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連載*バタイユとアナーキズム 第7回

法政大学教授の酒井健先生による連載『バタイユとアナーキズム──アナーキーな、あまりにアナーキーな』が始まりました! 全ての「主義」に批判的であったジョルジュ・バタイユの思想に全方位から迫り、現代日本社会の「アナーキズム」思潮を根源から問い直します。 

第7回は「海を見つめる」と題して、三島由紀夫の小説から考え始めます。海それ自体をアナーキーだと言い切った三島、海に恐怖したサド、「手荒な深淵」を海に看取したボードレール、そしてバタイユ。物の支配を覆すアナーキーな夜の海に潜り込みましょう。

海を見つめる

酒井健

1 アナーキーな海

 アナーキーとは、まずなにより、支配的な原理をくつがす情念のこと。現体制を転覆する政治上の思想や行為はよく目立つが、この情念の現れの一つであって、けっして政治だけがアナーキーな情念の発露の場というわけではない。芸術家や哲学者もまた転覆の情念に憑かれている。むしろ彼らのほうが、この情念の喜びと苦しみをよく知っていて、その詳細を表現している場合が多い。今回はとりわけ海の生命力にアナーキーを感じる彼ら芸術家や思想家の言葉を紹介していきたい。そのさい「見る」という姿勢にも注目する。ただ海を見るだけでなく、その広大さ、繰り返される白波の現れと消滅、底知れぬ青さに見とれて、心を奪われていく姿勢である。かつてギリシア哲学ではこの姿勢は「観照テオーリア」(theoria)と呼ばれた。「神々こうごうしいものに見入る」という意味である。古代オリンピックでも、観客はアスリートのみごとな試技にオリンピアの神々の現れを見て、感動していたのだ。やがてこの「観照」は心の目で「神を見る」という意味で、キリスト教の宗教用語「観想」(英語・フランス語でcontemplation、ドイツ語でKontemplation)にもなっていった。

 三島由紀夫は、日本の古典文化はもちろんのこと、こうした古代ギリシアからキリスト教への宗教の流れ、さらにバタイユをはじめとする現代フランスの思想家にも通暁つうぎょうしていた小説家である。彼の4部作『豊饒の海』の最後の巻『天人五衰』の冒頭を開いてみよう。静岡県の駿河湾するがわん、五月の午後の海の光景である。三島は海それ自体をアナーキーだと言い切る。地域名はおろか、海という名称すら否定する豊かさが海の本質だと言うのだ。「記憶もなければなにもないところへ、自分は来てしまった」と主人公の本多繁邦ほんだしげくにが述懐する場面で終わるこの『天人五衰』の主題、つまるところこの4部作『豊饒の海』全体の根本の主題がここにある。本多が憑かれる輪廻転生説をも唯識論をも否定する力、要するに人間の考えるこの世のどんな原理も否定する無の力がこの冒頭に語られるアナーキーな海に集約されている。

海、名のないもの、地中海であれ、日本海であれ、目前の駿河湾であれ、海としか名付けようのないもので辛うじて統括されながら、決してその名に服しない、この無名の、この豊かな、絶対の無政府主義アナーキー

(三島由紀夫『天人五衰』第1章)

 『天人五衰』の若き登場人物、安永透やすながとおるは、浜辺に立つ建物の2階のガラス窓から双眼鏡で、遠く伊豆半島の突端からこの駿河湾に入る船舶の行方を追って、清水港に報告する仕事についている。「青白い美しい顔」、だが「心は冷たく、愛もなく、涙もなかった」。その彼の唯一の幸福は海に見入ることだった。その幸福の源泉はいまだ到達されぬ海の内奥にあると三島は説明する。目に見える存在の奥の豊かさ、なにもかも否定する豊饒な力こそが、透が海に憑かれる原因なのだ、と。

見ることは存在を乗り超え、鳥のように、見ることが翼になって、誰も見たことのない領域へまで透を連れてゆく筈だ。そこでは美でさえも、引きずりくたされ使い古された裳裾もすそのように、ぼろぼろになってしまう筈だ。永久に船の出現しない海、決して存在に犯されぬ海というものがある筈だ。見て見て見抜く明晰さの極限に、何も現れないことの確実な領域、そこは又確実に濃紺で、物象も認識もともどもに、酢酸さくさんひたされた酸化鉛のように溶解して、もはや見ることが認識の足枷あしかせを脱して、それ自体で透明になる領域がきっとある筈だ。
 そこまで目を放つことこそ、透の幸福の根拠だった。透にとっては、見ること以上の自己放棄はなかった。自分を忘れさせてくれるのは目だけだ、鏡を見るときを除いては。

(『天人五衰』第3章)

 個々の存在を物としてはっきり見て識別せよ。デカルト以降の西欧文明はこれを認識の第一歩とみなしてきた。「見る」ことが「知る」ことに従属していて、その手段になっていたのである。今や三島は、船舶や半島を「明晰判明に」識別するデカルトの先へ行くことに透の幸福の源泉があったと説く。個々の物が消えて、「見る」ことが物の認識から解放される刹那せつなに開かれる世界、人が「見る」こと自体になる世界。そこではまた自己も消えていく。見る主体であり、デカルトの言う「認識する物」(res cogitans)であるところの「私」もまた消えていく。「無名」のアナーキーな海と融合していくのだ。

 これは、バタイユの「非‐知の夜」によく似た神秘的体験である。バタイユの「非‐知」は「知」に追随しながら最後に「知」を覆す。物を見分けてその情報を知識として提供する「知る」作業を最後に否定して、知りえない世界へ人の意識を導くのだ。そのとき意識の目は、バタイユの盲目の父親の目のように、物のない夜の中へ入っていき、夜と区別がつかなくなる。「非‐知」とは、物の支配を覆すアナーキーな情念のことなのだ。そしてその前に広がるこの不可知な世界もまた、物の存在をことごとく消していくアナーキーな力に満ちている。人間の根底と世界の根底がここで合流する。「非‐知の夜」とバタイユが名指す状況である。

 透は見ることに憑かれている。ただし、「鏡を見るときを除いては」。鏡の前に立つと、誰しも自分を認識することになる。自分を消し去るどころか、逆に自分を意識させられる。ボードレールは、海を見ることは鏡を見ることだと考えていた。海を見ていると自分を意識させられるのだが、しかし彼の眼差しは海の深奥へ向かう。鏡の奥へ向かうのだ。つまり鏡を見ていても彼の目は、鏡に映る自分の姿を否定してその奥へ向かう。忠実な反映という鏡の役割を否定して、鏡の奥を、そこに映る自分の奥を、ボードレールは見つめていく。「見入る」(contempler)という動詞を用いて、そのことを詩「人と海」に表現している。まさにアナーキーな眼差しである。この不可思議な海の体験については後述しよう。その前に海を恐れたサドを紹介しておきたい。

2 海だけは勘弁してくれ

 ドナティアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サド(1740–1814)。侯爵の身にありながら、貴族体制の根本を支えるキリスト教道徳を否定した作家。その否定の矛先ほこさきは、キリスト教だけでなく、人間社会の根本の道徳にも及ぶ。人間を大切にせよという人間社会のほとんど自明と言っていい原理をも覆していたのである。そのサドが海を恐怖していたとは意外かもしれないが、牢獄のなかで妻に宛てた手紙の一節にこのことが打ち明けられている。1772年6月、南フランスのマルセイユで彼は下男のラトゥールと性交しつつ、同時にまたこの下男とともに5人の少女に対して性の悪事を働き、その一人の少女から訴えられて、極刑の判決を受けた。当時、男色は死罪に値していた。彼サドは毒殺未遂と男色ゆえに斬首刑、下男ラトゥールは火あぶり刑。その後サドは、投獄、逃亡の果てに、再度捕縛され、1778年7月からはパリ郊外のヴァンセンヌ牢獄に監禁されていた。そこでの生活が2年目にさしかかるときに書かれた書簡の一文である。

私はいつも、異常なほど海を恐れてきたし、嫌ってきた。あの「青春」〔下男のカルトロンのこと〕は、私のことを海で見ていたわけだから、この反感が私の本性に発していることを知っている。なにしろ、海に耐えることが私にはまったくできないのだから(1)

(ヴァンセンヌ牢獄から妻のルネに宛てられた1780年6月25日付のサド手紙)

 サドは下男カルトロンと1775年8月から翌年7月まで南仏の居城ラ・コストからイタリアへ逃避行に出ている。往路も帰路もアルプス越えだったようだが、おそらくイタリアで地中海に相対し、これに恐怖する様を下男に目撃されたのだろう。この書簡でサドは続けて、「島の王」にされることへの拒否も綴っている。遠方の孤島の牢獄に送られることが怖かったのだ。それもこれも海に恐怖していたからである。島流しになれば、海上を船で行かねばならないし、また孤島の独房に窓があったとして、そこから臨まれるのは海ばかりだろう。

 サドは自然を嫌悪していたわけではない。むしろ逆に彼の悪事も、小説に描かれた非道な行為も、自然界の理不尽さを手本にしてのことだった。サドはある登場人物(ブレサク伯爵)に自分の哲学をこう代弁させている。「自然にならうことが自然を冒瀆ぼうとくすることになるだろうか。自然自身が毎日人間に対して行っていることを人間が人間に対して行っているのを自然が見ていたとして、はたして自然はそれで腹を立てたりするだろうか。破壊によってしか自然は自分を再生させることができないことが証明されている以上、絶えず破壊の数を増加させることこそ、自然の意図に即して行動することではなかろうか。その意味で最も熱心に破壊にいそしむ人間こそ、まちがいなく、最もよく自然に仕える者になるはずだ。というのもその人間は、自然が瞬間ごとに露呈させる意図にこよなく協力する者になるのだから。自然の第一の、そして最も美しい特質は、自然を絶えず突き動かす動きなのだが、この動きこそ、犯罪の際限なき連鎖にほかならない。そして犯罪を通してのみ自然はこの動きを保っている。それゆえに自然に最もよく似ている存在、つまり最も完全なる存在とは、必然的に、最も活発に行動して犯罪を数多く引き起こす存在ということになる」(サド『ジュスティーヌあるいは美徳の不(2)』(1791))。こう語るサドが自然そのものと言っていい海に恐怖するのはなぜなのか。

3 基盤への欲求

 それは、私思うに、人が海の上に立つことができないからなのだ。死をもたらす直接的な存在、それが海だからだ。自然界のなかで地上ならば、なんらか人は立ってそこでしばらく生命を維持することができる。サドは立って生き延びていくことを欲していた。延命できる基盤を欲していた。私はそう思う。そこにこそ、小説を書くうえでの論述への彼の強い執着もあったと思うのだ。サドの小説の特徴として、誰しも認めるように、猥褻わいせつな行為の前後に必ずと言っていいほど、その行為を正当化する言葉が長々と語られる。しかも、論理的にしっかりその言葉を構築しながら。サドは悪事をこの哲学的な長広舌の上に立たせて、救おうとしている。そしてさらに、その合理的説明のさなかにおいてさえも、彼はその説明をしっかりした概念の基盤の上に立たせようとした。よりいっそう堅固な基盤を欲するこの傾向は、今しがた引用した登場人物(ブレサク伯爵)の弁舌それ自体のなかにも見出せる。つまりこの男は自然を神のごとく実体化して、しっかりした概念の基盤にし、それに拠って立って、犯罪を正当化しているのだ。そうして自分の議論をさらにいっそう堅固に仕立てあげようとしている。サドは何にせよ基盤を求めている。どこまでも基盤を追い求めている。悪を語る自分とその言葉を可能な限り安全なところへ立たせたいと欲している。海への彼の恐怖心は、基盤喪失、シェストフの実存哲学の用語で言えば「地盤喪失」への恐怖に発すると見ていい。

 だが、長い論弁が挿入されるこうしたサドの小説の特徴について、ロラン・バルト(1915–1980)が一見してまったく違う見解を示していて興味深い。フランス現代思想の担い手で、サドについて示唆に富む記述を残した人は多いが、バルトもその一人だ。彼は評論『サド、フーリエ、ロヨラ』(1971)を出版し、その直後に、ある文芸新聞のインタビューに応えて、「転覆」(subversion)こそこの書で語りたかったサドの真骨頂だと打ち明けている。ただしこの「転覆」は、多くの人の関心を引くあれら一連のサディスティックな性行為にあるのではない。のちに彼の名言と評されるようになる言葉「私はサドをサディズムの創始者とすら認めてこなかった」を述べたあと、バルトはこう続ける。

私がサドに関心を持ったのはサディズムなどといった次元にはありませんでした。そうではなく、私が欲したのは、サドの言語をいわば《ポルノ文法》として研究することでした。つまり私が明らかにしたのは、サドが、文章の一つ一つの部分を異常なほどに繊細な一つの構文へと組み合わせて、18世紀の例外的な言語が武骨な性行為を伝達できるようにしたということなのです。つまり彼は様々な言語表現の分離を侵犯したのです。まさにこの意味で彼は転覆を白熱させたのでした。言うまでもなく、この転覆はあれこれのポルノグラフィックな言葉を羅列することから成っているのではありません。構文の体系は通常、そうした言葉を言説から排除するものなのですが、むしろ逆にサドの転覆は、言説のなかへこれらの言葉を導入することより成っているので(3)

(「ロラン・バルトをめぐる旅」)

 傾聴に値する指摘である。アナーキーとは既存の原理への転覆の情念を指すが、この場合、サドのアナーキーな情念はばらばらに分離していた18世紀の諸言語を一つの合理的言説へまとめあげたことにあるというのである。つまり極端な話、下品このうえない性の言葉と、百科全書の項目の文章や憲法の条文など高度に理性的な言語とを厳格に識別する当時の言語状況の基本原理を覆して、双方を同居させる新たな《ポルノ文法》なる合理的言説をサドは編み出したというのだ。

 だがこの指摘には疑問も残る。まさにバルトの指摘するとおり、分離していたものを統合するところにサドの「転覆」があったとして、それはしかしサドの少し後の同時代人ヘーゲル(1770–1831)が彼の弁証法の哲学で説いていた統合への動き、つまり「止揚」(アウフヘーベン)とも「否定の否定」とも言われる動きに重なりはしないかという疑問である。1807年出版の『精神現象学』の「序文」でヘーゲルは、弁証法の動きをこう説いた。自己同一性に素朴に染まる主体の意識がひとたび否定されて、自己分裂に至る。主体は主体と最も対立する自分の死に相対することになる。有名な「不幸な意識」の段階だ。死という、生ある主体の根源的な他者を、主体はしっかり正面から見つめねばならない、とヘーゲルは強く迫るのだ。しかしそうするうちに主体の意識は死が「抽象的」であることに気づくとされる。ここに問題がある。『法の哲学』(1821)の「序文」にある定式「理性的であるものは現実的であり、現実的であるものは理性的である」は有名だ。ここで言われる「理性的」とは弁証法的に発展する意のことであり、「現実的」とは具体的と解していいだろう。つまりヘーゲルにとっては、「具体的」で「現実的」なものとは「理性的」で「弁証法的」な発展の動きを呈するもののことなのだ。この前提の認識が死に対しても差し向けられるのである。死という恐ろしき他者に相対した「不幸な意識」は、結局、死の「抽象性」「非現実性」に気づき、この「事実」を学んで経験知として吸収し、この生と死の二極分解を否定し乗り越えて、統合へ至るのである。

 この「否定の否定」の統合と、バルトがサドに見た「ポルノ文法」と、いったいどこが違うのだろうか。はたしてサドの卑猥な言葉は、それらが内にはらむ死の要素を去勢されず、そのまま如実に保ったまま、合理的な18世紀の文章のなかで息づいていたのだろうか。暗きものを否定する啓蒙主義の時代の文章のなかで、そのまま生き生きと、自由に、死の解体力を放っていたのだろうか。おそらくバルトはサドの同時代人の作家、たとえばディドロやヴォルテールの小説の言葉と違って、そのような死の気配をサドの小説に読み取っていたのだろう。しかしそれでも、当時の民衆から王侯貴族まで口にしていた猥雑な言葉、たとえばサドのもう少し前の同時代人カサノヴァの回想録やモーツァルトの書簡に見られる表現が、サドの哲学的言説のなかでそのままのびのびと跳躍していたとは思えないのだが。海からおかへ引き上げられた魚のごとくに、滋養となる広がりを喪失しているように私などからは読めるのだ。その恐ろしき広がりたる海をサドは恐れていた。病的なほどに、である。

 海は、死を最も直接に、強力に、激しくつきつける存在である。海もたしかに創造する。違う波を次々に創出する。だがそれでも、瞬く間にそれらを破壊する。人間などひとたまりもない圧倒的な力で、死をもたらす。そして濃い青の底へなにもかも沈めていくのだ。「自己破壊の発作が永久に疲れることなく続いている、謂わば持続せる絶望」。福永武彦はボードレールの詩「人と海」を引き合いにだしながら、小説の主人公にそう海を形容させている(福永武彦『風土』第3章「海について」)。人の発展も希望も否定し、ただ死をもたらすがゆえに、海は「デカダンス」(退廃)だ、とも。

4 自然界のなかへ消えていくサドの墓

 アナーキーな情念は、破壊をこととするが、分離の支配原理を否定して、創造的にして統合的な現象をも引き起こす。もちろん、それが最終目的になり新たな支配原理になってしまうのならば、さらにまたアナーキーな情念は分解や解体を生じさせていくだろう。その意味でバタイユの指摘もまた傾聴に値する。文芸評論集『文学と悪』(1957)所収のサド論のなかでバタイユは、まず、サドが「血の涙」を流してまで自分の作品『ソドムの120日』の草稿消失を嘆いていたことを紹介する。近代の多くの作家と同様に、作品と作者の存在に執着するサドにスポットを当てている。だがそのあとでバタイユは、まったく逆に、サドが「自己破壊への意志」の駆られていたことを述べ立てる。「サドの作品の本質は破壊することにある。その破壊はただ単に、作品に描かれた事物や犠牲者だけでなく(それらはただ激しい否定の情念に応えるためにだけ存在している)、作者と作品自体にまで及んでいるの(4)」。その論拠としてバタイユは、自分の墓に対するサドの遺言を取り上げる。領地の森のなかに埋葬され、そのまま自分の墓が森の土や樹木と識別できなくなることを欲するというサドの最後の願いの言葉である。

墓穴を埋めたあとはその上にドングリの実を撒いてほしい。というのも、やがて墓穴の地面がもとにもどり、以前のように茂みがそのまま放置され、私の墓の痕跡が地球の表面から消え失せるようにするためだ。これはちょうど、私が豪語しているように、私の記憶が人々の記憶から消え失せていくのと同じこと(5)

(「サドの遺言」)

 バタイユは言う。「『ソドムの120日』のために流された彼の《血の涙》からこの無への欲求までには、たった矢と標的のあいだの距離しかな(6)」。連続的につながっているというのだ。ただし、この標的は最終的なものではないだろう。サドの存在も作品も別用にパロディーのごとくに蘇り、そしてまたその現れも消えていくのだろう。ちょうど海の白波のように。

 ただ無化という点では森のなかと洋上とは異なる。ドングリの実が育ち、雑草や落ち葉で覆われて墓が地面から見えなくなっても、その動きは緩慢で穏やかだ。森林の無化の動きは海がもたらす迅速で全面的な無化とは異なる。時の流れのなかでの消滅がこれ以上ないほど直接的に、圧倒的に、暴力的に生じているのが海なのだ。ボードレールの海への愛着はそこにまで達している。

5 ボードレールへ

 海へのサドの恐怖はバルトも指摘している。「サドは病的な恐れ(phobie)を一つ持っていた。海に対してだ。小学校の子供たちには、ボードレールの詩(《自由人たる君よ、いつも海を愛したまえ……》)とサドの告白(《私はいつも、異常なほど海を恐れてきたし、嫌ってきた……》)のどちらを読ませたらいいのだろうか」(バルト『サド、フーリエ、ロヨ(7)』「サドII」)。ボードレールとサド。この二人の言わんとするところはおよそ教育的とは言い難い。環境保護の視点から「海を優しく大切に愛しましょう」とか、自己保全の視点から「海は怖くて危険だから用心しなさい」といった近代の道徳観から、ボードレールとサドの海への思いは、もう戻れないほどに逸脱してしまっている。

 ボードレールは20歳のときに遠洋航海の旅に出た。いや、出された、と言うべきか。というのも、彼のパリでの放埓な生活を危惧した義父オーピックが親族会議を開き、彼を近代文明から切り離すべく、インドへ向け海上の旅に向かわせたからである。かくして若きボードレールは1841年6月9日フランスのボルドーからインドのコルカタへ向かう洋上の人となった。その航海はアフリカ西岸を南下し、赤道を越え、喜望峰を回ったところまでは順調に推移したが、東岸の沖合にでたところで激しい嵐に会い、モーリシャス島に寄港(9月18日)、翌日さらに少し進んでフランス領のサン・ルイ島に停泊。そこでボードレールは旅の続行を断固拒絶した。そして11月4日フランスに帰る船に乗り、翌年2月15日にボルドーに帰港したのである。「英知をポケットに詰めて戻ってきた」とは彼の弁だが、その後の彼はパリでの放蕩生活を再開する。それも、けた違いのスケールで。実父で亡父のフランソワの莫大な遺産を、遊興、飲食、服飾さらに骨董品の購入に、湯水のごとく費消していくのだ。

 この遠洋航海の旅で彼が得た「英知」とはいったい何だったのか。洋上でボードレールは何を学んだのだろうか。それは、おそらく、人と海との深い照応だったのだろう。大洋の果てしなきアナーキーな破壊力が人の根底にもあることを彼は思い知ったのではあるまいか。少なくとも、『悪の花』(1857)所収の詩「人と海」はそのことを主題にしている。冒頭のストロフを引用しておこう。

自由人たる君よ、いつも海を愛したまえ!
海は君の鏡なのだ。君は君の魂を求めて、
高波の果てしないうねりのなかを見入る。
すると君の精神は海に劣らず手荒な深淵になってい(8)

 (ボードレール「人と海」)

 ボードレールが言う「自由人」とは1789年のフランス革命で歌われた「自由、平等、博愛」の担い手のことではない。個人の自由を欲する近代人のことではない。むしろこのような近代国家の理念を束縛に感じ、「手荒な深淵」を生きようとする脱近代的、非近代的な人間、いや人間とすら言い難い存在のことだ。もちろん、だからと言って、この「自由人」は自由な海と仲良く合体して満足したりはしない。安直な合一を否定して、海と競合しだすのである。最終連を引用しておこう。

しかしだからこそ、君と海、君たちは、はるか昔から
たがいに憐れむことなく、後悔にもかられずに、戦いあってきたのだ。
かくも君たちは殺戮と死を愛している。
おお永遠の闘士たる君たちよ、おお容赦なき兄弟たる君たち(9)

 (ボードレール「人と海」)

 人も海も、残虐な深淵を内に抱え持つ。だから太古以来、人と海は互いに殺しあってきたというのだ。とはいえ、人が海を殺すとはいったいどういうことなのか。海を征服する、つまり海を利用して遠隔地との交易を実現したり、大航海のはてに新たな大陸を発見したり、あるいは深海の底を探って貴重な産物や情報を得る、といったことなのだろうか。具体的にはそうかもしれないが、それら人間の征服行為の根源にあるのは、人が海を認識するということだろう。認識しえない変化をつねに体現する海を、こういうものだと規定して知識におさめる知の営為のことだろう。これが海を殺しているのだ。そして海はそうした人間の認知の殺害行為を、その成果ももろともに覆す。

 バタイユが遺作の『至高性』に書き込んだノルマンディー海岸での体験はこうした海との闘争を語っている。ただし彼は闘争を「戯れ」と言うのだが。

人気ひとけのない砂浜を想像してみよう。午後の曇天の陽光と、砂丘が意味もなくつらなる陸地を、だ。その砂丘の輪郭線は、海と空を分かつ境界線が見当たらないこの広大な光景になにも付け加えていない。私は、主体として好きなだけ自分をこの広大な広がりのなかへ包含させることができる(自分自身がになるから私はそんなことができるのだ。私という主体が今やになっているのである)。そうでありながらしかし私はまた、好きなだけ自分を物のごとくに対象化して、この広がりから自分を排除することもできる。だがそうして私が自分を一個の物のように対象化して定立すると、私はこの広がりをも物のように対象化することになる。すると、この広大な広がりは私を超越するようになる(私というここにいる存在を超越するようになる)。つまりそうなると、この広大な広がりはではなくなるのだ。さきほどまで私自身でもあった(この広大な広がりも私も、物のごとくに対象化されていなかった)の広がりではなくなるのだ。この広大な広がりは、私が語りうるなにかしらの物に、私に語りかける何かしらの物に、なってしまったのだ。これだけは言っておこう。当初は、私とこの広大な広がりを対象化するこの戯れからは美しくて恐ろしい活力が発していたのだ、と。だが言葉(私の言葉)があげてこの広大な対象を占領しだすのだ。この対象は、たしかに広大ではあるのだが、しかし私を超越する物になってしまっているのである。それでもまだ私は、この超越性をまぬかれて、言葉で語りえない部分をこの対象に保っておくことはできる(たしかに個々の単語がこの対象を定義し、この対象はそれらの単語のうちに自分の表現を持つようになりはするのだが、しかし神はまだ無言のままでもいるの(10))。

(バタイユ『至高性』第4部第2章第2節「ニーチェの問題あるいは人気のない浜辺」)

 わかりにくい一節だが、バタイユはある根源的な動きを、つまり人間の征服行為の起源を、伝えようとしている。海も空も砂丘もすべて溶け合っている曇天の午後の光景を前にして、これに見入るバタイユは今や彼自身でなくなり、無になって、この広大な無の世界へ参入していく。しかしたちまち、そうする自分を意識して彼は彼になり主体として復活し、同時にまた目前の光景をも物として客体化していく。つまり主客の消滅から主客が再現されていく動きが戯れとして表現されているのである。ここでバタイユが批判的に言及しているのが言葉の介入だ。この広大な広がりを、たとえば神即自然のごとき汎神論で説明して、キリスト教神の現れだと定義しだす人間の営為である。一度参入した広大な広がりから身を引いて、この広がりを客体として、それを見る自分を主体として定立しだす動き、ここに自然界への征服行為の発端があるのだが、しかしそれとともに客体を、さらには語る主体をも、言語で説明し正当化し、神学のごとき体系へ構築していくところに、人間の悪しき営為、あの「手荒な深淵」の発露があるとバタイユは見ているのである。もちろん海は海で自らの「手荒な深淵」でこの人間に襲いかかりもするのだが。

6 セイレーンの笑い

 こうした人間の言葉のなかで詩の言葉は、征服の度合いが少ないとバタイユは見ていた。つまり、この人間の征服行為に抗って、最も多く「無」への動きをはらんでいるというわけだ。アナーキーな海の破壊力を、福永武彦の言う「自己破壊の発作」をかなりの程度分有し体現していると言い換えてもいい。その意味で『文学と悪』所収の「ボードレール」の章で紹介される俗謡の一節は興味深い。ボードレールが書簡のなかに書き込んだ彼自身の小品なのだが、その不道徳性にバタイユはアナーキーな否定の動きを見るのである。サルトルがボードレールの手記を手がかりにこの詩人を一個の客体へ還元していくのを批判して、つまりあえて自分を近代的に成長させようとしなかったこの詩人を人間の屑と決めつけて断罪するサルトルに対して、バタイユは外側からのどのような言葉の規定からも出ていく動きをボードレールのこの俗謡からすくいだすのである。ただし、この歌の内容はたわいない。酔漢の木材職人が、別れた妻に復縁を願い、拒まれた腹いせにこの妻を夜の路地に誘い出し井戸へ突き落す話である。だがこれを歌うボードレールは海の恐ろしき妖精セイレーンに呼びかけるのだ。美しい歌声で船乗りたちを誘惑し海底へと沈めていく、まさに海の「手荒な深淵」の優しき権化ごんげのような存在に「歌え」と呼びかけ、「俺の女を食べるがいい」と語りかけるのだ。ボードレールはこの俗謡をさらに非道徳に発展させ、この木材職人が死んだ妻を強姦する死姦の戯曲をも構想し実現を図った(実演は拒まれたが)。バタイユは人間の道徳の次元を徹底的に逸脱するこのボードレールにニーチェのあの笑いの断章を連想する。「悲劇的な人物たちが没していくのを見て、深い理解、感情、同情を覚えるのにもかかわらず、彼らを笑うことができるということ、これは神的なことだ」。セイレーンの神性は笑いの神々しさにつながる。詩の言葉の奥に潜む深淵がこの非人間的な笑いを引き起こすのだ。この笑いを他人事と見るか、自分の内にその可能性を見るか。アナーキズムを語る一つの審級がここにある。

連載第7回は、2025年2月14日(金)公開予定です。

(1)Correspondances du marquis de Sade et de ses proches, enrichies de documents, notes et commentaires, volume XV 1780, Sade au donjon de Vincennes, Alice M.Laborde, éditions Slatkine, Genève, 2007, p.88.
(2)Justine ou les Malheurs de la vertu, Sade Œuvres tome II, édition établie par Michel Delon, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard,1995, p.189–190. 邦訳は『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』植田祐次訳、岩波文庫、2001年、135頁。
(3) « Voyage autour de Roland Barthes », La Quinzaine littéraire, 1er décembre, 1971, Entretiens avec Gilles Lapouge sur Sade, Fourier, Loyola, in Roland Barthes Œuvres complètes, tome III, 1965–1971, Seuil, 2002, p.1048.なお、『サド、フーリエ、ロヨラ』所収の論文「サドII」の中の「検閲、創出」の章には次のようにサドの「転覆」が語られている。「最も根源的な転覆(つまり反検閲)は、世論、道徳、掟、警察に衝撃を与えることを言うことにあるのではなく、パラドクサル(つまりドクサ〔憶見〕を免れた)言説を創出する〔inventer〕ことにある。創出(挑発ではなくて)こそが革命的な行為なのである。つまり革命的行為は新たな言語を築くことによってはじめて成し遂げられるのである。サドの偉大さは、犯罪や倒錯を称賛したことにはない。この称賛のために過激な言葉を用いたことにもない。そうではなく、計り知れないほど大きな言説を創出したこと、つまり彼自身の反復に基づく(他者の反復ではなく)言説、些事、驚き、旅、献立表、肖像画、地形、固有名詞等々に具体化される言説を創出したことにある。要するに、反検閲とは、禁止から出発して、小説世界(ロマネスク)を作りだすことにあったのである」(Roland Barthes Œuvres complètes, tome III, op.cit., p.812.邦訳は『サド、フーリエ、ロヨラ』花輪光訳、みすず書房、2002年、172頁)。
(4) OCIX244, 邦訳は『文学と悪』山本功訳、ちくま学芸文庫、1998年、168頁。
(5) Ibid. 邦訳は同上書、169頁。なおサドの遺言の邦訳は澁澤龍彦著『サド侯爵の生涯』(中公文庫、1983)の第11章「死」に詳しく紹介されている。
(6)Ibid. 邦訳は同上書、169頁。
(7)Barthes, Œuvres complètes, tome III, op.cit., p.858.邦訳は同上書、246頁。
(8)Baudelaire, Œuvres complètes, tome I, texte établi, présenté et annoté par Claude Pichois, Bibliothèque de la Pléiade, Gallimard, 1975, p.19. 邦訳は『悪の華』、『ボードレール全詩集I』阿部良雄訳、ちくま学芸文庫、1998年、58頁。
(9)Ibid., 邦訳は同上書、同頁。
(10)OCVIII408–409. 邦訳は『至高性』湯浅博雄・中地義和・酒井健訳、人文書院、1990年、270頁。

執筆者プロフィール

酒井健(さかい・たけし)
法政大学教授。著書:『モーツァルトの至高性──音楽に架かるバタイユの思想』(青土社)、『バタイユ入門』(ちくま新書)ほか多数。訳書:バタイユ『純然たる幸福』『ランスの大聖堂』『エロティシズム』『ニーチェ覚書』『呪われた部分 全般経済学試論*蕩尽』(以上、ちくま学芸文庫)、『ヒロシマの人々の物語』『魔法使いの弟子』『太陽肛門』(以上、景文館書店)ほか。

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