものもある。その人の生死に関わっているということは、その人をそう簡単に死なすわけにはいかないとすれば、それは「張り」や「甲斐」をもたらすとともに、かなりの抑圧になることがある。頼られることは時に気持ちがよいことであったりするのだが、それがどこからか重荷に変わる。あるいは正と負の両方の契機がまったく同時にあ【4】

 ここで立岩が指摘しているように、ケアには肯定と否定の両面がある。「やりがい」や美化に値する面がある一方で、つらい現実や先行きの不安に向き合わなければならない怖さもある。「やりがい」が負担になってくる場合もあるだろう。ケアの贈与の両面を同時に見ていかなければ、ケアの本質はつかめない。ケアの肯定感のみを強調するとすれば、それはケアの本質を見誤ることになるだろう。しかもケアの両面性は、そう簡単に解消できるものではないのだ。

排泄物と清潔な社会

 ケアの肯定的な面を語った最首悟も、論文「ケアの深源」のなかで、その否定的な面にも言及している。それは何かというと、排泄である。排泄はケアの否定的な面のほんの一部かもしれないが、それを考えるための端緒になりうる例だと思われる。

 否定的な気持ちは例えば、重度の障がいをかかえた娘の星子が風呂のなかで排泄をしたときに感じられる。父親は娘といっしょに風呂に入るのだが、これが大仕事である。そのために歌をうたって娘の気持ちを落ち着かせたりする。それ以上に、排泄は厄介だ。特に大便のときは臭くて大変だ。経血もデリケートな問題を父親に突きつけてくる。甥たちは3歳ぐらいから「星子と一緒に入るのは臭いからいやだ」と言い出す。その言葉に、父親も自分もいやだとどこか思っていることに気づかされてしまう。ケアには「臭い」「汚い」といったいやな面がつきものなのだ。

 ケアに慣れてくると、この「臭い」「汚い」にも慣れてくる。しかし、「嫌だと思うことが薄れているのは危険ではないか 」と、最首は鋭く指摘している。ケアの面倒で嫌な面は、何かを告げてくれるのではないだろうか。

 人はいやなことがあったら、それを見ないようにすることがある。精神的なダメージを受けないための、心の防衛機制と言われるものである。感覚を無機的なものにして、ショックを受けないようにするのである。これは不快なことに快を覚えることではない。不快なことに心を閉ざして無感覚になるだけなのだ。こういったかたちで何かが忘れ去られてしまう危険に注意しなければならない。ケアにおける否定的な面が解消された、とここで安心してしまうと、それが訴えかけているものが、見失われてしまうのだ。風呂での星子の排泄が告げる臭くて厄介なものを、ただの解消すべき対象としか見なさないとすると、ケアの本質的な面を考えずに、そこで思考がストップしてしまうのではないだろうか。

 振り返ってみると、今の時代の日本は清潔であることを暗黙のうちに強いられる社会である。ドラッグストアを見てみると、除菌ティッシュ、抗菌グッズ、殺菌スプレーなどが山積みになっている。コロナ禍でアルコール消毒とマスクが強いられて、僕らの清潔の感覚はさらに鋭敏になったかもしれない。

 かつては東京でもトイレはくみ取り式であった。ある代議士は自分の選挙区で水洗式を普及させることを公約にしていたと聞く。今はほぼ全域で水洗式になっており、バキュームカーが各家を回る姿は見られなくなった。地方の山間部ではまだ下水道が普及していないところもあるので、バキュームカーも活躍しているのだが、僕が目にしていたような往年の車の姿ではイメージが悪いので、最近は消臭はもちろんのこと、スタイリッシュな車体に変わっており、ぱっと見ではわからないようになっている。

 僕も子どものころ地方に住んでおり、畑のなかの道を歩いていると、その側に肥溜めがあり異臭を放っていた。人の糞尿を発酵させて再利用する、江戸時代からの生活の知恵であったが、化学肥料と水洗トイレが普及した現在、あまり見かけなくなってしまった。東京では競馬場の近くに住んでいたこともあったが、厩舎の人が馬をよく散歩に連れ出し路上を馬が闊歩していた。そのとき馬が糞をたらして、そのままになっていた。出来立ての馬糞にもよくお目にかかった。散歩中の犬のウンチも飼い主が始末することを求められる今からすると、何ともおおらかな時代であった。今の僕らは、他人や動物の排泄物に接する機会はめっきり減ってしまったのだ。

分身としての排泄物

 無菌化に向かっている世の中で、ケアは他人の糞尿と接する機会を強いる。赤ちゃん、障がい者、高齢者のおむつを交換し、排泄物を処理し、体を洗って拭いたり、薬を塗ったりする。否が応でも、排泄の不潔さと向き合わなければならない。介護士の三好春樹は、最首悟との対談のなかで、自分は「介護職よ、北欧に行くよりインドに行こう」と呼びかけて毎年インドツアーをしている、と告白してい【6】。社会福祉の先進国といわれる北欧より、衛生観念に乏しいインドのほうが、介護の仕事にとって得るところが多いそうである。対談で彼はこう語っている。

 排泄物や分泌物の臭いがいっぱいある社会の一種の健全さみたいなものがインドにはあって、それが今の日本ではどんどんなくなっているという気がして、だから私はチャンスがあれば植松青年をインドに連れていきたいと思うんです。だけど、あそこまで自分の中の分泌物、排泄物は自分自身の分身であるという、自己確認の一番の基本を完全に殺して、優生思想というところで凝り固まっている人には、インドの治癒力も通用しないかなと思ったりしています。今後最首さんとの往復書簡を注目して見ていきたいと思っているところで【7】

 植松青年とは、2016年に神奈川県で45人の障がい者を殺傷した「やまゆり園事件」の犯人の、植松聖死刑囚である。この時期、植松は獄中から最首と往復書簡を交わしていた。二人の書簡は、最首の著書『こんなときだから希望は胸に高鳴ってくる──あなたとわたし・わたしとあなたの関係への覚えがき』(くんぷる)のなかで読むことができる。優生思想の持ち主の植松は、生産能力もなく役にもたたず、糞尿や涎を垂らして周りに迷惑をかける障がい者は生きる資格はなく抹殺されるべきだと考え、それを実行に移した。植松の行動の背景のひとつに現代の無菌化した日本社会があるのではないか、というのが三好の意見であり、そうであるから彼は、植松をインドに連れて行きたいと望むのだ。インドは、排泄物や分泌物が辺り一面に感じられる世界なのである。

 ここで重要なのは、異臭のする排泄物や分泌物は、もともと僕らの体の中にあったものであり、それが外に排出された結果だということである。だから、それらはもとは僕らの体の一部であり、その意味で僕らの分身とも言えるだろう。こういった基本的なことを確認できると、ケアにおける不快な作業も快に変わる可能性もでてくる。これは排泄物などに無感覚になることではない。それらとともに生きることに、ある種の心地のよさを感じることなのである。

 精神分析学のフロイトは「不気味なもの」という論文で、僕らが不気味に感じるものはかつて馴染みであったものだ、と主張する。正体不明の不気味な幽霊も、かつて生きていたときその辺で生活していた人間だし、薄気味悪いドッペルゲンガー現象もとどのつまりは自分の分身である。神経症患者は女陰を不気味に感じるが、これもかつて自分がそこから出てきた馴染みの場所への回帰なのである。不気味なもの(Unheimliche)は、馴染みのもの(Heimliche)なのである。馴染みなものが意識にあらわれようとすると抑圧の刻印が打たれ、不気味なものとしてあらわれるの【8】

 この考え方は、排泄物や分泌物にも当てはまるだろう。それらも自分の体のなかの一部で慣れ親しんだものである。ところが、外に排泄されたとたん異臭を放ち、遠ざけられてしまう。無菌社会はそれを徹底し助長する。だから、インドに学ばなければならないのだ。排泄物や分泌物は自分の分身であることを理解しなければならない。不快なものは、排除されたものではあるが、実は馴染みのある心地よいもののあらわれなのである。

 そう考えてくると、心地よさと不快さがつながる。ケアの贈与の両面性は、二重のものであり、反転可能である。無菌社会が強いるケアの不快さは、分身としての排泄物・分泌物との共存というかたちで快にもなりうるのだ。

 この両面性は、快と不快の両義的な真実を暴いているのではないだろうか。

連載第8回は、10月25日(金)公開予定です。

【1】江藤裕之「通時的・統語論的視点から見たcareとcureの意味の相違 ──care概念を考えるひとつの視点として」『長野県看護大学紀要 9』、2007年、1–8頁。
【2】立岩真也『弱くある自由へ──自己決定・介護・生死の技術 [増補新版]』青土社、2020年、236–237頁。
【3】当連載「ケアの贈与論 第5回 贈与の秘密」「ケアの贈与論 第6回 頼り頼られるはひとつのこと」を参照のこと。
【4】立岩、238頁。
【5】最首悟「ケアの淵源」、川本隆史『ケアの社会倫理学──医療・看護・介護・教育をつなぐ』所収、有斐閣選書、2005年、228頁。
【6】最首悟『こんなときだから希望は胸に高鳴ってくる──あなたとわたし・わたしとあなたの関係への覚えがき』くんぷる、2019年、179頁。
【7】同、180頁。
【8】「不気味なもの」藤野寛訳『フロイト全集17』岩波書店、2006年、1–52頁。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。

執筆者プロフィール

岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。

↓ 第1~6回の記事はこちらから


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