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《自動化時代の新しい経済モデルとは?──人新世のオルタナティブをめぐって》 李舜志著 『ベルナール・スティグレールの哲学』 に関連するインタビューを公開します!

 小局では本年(2024年)2月、李舜志著『ベルナール・スティグレールの哲学──人新世の技術論』を刊行しました。
https://note.com/hup/n/na816b9cc65cc
 本書はその後、『毎日新聞』『現代ビジネス』『図書新聞』に書評が掲載され、スティグレールの先端的思考のエッセンスを明晰な日本語で展開したことを非常に好意的に評価していただけました。

 そして、本書ではスティグレールの多くの著作からさまざまな論点が扱われていますが、とりわけ後半部では、現代資本主義世界での「労働の自動化」の問題、来たるべき「協働型経済」にむけての社会実験のテーマが扱われています。知と労働とコモンズをめぐる、現代社会の喫緊の課題について、晩年のスティグレールは思考を続けていました。

 この論点に関し、著者の李舜志氏による探究の延長として、スティグレールのプロジェクト関係者への最新のインタビュー記事を寄稿していただきましたので、本スペースに特別公開します。
 インタビューおよび記事掲載を快諾いただいた IRI のサリム氏とデュルベッケル氏、そしてみずから日本語に翻訳し、文章を整えてくださった李舜志さんに、心よりお礼申し上げます。(編集部)


《自動化時代の新しい経済モデルとは?
──人新世のオルタナティブをめぐって》


 拙著『ベルナール・スティグレールの哲学 人新世の技術論』では、フランスの哲学者ベルナール・スティグレール(1952–2020)が、デリダやハイデガー、フッサール、シモンドンといった哲学者のテクストを批判的に読み解きながら、自らの哲学を発展させていく過程を解説した。

 さらにスティグレールの理論は、哲学史を再解釈するだけでなく、現代の資本主義や人新世の危機を乗り越えるための社会実験へとつながっている。スティグレールにとって人新世の危機とは自然環境だけでなく、精神環境の危機も含まれる。この危機を解決するためには文化だけでなく、労働や生産の仕組みを抜本的に改革し、新しい経済モデルに移行しなければならない。

 そこでスティグレールは IRI(Institut de Recherche et d'Innovation)と協力し、パリ郊外のセーヌ=サン=ドニ県で「協働型経済(économie contributive)」という社会実験をはじめた*1。このプロジェクトは地域社会の再生や持続可能な経済システムの構築を目指しており、AIをはじめとした労働の自動化をスプリングボードとして、未来志向の社会変革を試みるものである。

 このインタビューは、IRI のスタッフであるモード・デュルベッケル氏とリワド・サリム氏の来日に際して2024年5月11日(土)に行われた。筆者は『ベルナール・スティグレールの哲学』を執筆中に両氏と知り合い、スティグレールの哲学について、また彼が主導したさまざまな社会実験についてメールで意見を交換してきた。

 ふたりはセーヌ=サン=ドニ県で行われている社会実験に携わっており、デュルベッケル氏は子どものスクリーンへの過剰な曝露を治療するためのクリニックに、サリム氏はマインクラフトに似たフリーソフトのゲームMinetestを使って子どもたちと都市計画について考える実践にそれぞれ参与している。

 協働型経済の詳細は拙著に譲るとして、ここでは簡単に説明しておこう。協働型経済の目的は、労働の自動化によって節約される時間を使って、技術的変化に対処するための新しい知(savoir)の生産と共有を収入源とする経済モデルを発展させることである*2。生産される知には学術的な知だけでなく、モノを作るノウハウである制作知や、料理や子どもの世話といった生きるための生活知なども含まれる。これらの知の価値は希少性の如何で増減しない。というのも協働型経済において知は囲い込まれることもなく、誰かの排他的所有物になることもないコモンズ(共有財)だからだ。技術を利用することで必要労働を縮小し、諸個人の自由を拡大する協働型経済とは、希少性にとらわれないポスト希少性社会を組織し、市場の支配にかわって協働的な生産を実現するプロジェクトなのである。

  スティグレールは惜しくも2020年にこの世を去ったが、インタビュー中に言及されたユク・ホイのように、彼の遺産は国境を超えて相続され、再解釈され、多くの哲学者にインスピレーションを与えている。そして哲学だけでなく、デュルベッケル氏やサリム氏らのように、社会実験もまた引き継がれている。スティグレールが遺した財産──彼はそれを遺伝的記憶と神経的記憶から区別して後成系統発生的記憶と呼んだ──の継承、その試みは端緒についたばかりである。このインタビューが、その試みの一助になれば幸いである。

 

労働の終焉?

:本日はこのような機会を設けてくださりありがとうございます。スティグレールが携わった実践は、残念ながら日本ではあまり知られていません。セーヌ=サン=ドニ県で行われている社会実験については拙著でも紹介したのですが、今日は実際にスティグレールと共に活動されたお二人からお話を聞かせてください。

 まず一点目として、労働の未来についてお尋ねします。スティグレールはAIをはじめとしたオートメーションの全面化により、ほとんどの労働が消滅すると論じています。他方、たとえばグレイ&スリの『ゴースト・ワーク』のように、労働は消滅せず、ただAIにできること/できないことの境界線が移動し、その都度AIにできないことを人間が担当するようになるだけだ、という意見もあります*3。本当に労働は消滅するのでしょうか?

リワド・サリム氏(以下サリム):スティグレールにおける自動化の議論を理解するにあたり、彼がフランス語で「travail」と「emploi」を、たとえば英語の「labor」と「work」と同じように区別し、働く人の行為と、その人が働いている状況を区別していることが重要です。労働(travail)とは状況の中で何かをなす行為です。たとえばスティグレールは「employはtravailではない」と言いました。そのため、仕事がなくなるということは人間ができることがなくなるという意味ではなく、会社で働くという状況がなくなることを指すのです。というのも、英語のjobとはAIやロボットでもできることであって、人間に新しいケイパビリティをもたらすものではないのだから*4。スティグレールにとって労働という概念は「知(savoir)」という概念と結びついている。彼にとって知は自動化できないものです。これはパリ北部で私たちが行っている実験のポイントだと思います。

リワド・サリム氏

 モード・デュルベッケル氏(以下デュルベッケル):フランスでは、自動化によって多くの仕事がなくなるという考えに誰もが賛成しているわけではありません。

 この点について考えるにあたって、アンテルミタン制度について理解しなければなりません*5。アンテルミタン制度とは特殊な契約で、芸術家として何時間か働けばそれ以外の時間にも給料が支払われるというもので、たとえば舞台に立っていない間に美術館に行くことを考えていても給料が支払われます。

モード・デュルベッケル氏

 :アンテルミタン制度ですが、拙著『ベルナール・スティグレールの哲学』でも取り上げています。しかし、日本人の感覚ではこの制度が存続していることは信じがたいと思います。これは「フランスは芸術の国である」という自負と伝統において可能なのであり、日本では導入不可能な制度だと思いますか?

 サリム:それは重要な問いですね。働き方にはいろいろな組み合わせがあります。フランスにはアンテルミタン制度だけでなく、協同組合のような革新的な仕組みがたくさんあります。例えば、CoopCycleという協同組合がありますが、これは自転車宅配のドライバーたちによる協同組合です*6。協同組合にはボスはおらず、全員がグループの意思決定に参加しています。フランスでは、4、5年前からだったか、モノを作る協同組合がどんどん増えてきているのです。

 もうひとつ、IRIや協働型経済の考え方に多くのインスピレーションを与えているモデルがフリーソフトウェアの組織です。日本ではあまり知られていないかもしれませんが、世界中のどの国でも、多くの人々がフリーソフトに関わっています*7。そして協働型経済におけるフリーソフトウェアの組織はとても重要です。私たちは、人々がフリーソフトウェア開発者のように働ける方法を見つけようとしています。そしてソフトウェア開発だけでなく他の活動、例えば赤ちゃんの世話のような活動にも応用できるような、人々の活動を組織し、その知(savoir)に対して報酬が支払われるような仕組みを考えています。日本ではこのようなソフトウェアを使った働き方について話すと面白いかもしれません。

 貢献をどのように計測するか

:次の質問に移りたいのですが、協働型経済においてどのように各人の貢献を計測するのか、という点についてお聞きします。地域への貢献が収入の基盤となる場合、貢献を数値化する必要がありますが、それはどのようにして可能になるのでしょうか。というのも、スティグレールは貢献をケイパビリティへの貢献と見なしていましたが、それらは数値化不可能だからです。

 デュルベッケル:難しい質問だと思いますが、パリ北部での私の経験についてお話ししましょう。私は協働型クリニックというプロジェクトに携わっています。クリニックでは子どもたちのスクリーンへの過剰な露出に関する研修と能力開発プログラムを、保護者、住民、研究者、医療専門家たちと共に組織しています。最近ではプロジェクト開始当初から働いており報酬をもらっている母親もいますが、どのような状況で報酬が支払われるのか/支払われないのかという明確な基準はまだ決まっていません。

サリム:私がIRIで働き始めたのはスティグレールがいた頃なので、2018年から2020年の間の2年間、彼の立ち会いのもとで一緒に働いたのですが、それは何度も聞かれた質問でした。そして彼の答えは「わからない」だったと思う(笑)。というのも、彼の実験のインスピレーションはアマルティア・センのケイパビリティ概念で、それは地域の問題であり、あるべき場所、風土(milieu)の問題と関連しているため、どのような状況でもこうである、とは言えないからです。それぞれの状況で変えていかなければならないのです。 

 実際の例を挙げるとすれば、私のプロジェクトではMinetestというビデオゲームを使っています。最近知ったのですが、日本でもこのビデオゲームを使っている学校があるようですね。教員たちはフランス政府から給料をもらい、研究者や建築家から都市計画に関する手法について学び、そしてその知を授業で生徒たちに教えるのです。これは収入の一形態であり、1時間におけるすべての人々の貢献を定量化することができます。しかし、あくまでこれは一つの例であり、フランスの教育省内のことなので特殊な例です。

パリ・オリンピックに向けた街の改築の写真と、Minetestによるその再現。
このようにMinetest上で建物のモデルを再現しコストや建材、管理情報などのデータベースを共有することで、子どもたちを含む地域住民たちが自ら都市計画をシミュレーションすることができる。

デュルベッケル:協働型クリニックの場合は、国立教育システムのような大きな組織に依存しているわけではないので、少し違うと言えるでしょう。

サリム:どのような状況でも同じ例を挙げるのは難しいですが、IRIでは、数値化する方法を明確に定義し、すべての地域が活動のなかで基準を決定したり変更したりすることができるグループである協働型経済経営研究所(Institut de gestion de l'économie de la contribution, IGEC)を作ろうとしています。最近ではオリンピック期間中に利用できるECOカード、これは日本でいうSuicaのようなものですが、このカードを使うと地域貢献によって得られたユーロを地域通貨ECOに変えることができます*8。この実験によって、活動の数値化という理論的なアイデアの実践的な例を得ることができるかもしれません。本当にスティグレールが望んだ形なのかどうか今のところはわかりませんが、現在、IRIでこの活動に取り組んでいる人たちがいます。

デュルベッケル:協働型クリニックのプロジェクトでは、研修前に参加者に子どもの発達に影響をおよぼす画面への過剰な露出、アテンション・エコノミー、赤ちゃんのニーズといったテーマについて何を知っているか尋ねます。そして研修後に、私たちは再び彼らに、何を学んだか、そして日常生活や家族、子供たちとの関係において何が変わったかを尋ねました。研修後、参加者たちは学んだコンセプトを自分なりに理解し、さらに重要なこととして、彼ら自身の生活体験と関連させながらこの社会問題に対処するための新しい知を一緒に作り上げたのです。

サリム:説明責任や会計の問題もあると思います。IRIやスティグレールと仕事をしていた経済学者はたくさんいました。通常の会計では、人々が行った行為に価値が無いと判断され報酬を支払うことができない。どのように会計の価値を変えれば、物事の価値をより定量化することができるのだろうか。例えばパリ北部では、住民たちと話しあい、政府や企業と話しあい、何が価値ある知識なのかを確認する必要がありました。先述したスクリーンに晒される赤ん坊や都市建設に貢献する子供たちだけでなく、低価格で街頭補修を行っている西アフリカから来た機械工の問題もあります。スティグレールはこのような機械工は非常に知識が豊富で、機械による修復には多くの知識が必要とされるが、まだ価値づけられていないと指摘しました。

 また、パリの北部では多くの女性が路上で料理をしています。それはストリート・フードと呼ばれるもので、時には違法なものもあります。料理は本当によくできているにもかかわらず、そこには何の価値も見い出されていない。では、どのように価値を付加していけばいいのだろうか? 私たちはまず、その地域で何が起きているのかを知り、論文を読み、人々に尋ね、価値ある活動を定義し、実験を始めます。問題は規模だと考えています。小さな都市では小さな規模で行うことができるが、全国規模で行いたい場合はより複雑になる。だから私は、この実験が他の実験にインスピレーションを与え、世界中でお互いを鼓舞するような実験を行ってくれることを願っているのです。

:ご回答ありがとうございました。多くの社会実験があり、同時に、多様な収入の組み合わせがあることが理解できました。おふたりの説明によると、肝心なのは何が価値あるものなのか、何が重要なのかをトップダウンで定めるのではなく、地域住民たちの意見を聞きながら設定しなければならない、ということでしょうか。

デュルベッケル:そうですね。例えば、フランスでは金曜日インターンシップ制度(système du stage Vendredi)を採用している企業があります。 これは、ある企業でインターンシップをする場合、金曜日を自分の興味に応じた活動に充てることができるというもので、相互扶助、環境保護、世代間のつながり、難民支援......といったさまざまな活動に時間を割くことができます。週4日会社に出勤し、金曜日は地域社会のための活動に参加するというものです。これは社会、あるいは政治に関与するためには時間が必要であり、仕事から離れる時間が必要であることを示しています*9

サリム:そう、フランスにはたくさんの法律があります。例えば1901年に制定された法律に基づく結社や団体があります*10。この法律の下で設立された結社や団体は税金を納める必要はありませんが、資本主義経済とは相容れない活動であることを報告しなければなりません。若者は数か月の間、結社や団体のために働くことができ、政府から援助が受けられます。ただ、その活動が公益のためのものであることを証明しなければなりませんし、「公益」とは何かを定義しなければなりません。

 フランスには公益の定義が複数ありますが、私たちは公益とは何かという問いをより深めていかなければなりません。というのも、現在のところ公益とはエコロジーのような物質的なものだと考えられているからです。しかし公益には単に庭の手入れをするだけでなく、青少年や人々の世話をするような、価値ある知も数え入れられるべきでしょう。知には非物質的で目に見えないものがあり、それは共通の利益にもなり得るのです。したがって、公益をさらに明確に定義して、フランスにおける知の価値を高めるべきだと思います。

 風土(milieu)をめぐって

サリム:スティグレールは亡くなる直前に地域性(localités)についてのカンファレンスを開き、京都学派と「近代の超克」について議論するために石田英敬氏を招待しました*11。そこで石田氏に、フランスで和辻や京都学派の著作の仏訳を担当しているオギュスタン・ベルクの翻訳についてコメントを依頼したのです。ベルクは地理学者であり、地理を勉強中に日本語を学び、哲学書の翻訳を始めました。彼は風土(milieu)について研究するために、風土学(mésologie)という新しいディシプリンを作りました*12

 デュルベッケル:そのアイデアとは、ただ環境について語るのではなく、自分が環境とどのように関係しているかを語る、というものです。フランス語はこの2つを分けて考えています。日本語はそうではない。例えば、「寒い」というのは、「私は寒い」と言うのと同じことだという考えを、私は和辻哲郎の著作で読んだ覚えがあります*13。それは本当ですか?

 :私は寒い……、そうですね。

 デュルベッケル:つまり、自分は自分の世界から遠く離れた主体ではないという考え方です。例えばフランス語では「私は思う」と言えばそれで終わりです。「私はこう思う」という主語がとても強いのですが、それは世界から切り離されているのです。

 サリム:スティグレールにとってこの点は重要だったと思います。オギュスタン・ベルクは場所を単なる空間としてではなく地域性として考えるというフランスにおける新しい方法、日本的な方法を見つけたのです。つまり風土(milieu)として。これはヤーコプ・フォン=ユクスキュルの環世界論にも見出される考えだと思います。スティグレールは晩年に地域性や環境について考えるために、風土や場所(basho)、コーラ(Khora)といった問題に取り組んでいました。

 デュルベッケル:英語で place(場所)とは、自分が属していない場所、あるいは自分がつながっていない場所を指します。 プラトンの言葉では topos(トポス)と言い、フランス語では environnement(環境)と言う。それはあなたを取り囲んでいます。

 他方、風土(milieu)とはあなたがつながっている場所のことです。場所とは世界全体のことだが、この世界には私の世界があり、あなたの世界があり、私の風土があり、あなたの風土がある。風土はコーラのようなもので、コーラで自分自身を築き上げ、そうすることでコーラを築き上げ、さらに自分自身を築き上げることで、コーラは自分自身として存在するのです。

 サリム:ユクスキュルが行ったようにダニを例に説明しましょう。環境(environnement)というものがあるとして、ダニと私たちは環境(environnement)を共有することはできますが、風土(milieu)を共有することはできません。というのも、ダニは私が感じるような風土(milieu)を感じていないからです。

 資本主義に精神を加える

:時間も残り少なくなってきたので最後の質問の移りたいと思います。漠然とした問いで恐縮ですが、スティグレールは資本主義をどうしたかったのでしょうか? 彼は「資本主義も問題だが、まず人新世を克服しなければならない」と言っていました。しかし人新世は資本主義と密接に関連しており、日本では、人新世の克服のためには経済成長から脱し、コミュニズムへ移行しなければならないと主張する論者もいます。この点についてお伺いいたします。

B. Stiegler & Ars Industrialis, Réenchanter le monde: la valeur esprit contre le populisme industriel(2006/2008)

 サリム:その質問にお答えするためにこの本を持ってきました。スティグレールの『世界を再魔術化する:産業ポピュリズムに抗する精神的価値(Réenchanter le monde: la valeur esprit contre le populisme industriel)』という本です*14。スティグレールは資本主義を廃絶しなければならないとは決して言いませんでした。なぜなら資本主義に代わる明確で価値のあるものがいまだ見つかっていないからです。例えばフランスでただちに資本主義を廃止すると、多くの人々が内戦に巻き込まれ、非常に悪い状況に置かれる可能性があります。スティグレールは常々、自分は産業主義者であり、資本主義の問題は産業、大企業、工学などとともに考えなければならないと言っていました。なぜならそれは人々が食べていく方法であり、つまるところ生きていく方法だからです。

 スティグレールはポール・ヴァレリーの文章を引用しつつ、資本主義は単に自動化とプロレタリア化のシステムになるだけでなく、そこに精神を持ち込まなければならないと言っていました*15。資本主義を改善するためには、産業と資本主義に精神を加えなければなりません。これが『世界を再魔術化する:産業ポピュリズムに抗する精神的価値』のポイントです。

 資本主義では産業界が責任を負わなければなりません。「私たちは悪いことはしていない」と言うだけでなく。例えば、Facebook社はFacebook上で作られたものの責任を負わず、その結果、暴力や憎悪を助長させてしまったと言えるでしょう。またスマートフォンや国のサービス、政治的なサービスをどう扱うか、例えばフランスでは多くのサービスが民営化され、お金儲けのために使われています。このような状況でどうすればいいかを考えるためには、研究者と産業界を結びつけなければなりません。しかしスティグレールは、フランスの研究者は産業界に向き合っておらず、産業界もまた研究と向き合っていないと考えていました。ギリシャ哲学においてテクネーとエピステーメーが分離されていたように、フランスのようなヨーロッパ諸国の制度では、研究、哲学、理論と工学や技術的活動は分離されています*16。スティグレールは、資本主義に精神を加えるためにそれらをつなぎ合わせなければならないと考えていました。

 デュルベッケル:スティグレールは経済成長それ自体に反対しているのではなく、異なる種類の成長を主張しているのだと思います。彼は脱成長(décroissance)ではなく、悪成長(mécroissance)について語っていました*17。そして消費主義における標準化を批判していました。なぜなら標準化されたモノは破壊されることを前提に生み出されるからです。しかもそのような標準化によって、私たちがその対象物の他の使い方を発明することができなくなる。これは文化的な損失の始まりだと思います。欲望というのは未来につながる欲望であり、それが個々人の特異な欲望であれば生きる希望をもたらします。したがってもしその欲望を失うと、自分の人生を生きる理由がなくなってしまうのです。産業が単なる消費物ではないものを生産する可能性、これはデザインの問題でもあります。スティグレールとは、ネガントロピーに基づいた産業のアイデアについて議論したことを覚えています*18。そしてこのテーマは、あらかじめ定められた用途からどのように新たな用途を創造するか、という創造性の問題にもつながっているのです。

 サリム:ユク・ホイをご存じかどうかわかりませんが、彼は宇宙技芸(Cosmotechnick)と、特に中国やアジアにおける技術の多様化について本を書いているのですが、この問題から彼が論じていることを理解できるかもしれません。

 :ユク・ホイについては拙著でも少し引用しました。彼の『中国における技術への問い』は邦訳されており、近いうちに『芸術と宇宙技芸』の邦訳も出版される予定です。

 人々の欲望の拡散についての、とくにプラットフォームの責任は、資本家や産業界、企業が負っていると言えます。しかし企業だけでなく、研究者も同じ問題に対処しようとしています。私たちはお互いに助け合い、同じ問題を共有しようとしているのです。これはフランスだけでなく日本の問題でもあります。

 長時間のインタビューにお答えいただきありがとうございました。このインタビューが、スティグレールの哲学と社会実験を理解する一助になることを願っています。

 2024年5月11日

【注】

*1 IRIとは、2006年にスティグレールの呼びかけによりポンピドゥーセンター内に設立された、デジタル技術がもたらす文化的、科学的、経済的活動の変化を分析する新たな批評的・協働的システムを開発するための研究所である。

*2 新しい経済モデルへの移行に際してはユニバーサル・ベーシックインカムの導入が前提とされている。詳細は拙著『ベルナール・スティグレールの哲学』第9章参照。

*3 メアリー・L. グレイ、シッダールタ・スリ『ゴースト・ワーク : グローバルな新下層階級をシリコンバレーが生み出すのをどう食い止めるか』柴田裕之訳、晶文社、2023年。

*4 ケイパビリティは経済学者アマルティア・センに由来する概念であるが、スティグレールたちは「技能(competence)」と峻別するかたちで定義している。技能はマニュアル化や記号化、プログラム化可能なものを指す。個人はただそれに順応すればよく、誰がどのように習得しようとも技能の質は均一なままである。他方、ケイパビリティは各個人の特異な可能性に対応するものである。能力の育成はすでに存在する知識や技能を受容するとともに、それらを自らの特異な記憶と綜合する段階を踏む。ケイパビリティとはマニュアル化され個人から切り離されて存在する知ではなく、「私」の特異な知を生産する潜在能力なのである。

*5 アンテルミタン制度、正確にはIntermittent du spectableとは、フランスの実演芸術家(artiste du spectacle)に対する保障である。オペラ歌手や演劇俳優、ダンサーなどの実演芸術に携わる者の働き方は、制作や公演のスケジュールのためにどうしても断続的(Intermittents)なものにならざるをえない。アンテルミタン制度はこのような実演家特有の働き方を支える仕組みである。この認定制度では、実演家だけでなく演出家や監督なども含めた芸術活動従事者が、雇用契約期間や勤務時間など一定の条件を満たせば仕事のない期間も収入が保証される。これにより芸術に携わる者たちは稽古のような有償契約を伴わない職業活動に専念できる。詳細は拙著『ベルナール・スティグレールの哲学』第9章参照。

*6 CoopCycleについては以下のHP参照。https://coopcycle.org/en/

*7 スティグレールがフリーソフトウェア運動からうけた影響については拙著『ベルナール・スティグレールの哲学』第8章参照。

*8 ここで言及されているECOカードは、2023年にプレーヌ・コミューン、IRI、Odyssée都市計画局によって設立されたECO委員会によるプロジェクトである。この委員会では地域住民や関係者たちによる地域に密着した日常的なエコロジー実践を促進しており、ECOカードもその一環である。ECOカードを使うと、地域での活動によって得られたユーロを地域通貨ECOに変換することができる。ECOで支払うことで割引を受けられるだけでなく、それを通じて地域経済を支援したり、慈善団体に寄付したりすることもできる。

*9 デュルベッケル氏による補足:フランスでは「金曜日インターシップ」はあまり知られていないようです。しかし個人的には、雇用された時間を他の社会的価値の高い活動に充てるという問題に関連した、非常に興味深い試みだと思います。

*10 フランスでは、19世紀の国家による団体・結社(association)への弾圧と、それに対するトクヴィルをはじめとする自由主義者らによる抵抗を経て、1901年7月1日に結社・団体の契約に関する法律が成立した。この法律に基づいて過去そして現在でも様々な結社・団体が設立され、その対象は保健医療、社会福祉、消費者組合、人権擁護、移民対策、スボーツや娯楽などにまでおよぶ。フランス人10人中3人は何らかの団体のメンバーであると言われるほど、その活動は活発であり生活に根づいたものである。
 フランスでは選挙による政治参加という手段以外に、市民が権力をチェックし、政治に参加する形態として結社・団体が位置づけられている。この法律は、国家という一般的利害と個人という個別的な利害の間に「社会的な空間」をつくり、両者を結びつけると共に媒介する。それは市民が自らの共通した利益を守るために自律的な組緑をつくる社会連帯の原理であると同時に、画ー的な国家の介入原理に反発する権力の分散化(decentralisation)の原理でもあるのだ(出雲祐二「フランスのボランタリー組織──アソシアシオン(Associations)について」『海外社会保障研究』No.83、pp. 9 – 23、1988年)。

*11 このカンファレンスは以下のサイトで公開されている。https://iri-ressources.org/collections/season-59.html

*12 風土学とは、オーギュスト・コントの弟子で医師のシャルル・ロバンが提案した、人間と自然の関係を対象とする実証科学である。対象範囲が広すぎたこと、また英語の環境(environment)がmilieuに取ってかわったことによって一時は学界から姿を消した風土学であったが、ヤーコプ・フォン・ユクスキュルの環世界論において再登場する。ベルクは、ユクスキュルの環世界論と並んで和辻の風土論を風土学の二本柱だと述べている(オギュスタン・ベルク『風土の日本』篠田勝英訳、筑摩書房、1992年)。

*13 おそらく以下の箇所を指していると思われる。「我々は寒さを感ずる前に寒気というごときものの独立の有をいかにして知るのであろうか。それは不可能である。我々は寒さを感ずることにおいて寒気を見いだすのである。しかもその寒気が外にあって我々に迫り来ると考えるのは、志向的関係についての誤解にほかならない。元来志向的関係は外より客観が迫り来ることによって初めて生ずるのではない。個人的意識について考察せられる限り、主観はそれ自身の内に志向的構造を持ち、主観としてすでに「何ものかに向ける」ものである。「寒さを感ずる」というその「感じ」は、寒気に向かって関係を起こすひとつの「点」なのではなく、「……を感ずる」こととしてそれ自身すでに関係であり、この関係において寒さが見いだされるのである」(和辻哲郎『風土』岩波書店、1979年、pp. 10 – 11)。

*14 Bernard Stiegler et Ars Industrialis, Marc Crépon ... [et al.]: Réenchanter le monde: la valeur esprit contre le populisme industriel, Flammarion, 2006.

*15 スティグレールは『世界を再魔術化する』や『無信仰と不信』などの著作において、フランスの詩人ポール・ヴァレリーの『精神の危機』を参照しつつ精神(esprit)について論じている。プラトンをはじめとして、西洋形而上学において精神はイデア界のような超越的な次元に想定されてきた。他方でスティグレールは精神が持つ個体的かつ集合的な創造性は認めつつも、同時に、精神は物質的環境の支えなしにはありえないと指摘している。精神は根本的に代補されている。それは、精神は産業の対象として開発可能であることを意味する。たとえば燃料用木材として利用するために森林の過剰な伐採が行われるように、現代の資本主義社会において精神は搾取され荒れ果てている。そのため、スティグレールは自然環境保護だけでなく「精神のエコロジー」を提起している(Stiegler et Ars Industrialis 2006 : 153)。そしてこの自然環境と精神のエコロジーを考えることが、スティグレールにとって人新世のオルタナティブを構想することにつながっているのである。

*16 スティグレールは『技術と時間Ⅲ』第6章において、西洋の伝統的な科学(知識)観および技術観を確認するに際してテクネーとエピステーメーについて論じている。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第6巻第2章以下で、人間の活動をその対象の性質から理論(テオーリア)と実践(プラクシス)に分ける。スティグレールの整理によると、前者の対象は「他の仕方ではありえないもの」であり、この活動を導く知は学知(エピステーメー)と呼ばれる。一方後者の対象は「他の仕方でありうるもの」であり、この活動はさらに実践知(フロネーシス)に導かれる狭義の実践(プラクシス)と、技術(テクネー)に導かれる製作(ポイエーシス)に分けられる。
 以上の区分を前提としたうえで、アリストテレスは技術が偶然性の領域に属し、科学の必然性がそれに対立すると提起する。アリストテレスだけでなく他のギリシャの哲学者にとっても、技術の対象とはある種の遊び、非規定、未完了を有する対象であった。すなわちそれは「他の仕方でありうるもの」、偶然的なものとして理解されたのである。一方学知(エピステーメー)の対象とは「他の仕方ではありえないもの」であり、実践知とは対立するものとして位置づけられる。

*17 悪成長(mécroissance)とは、経済成長が市場の外部に負の影響をおよぼす事態を指す。その影響は公害だけでなく、神への信仰が計算へと置き換えられ、工場制機械工業の成立によって職人のノウハウ(savoir – faire)が単純作業へと置き換えられ、需要を創出する高度資本主義社会において消費者の生活知(savoir-vivre)が失われてきたように、精神に対する悪(malaise)にまでおよぶ。したがってスティグレールにとって人新世のオルタナティブとは、脱成長ではなく悪成長について徹底的に思考し、実践することによって果たされるのである。

*18 スティグレールはヒト(anthropos)が手を加えた環境から生み出されたエントロピーをアントロピー(anthropie)、ネゲントロピーをネガントロピー(néguanthropie)と呼ぶ。詳細は拙著『ベルナール・スティグレールの哲学』序章参照。 



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