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『ハントケ・コレクション1』 訳者あとがき(元吉瑞枝)
『ハントケ・コレクション1』 訳者あとがき
元吉瑞枝
『幸せではないが、もういい』
本作は、1972年に発表されたペーター・ハントケの初期の代表作の一つである。本作は、作者が作中でみずから書いているように、「多分二つとないような物語」の「多分ほかにはないような主人公としての私の母」(本書241頁)について語った作品である点で、ハントケの数多くの作品の中でも特異な作品である。そこからは、オーストリアの僻村で生まれ、時代や周囲の環境に振り回されながらも懸命に矜持をもって生きようとした、一人の平凡な、しかしかけがえのない女性の輪郭が浮かび上がろうとするが、それは絶えず、それを書くことの意味や可能性について作者がみずからへ投げかける問いによって中断され、遮られる。母の人生は突然みずから終止符を打たれたが、作者の問いは終わらない。
「のちに、このすべてについて、もっと正確なことを書くとしよう」(295頁)。彼がこの後も(現在に至るまで)書き続けている膨大といっていい作品群、「もっと正確なこと」は書かれたのか。私の念頭からは、その問いがいまも消えない。
本作の邦訳書は、2002年同学社より拙訳により出版されたが、その後絶版となり、長く入手不能であったところ、今般、このような形で再版できるようになって、大変嬉しく思っている。原書のテキストそのものは同一なので、邦訳も概ね旧版のものに基づいたが、改めて見直したところ、修正すべきことに気づいた箇所が少なからずあり、修正した。
本作のタイトルについても再考したが、次に掲げる旧版の「訳者あとがき」に記したような理由により、そのままにしておいた。それについて、また著者について、および当時のやりとり等についても、旧版の「訳者あとがき」に詳述したので参照していただきたい。
原書の初版が1972年にオーストリア(ザルツブルク)のレジデンツ社から発行(その後、版元がドイツのズーアカンプ社に移行)されてから50年余、拙訳(旧版)が出版されてから20年余が経過し、その後のハントケの長い歩みについては記述すべきことも多いが、ここでは割愛したい。ただ、2019年のノーベル文学賞の受賞は、記憶に新しい(受賞時の講演が本書『ハントケ・コレクション1』に収録されている)。邦訳は新旧ともに、suhrkamp taschenbuchに拠る(現在16版まで出されているが、内容上の異同はない)。〔中略〕
旧版「訳者あとがき」
本書の作者ペーター・ハントケの母、マリア・ハントケは、本書の冒頭に引用されている記事にある通り、1971年11月、51歳で自殺した。本書は、その数週間後に書き始められ、72年に出版された。したがって本書は、作者の深甚な個人的な体験ときわめて密接かつ直接的に結びついたテキストであることは言を俟たないが、言うまでもなく単なる事実の記録ではなく、事実と言葉の格闘を通して生み出された独自の表現から成る作品となっている。
ハントケは、日本では、ほとんどヴィム・ヴェンダースの映画『ベルリン・天使の詩』の脚本ぐらいでしか知られていないが、ヨーロッパでは、ドイツ語圏における最も重要な作家の一人として、常に注目されつづけてきた。彼は、本書にある通り、1942年、スロヴェニアと国境を接するオーストリア南部のケルンテン州グリッフェンで、スロヴェニア系の母と、当時当地に進駐していたドイツ軍の会計主計官だった既婚のナチ党員とのあいだに生まれた。しかしハントケが生まれた時点ですでに、彼の実父は当地を去っており、母は、ハントケが生まれる直前に、別のドイツ軍の下士官と結婚していた。そして、ハントケの生後まもなく、彼を連れて夫のいる東ベルリンに行って過ごしたが、最終的に、夫と共に生地のグリッフェンに戻り、そこで生涯の大部分を過ごし、そこで死んだ。ハントケも、幼少の頃の数年を、継父にゆかりのベルリンで過ごしたほかは、少年時代から10代の終わり近くまで、ケルンテン州で過ごした。しかし61年グラーツ大学法学部に入学し、64年に中退し、デュッセルドルフに転居し、同年結婚した頃の時期を境に始まった度々の転居や遍歴や旅、現在に至るまで途切れることなく続いている多作と、周囲の世界との闘い、それはある意味で、母の生涯とは対照的なものである。
彼がまだ全く無名だった1966年、アメリカのプリンストン大学で開かれていた「グルッペ47」の大会に一人乗り込んで、戦後の西ドイツ文学を代表する大家たちを前に、彼らのもはや革新的な力を失ったリアリズムを痛罵して衝撃を与えたことは、あまりに有名である。実作においても、66年の『観客罵倒』や『雀蜂』『カスパー』等を出発点として次々に実験的、時に挑発的ともいえる手法で話題作を発表し続け、母の自死に遭遇した当時には、すでに、若き前衛文学の旗手として広く知られた作家となっていた。
本書が発表された当時、オーストリアの小さな村の出の平凡な女の、ナチス時代から戦後にかけての生と死を扱った本書は、肯定的にせよ否定的にせよ、それまでハントケに付与されていたアヴァンギャルドのスター作家のイメージとは異質のリアリズム的な作品として受けとられた傾向があった。ハントケ自身は、この作品と彼のこれまでの作品との違いを、本書の中で次のように述べている。
いつもは、私は自分自身や自分の身のまわりの事柄から出発して、書き進めると共にだんだんそこから自分を解き放ち、最後には、自分も事柄も、作品および商品として、自分の手から放す。しかし今回は、私は専ら書く者であって、書かれる者の役割を同時に引き受けるわけにはいかないので、うまく距離をとれない。私が距離をとれるのは、ただ私自身からだけである。私の母は、私が私自身を扱う通常の場合とは違って、軽快に生き生きと動きながら少しずつ曇りがとれて晴れやかになっていく作中人物には、いつまでもどうしてもならないのだ。彼女はカプセルの中には納まりきらず、捉えきれないままにとどまり、文章は闇の中へ失墜し、紙上にただ入り乱れて散らばるばかりである。
「私」から「私自身」以上に距離がとれない「母」という他者、どんな言葉によっても「捉えきれないままにとどまる」存在、みずから突然終焉したその生に向き合って、彼の手持ちの言葉は、いったん「闇の中へ失墜」しなければならなかった。これはいわゆるリアリズムではない。ハントケの文学的な営為は、その出発点から、「手持ちの」「できあいの」言葉への問いかけであり、反逆であった。それが、ここに至って、いわば向こう側から問われたのだ。同時に、言葉をめぐるその闘いは、存在と切り離せないものとしていっそう深化させることを余儀なくされたはずである。
ここで本書のタイトルについて言及しておきたい。原題は、Wunschloses Ungliickである。Unglückは「不幸」の意である。wunschlosのWunschは「願望」とか「望み」の意で、-losはそれがないことを意味するが、wunschlosは、単に「望みがない」という意味ではなく、通常、次のように用いられる。以下は、ドイツ語辞典、ブロックハウス・ヴァーリヒの挙げている例である。
Brauchen Sie noch irgend was? Nein, danke, im Augenblick bin ich wunschlos glücklich.
「まだ何かご入用ですか。いいえ、私は目下、もう何もこれ以上望みようもないほど幸せです(何不足なく十分に満足しています)」
すなわちwunschlosは常にglücklich(「幸せだ」)のような語と結びついて、具体的な場面の中で、「もうこれ以上望みようがないほど」という満足感を、やや冗談っぽく(上掲書)強調する語として用いられる。このような慣用的な語法に対して、本書のタイトルには、二重の転用が行われている。一つはもちろん「幸せ」を「不幸せ」とする意味上の転倒であり、もう一つは、その「不幸せ」という語を形容詞ではなく名詞に変え、それによって、当人の気持ちを表明した語ではなく、事態や状態を指す語にしていることである。しかしながら「もう望みようがないほど」(wunschlos)という方は常に当人の気持ちを表現しているので、この組み合わせは構造的にも異化的なのである。したがってドイツ語を母語とする人たちは、このタイトルに接したとき、よく馴染んでいる慣用句が二重に転倒されている機微を一瞬にして認識するが、そのようなコンテクストのない私たちにとっては、これをそのまま直訳しても意味がないばかりか、誤解される恐れもあるのではないかと考え、原題を直接日本語に訳することを断念して、原題のもつ含みやテキストの内容を示唆し得るような言葉はないかと思案した結果、このようなものになった次第である。したがってここに、原題は何らかの形で影を落としてはいるものの、むしろ作品全体についての訳者の解釈を含んだタイトルというようにとらえていただければ幸いである。
ところで、この「望み」(願望)ということについて、本書のテーマとも関係するので、いま少し考えてみたい。
実は、この「望みようがないほど」(wunschlos)という語法を転用している箇所が、本文の中にもあるのである。その地方の天候に触れた箇所で、「そんなものに左右されずにいることはできなかった。ほかには何もなかったのだから。もう何も望むものなどなくて何とか幸せだということは稀で、大抵は、何も望むものなどなくて少し不幸せなのである。ほかの生活様式と比較する可能性がなかった……ゆえにもう不足を感じることもなかった?」(219–220頁)と……ここでは、慣用的な言い回し「望みようもないほど幸せ」(wunschlos glücklich)の「望みようがないほど」(wunschlos)と「幸せ」(glücklich)の、通常は切り離しがたく結びついている二語を分け、そのあいだに、「そして何とか」(und irgendwie)という語を挿入することによって、慣用的なつながりを解体して、wunschlosを原義(「望みがない」)に戻した用い方にし、後半は、「そして少し」(und ein bißchen)を挿んで、「不幸せ」(unglücklich)とつなげているのである。したがってタイトルは、この箇所と関係づけられているように見える。しかし、そのすぐ後に、「ところが―これが事の起こりだった―私の母が突然何かを手に入れたいという意欲を持ち始めたのだ。彼女は勉強したいと思った」とあり、「望みがない」のは、彼女の周囲の人々であり、彼女はそれに逆らって何らかの望みを抱いた、そしてそれがこの物語のそもそもの「事の起こりだった」とされているのである。そうである以上、本書のタイトルは、村の人々を説明した上記の箇所と必ずしも一義的に関係づけられないのではないか、と考えざるを得ない。
ところでその後も、主人公のありかたについて、周囲の人々のありかたと対比されるように、「彼女はそうではなかった」と何度も指摘されている。「けれども私の母は好奇心の強い人間で……」(249頁)、「けれども私の母にとっては、そんなありかたが自明のことにはなっていなかったので……」(257頁)、「しかし母は、最終的には、おどおどしたもの、空虚な茫漠とした存在になることはなかった。彼女は自分を主張し始めた……」(261頁)など……彼女は常に、十分「望み」を抱いた人間である。ところが、一般的な人々のありかたと彼女との差異に対するこのような指摘にもかかわらず、テキストの三分の二近くまで、彼女の行為や感情を表わす文章の主語はほとんど、不特定の人々をあらわすmanで表わされている。「望み」を持っただけでは、まだ「主体」ではないのだ、「望みを持つ、持たない」は、周囲の状況(「ほかの生活様式と比較する可能性がなかった」か否か)を受け身に反映しているにすぎない、というように……彼女が最後にmanではなく「彼女」になった(少なくとも作者=語り手にとって)のは、彼女が読書を一つのきっかけとして、「自分というもの」に出会ったからであるが、そこに至って、それまでの「望み」もまた相対化されたといえるであろう。しかしそれは同時に、病気に冒され、自死をもって終焉に至る過程でもあった。〔中略〕
私は、タイトルから始まって、あまりに「望み」ということに引きずられすぎたかもしれない。けれども、一つの語、一つの表現について、こんなに遠くまで考えをめぐらせてしまうように誘う、それが、ハントケのテキストの何か特有のものなのである。
2001年9月10日、私は、現在ハントケが住んでいるパリ郊外のあるレストランで彼に会う機会を得た。ハントケは、90年代、内戦を経て解体していったユーゴスラヴィアをめぐる論争にみずから関わり、EUの政策やNATOの空爆、またメディアによる一面的な世論形成およびそれに同調する知識人や作家を激しく批判し、それによってみずからも集中砲火を浴びて孤立した。彼は、母を通してスロヴェニアと、そしてそのスロヴェニアを通して、かつてのスロヴェニアが属していた、解体する前の旧ユーゴとの結びつきを感じていた。ユーゴ問題は、彼にとって、単に政治的なテーマではなかったのである。しかし、ユーゴとの関わりはそれだけではなく、彼が作家として最初から取り組んでいた、言葉をめぐる闘いでもあった(これについては、ペーター・ハントケ『空爆下のユーゴスラビアで──涙の下から問いかける』拙訳、同学社、2001年、「訳者あとがき」参照)。
その日私たちが交わした会話も、主にこのようなテーマをめぐるものだった。私はハントケと会う前、初めてユーゴスラヴィアを訪れ、短い旅のあいだに印象深い体験をしていた。彼はそれに耳を傾けてくれ、自分の方からも、これまで彼のテキストからは知り得なかったようなエピソードをいくつか話してくれたりした。そのような話が一段落したとき、私が唐突ではあったが本作品に触れ、「いつか日本語に訳したい」と言うと、これまで言葉少なではあるが澱みなく流れていた会話が一瞬途切れた。そういえばあれからもう30年の年月が経過し、ハントケの身にもあまりにも多くのことが起こっていた。いまさらそのようなものが翻訳されることを彼は望んでいないのではないか。私はそのことも率直に訊ねてみた。そしてその答えから、彼の気持ちがその反対であることを知ったのである。
「書くことが私の役に立ったというのは、当たっていない。私がこの物語に取り組んでいた数週間、この物語の方でも私を振り回し続けた」(289頁)。そして「のちに、このすべてについて、もっと正確なことを書くとしよう」と結ばれている、未完のテキスト。「このすべてについて、もっと正確なことを書く」試みは、きっと未完のまま持続していたのだ、と思った。〔後略〕
2002年7月30日
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撮影=元吉瑞枝、2001年
『ノーベル文学賞受賞講演』
ノーベル文学賞の選考は、毎年、芸術家や学識者らの会員から成るスウェーデン・アカデミーが行なっているが、2018年は、アカデミーのスキャンダルにより受賞者が発表されないという事態となり、それを受けて、2019年のノーベル文学賞の発表および授与は2年分まとめて、前年の2018年の受賞者としてポーランドのオルガ・トカルチュク、2019年の受賞者としてペーター・ハントケが選ばれるという異例の事態となった。
ハントケの受賞は、アカデミーが授賞理由として「独創的な言語表現の力によって人間の経験の周縁部や特殊性を探求した」としているように、その旺盛かつ独創的な文学によって長年来予想されたものであったが、それでもなにがしかの驚きをもって受けとめられたのは、彼の90年代のユーゴスラヴィア内戦との関わりによる、メディアや国際世論のマジョリティとの激突から、そのような受賞はあり得ないとも思われていたからである。また、ハントケ自身、ノーベル文学賞の存在自体に疑義を呈したこともあった。
2019年10月10日に受賞者の発表が行われると、2004年のノーベル文学賞の受賞者であるオーストリアの作家エルフリーデ・イェリネクのようにいちはやくハントケ文学の卓越性を賞賛し、授賞を支持した人たちがいる一方で、その少し前にドイツのブック賞を受賞した、1978年ボスニアのヴィシェグラード生まれのサーシャ・スタニシチはこれに激しく抗議した。その後、12月10日の授賞式に至るまでの二ヶ月のあいだに、ユーゴ内戦をめぐる、ハントケに対するかつての批判や論争が再燃し、授賞に対する抗議も炎上し、異例のことながら、スウェーデン・アカデミーの複数の委員も新聞に個人名で、ハントケが戦争や虐殺を讃美したり相対化したりした証拠はない、と反論するまでになった。この論戦が不毛なものにならないためには、当時のユーゴ内戦やその後の状況について、情報戦を含めて、改めてさまざまな角度から検証され、少なくともハントケの関連テキストが正確に読まれる必要があったが、これを満たしていないものが多かった。
このような中で、ハントケ自身は受賞講演の中で何を語るか、が注目されたが、彼は、その中では、ユーゴについては何も語らなかった。ただ、その約3週間前の『ツァイト』紙とのインタビューで、自らのユーゴとの関わりについて語っている。その一部を要約すると、次の通りである。自分がユーゴスラヴィアについて書いた言葉は、貶められるべきものではなく、文学である。セルビアへの連帯を訴えたのは、セルビアについての報道の多くがあまりに単調で一面的だったからである。自分にとっては、歴史的な意味においても自らの出自においても、(セルビアではなく)ユーゴスラヴィアは、何か特別のものであった。ミロシェヴィッチ〔元大統領〕の埋葬への参列も、それが自分にとってユーゴスラヴィアの埋葬だったからである。多民族・多宗教の現実を無視した、クロアチアやスロヴェニアやボスニア・ヘルツェゴヴィナの独立の早期承認がバルカンにおける「兄弟戦争」につながった、等である。
受賞講演は、12月7日、ドイツ語で行われた。拙訳は、その場でスウェーデン・アカデミーにより配布された原稿に基づく。最後にスウェーデン語で朗読されたトランストロンメルの詩は、前述のように、予め用意された原稿にはなく、ハントケが予告なくその場で行なったものである。
講演の内容は、みずからの文学の原点を語った、全体としてはわかりやすいものであるが、1981年の古い自作『村々を通って』の中から引用された、ノヴァという名前の女性が語る言葉は、前後の文脈から切り離されていることもあって、難解に感じられる。ノヴァの言葉が元来おかれていた『村々を通って』という作品は、兄弟妹間の争いを描いたものであり、それに対して、ノヴァが語るのは、争いから遠いありかたへの模索である。それこそが、なぜここでノヴァの言葉が長く引用されたのかを語るものであろう。
ハントケは、ユーゴ内戦を、「兄弟戦争」──「戦争の中でも最悪の戦争」──であると見ており、兄弟間の争いを越えて平和へ、本来あるべき人間のありかたへと向かうよう説くノヴァの言葉を再び現在に蘇らせることによって、当時のユーゴ内戦と、またその後も内戦や戦争の続いている世界に対する彼の答え、少なくとも一つの姿勢を示唆しようとしたのではないだろうか。
それは必ずしも新しいものではない。むしろ私たちが知っているものであり、ノヴァの長い言葉の前後におかれた、いくつかの短いエピソード、「出来事」にも通じるものである。これらの「出来事」は、ハントケの他の作品の中で何度か(時には形を変えて)出てきたものであるが、ここでこのような形で並べられることによって、改めて彼の文学の原点として位置づけられて浮かび上がってくる。また、オスロの二つのエピソードは、彼に限らず誰でもない人の(誰にもあり得る)文学の原点として語られているかのようである。しかし、文学の、また人間のありかたの原点とは何か、それは、このような「出来事」を語る以外には明示しがたい。ノヴァは「途中で何度も、話すのに難儀した」とある。ハントケも同様であったに違いない。
2022年11月20日
註
【1】Handke: “Literaturnobelpreis abschaffen”, in Frankfurter Neue Presse 17. 10. 2014.
【2】Sasă Stanišić : “Handke vermiest mir die Freude am Preis”, Spiegel Online, 15. Oktober 2019.
【3】https://www.diepresse.com/5707804/keine-beweise-dafur-dass-handke-dem-blutvergiessen-tribut-zollte, 17.10. 2019, “Kontroverse über Literaturnobelpreis. Nobelpreis-Juroren verteidigen Entscheidung für Peter Handke”, Spiegel Online, 17. Oktober 2019など。
【4】Handke: Eine winterliche Reise zu den Flüssen Donau, Save, Morawa und Drina oder Gerechtigkeit für Serbien* (1996). Sommerlicher Nachtrag zu einer winterlichen Reise* (1996). Unter Tränen fragend. Nachträgliche Aufzeichnungen von zwei Jugoslawien-Durchquerungen im Krieg, März und April 1999* (2000) 〔『空爆下のユーゴスラビアで』元吉瑞枝訳、同学社、2001年〕. Rund um das Große Tribunal (2003). Die Tablas von Damiel* (2006)など。以上すべてズーアカンプ社より刊。そのほか“Am Ende ist fast nichts mehr zu verstehen”, Süddeutsche Zeitung, 1. Juni 2006など。*を付した4作品は『ハントケ・コレクション3』(法政大学出版局)に収録予定。
【5】Handke: Interview mit Ulrich Greiner, “Spielen Sie jetzt Tribunal?”, Die Zeit Online Nr. 48/2019, 21. November 2019.
【6】前掲、Handke: Über die Dörfer, 1981. 1982年ザルツブルク音楽祭でヴィム・ヴェンダースの演出により上演された。
【7】前掲、Handke: Interview mit Ulrich Greiner, Die Zeit, 2019, 21 Novemberを参照。
ペーター・ハントケのノーベル文学賞受賞講演(2019年12月7日)は、ノーベル財団公式YouTubeで視聴可能。
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訳者プロフィール
元吉瑞枝(もとよし・みずえ)1968年東京大学大学院修士課程修了。熊本県立大学名誉教授。著書に『ドイツ文学における古典と現代』(共著、第三書房)、『ドイツ文学回遊』(共著、郁文堂)ほか。訳書にペーター・ハントケ『空爆下のユーゴスラビアで』、『幸せではないが、もういい』(以上、同学社)ほか。