連載第6回 『ケアの贈与論』
頼り頼られるはひとつのこと
岩野卓司
最首悟は元全共闘の活動家であり、数多くの評論を執筆している。
東大の助手を長く勤めたあと、駿台予備校で教鞭をとり、最後は和光大学の教授になった。彼は生物学が専門であったが、安保闘争、東大安田講堂事件、三池争議、水俣病といった社会問題に積極的に取り組んでいった。近年では、相模原障がい者施設殺傷事件の犯人と往復書簡をかわしたことでも知られている。
この往復書簡が生まれた背景には、最首に障がい者の娘がおり、彼が妻とともにこの娘を長いあいだ介護してきた事実があった。星子(せいこ)という名のこの三女は、ダウン症で重度の知的障がいをもっていた。障がい者は生きる権利がないという思想のもとで45人を殺傷した犯人が、最首に手紙を書いたのは、こういった事情を知ったからである。
内発的義務
1998年に出版された『星子が居る──言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』では、星子との生活についての感想や意見、社会についての批評が記されている。
今日では、ケアの哲学を語る者やケアの立場から哲学・思想を論じる者も増えてきたが、最首は今から20年以上前に障がいの視点から「共生」の問題を考えており、健常者どうしの関係を前提にするのではなく、障がい者との関係も考慮に入れて「共生」を考えるべきだと主張している。
そもそも哲学や思想が真理を問うとき、普遍的主体を前提にしてしまう場合が多い。その際に、この主体のモデルになっているのは、理性をもって考え行動できる健常者である。このモデルを前提にすることで、障がい者は理性的な主体の「出来損ない」や「異常をきたした者」という考えを、哲学は知らず知らずのうちに流布してしまっている。つまり、人間は本質的に理性的であり、偶々それを損なった者もいるという発想である。こういう発想を取ると、本来の人間関係は理性的な主体どうしの関係であり、そこに当てはまらない関係は本来の関係ではないということになってしまう。
しかし、障がい者との関係は、人間の本来的ではない関係として低く見なされるべきものなのであろうか。逆に人間の根源的なあり方を再考する可能性を秘めたものではないだろうか。最首の思想は、「知恵遅れの子」の存在が逆に「人間の根源的な共同性」を思い起こさせる事実に注意するよう、僕らを促している。
それでは、障がい者との「共生」に根ざした「根源的な共同性」とはどういうものなのか。最首は人に対して何かをする喜びを手掛かりとしてこの「共同性」を探っている。「人は、自発的に何か他人のためにすることが一番深い喜びを得るようになっている」のだ。「恋愛」も「育児」も、その根底にはこの喜びが存在しているのではないだろうか。
これは前回取り扱った、平川克美が父の介護で感じた喜びと似ている。自分の料理を待ち望み、それを食べて「おいしい」と喜ぶ父親のために、一生懸命料理をつくる平川の喜びは、最首の言う喜びと重なり合うのではないのか。それは、人のために贈与して尽くす喜びである。とするならば、平川の言う「贈与の秘密」はここにも見出せるだろう。
恋愛や育児を通して、最首はこの「自発的に何か他人のためにする」「喜び」が人間関係の根底にあることを見出した。たしかに恋愛や育児においても、利己的な欲望の満足は存在する。しかし、そうした欲望の満足の限界を超えたところに、この喜びは見出せるのではないだろうか。
そして、この感情は「内発的義務」ととらえられている。
これはどう考えたらいいのだろう。この「義務」は、納税の義務や兵役の義務といったかたちで使われるような義務ではない。というのは、これらの義務は、外部から課されている義務だからである。「内発的義務」には、国家のような外的な権威は存在しない。喜びと義務の一致は内面から湧き上がる至高な行為である。他人が感謝してくれるかどうかのような外在的な価値に従うこともないのである。
「義務」という言葉に抵抗を感じる人もいるかもしれないが、最近、最首が「内発的義務」について解説している文章を読むと、この「義務」が具体的にどういうものかがわかってくる。
この「義務」という言葉は、捨てられた赤ん坊を拾い上げてしまう例からもわかるように、考える間もなく人がそうせざるをえなくなるような気持ちを、指している。ふつう僕らは「やらねばと思う」ほうを義務ととらえるが、この「内発的義務」は、それに先立つ「義務以前の義務」なのである。僕らは、思わず人を助けてしまうような体験をしたことはないだろうか。
災害の共同体
例えば、大きな火災に遭遇して、おじいさんが腰を抜かして動けなくなったとしよう。そのとき自分が元気で避難できる自信があるならば、おじいさんの手を引いたり背負ったりして助けるのではないだろうか。
危機に際して、一時的にであれ、人はつながり助けあうものなのだ。ふだんは付き合いのない人とも知り合いになり、共同で助け合う。共同でサービスしあい、贈与し合う。まさにクロポトキンの「相互扶助」である。人間の共同性の原点は、こういうつながりにあるのではないのだろうか。
9・11の同時多発テロに見舞われたニューヨークでも、倒壊したツインタワーの現場にさまざまな人たちが集まり被災者の救助や支援に協力した。消防士や警官といった救助のプロばかりではない。通行人や小学生、大企業のエグゼクティヴからホームレスまで、一緒に災害に対処したのだ 。こういうときは、白人であろうと、黒人であろうと、アジア系であろうと関係ない。金持ちであろうと、貧乏人であろうと協力し合っている。災害時には、人種の違い、貧富の差、思想の違いに関係なく、人々はつながるということである。
この事実は、アメリカのジャーナリストであるレベッカ・ソルニットが、『災害ユートピア』のなかで強調していることである。
その本のなかで、彼女は1907年のサンフランシスコ大地震、1985年のメキシコシティ大地震、2001年の9・11の同時多発テロのニューヨーク、2005年のニューオリンズ大洪水などの例について、多くの文献や証言を集めながら、これらの災害がいかに人々の絆を取り戻し、災害がある種の共同体をつくってきたことを実証している。そして、次のように結論している。
日常が引き裂かれ、生存の危機が訪れると、人々は協力し合って危機に対処するのだ。ここにひとつの「根源的な共同性」が垣間見られるのではないだろうか。
二者性
しかし、危機のときにつながった関係も、平時では失われてしまう。人種の違い、貧富の差、宗教の違いなどによる差別や対立が再び頭をもたげてきて、「根源的な共同性」は再び見失われてしまう。
特に今の時代、村社会的なつながりがどんどん失われており、人間の孤立が進んでいる。社会において個人の自立が当然のものとされ、自己責任が強調される。まずは個の自立が優先され、他人との関係も事後的なものとなる。こういった考え方が、社会の無縁化を推し進めている。
このような風潮に抵抗して共同性を模索するために、まずは、自己と他者の関係は、「関係」がまずあり、自己と他者は後から生まれるという考え方を取るべきではないだろうか。
仏教の縁起も、他との関係が縁になって物事が生じるのであるから、まずは「関係」が先にある。かつて哲学者の廣松渉はマルクスを読み直して「関係一次性」の考えを提示し、実体論から関係論への転換を主張していた。人間どうしも「関係」がまずあり、実体のとしての個は二次的なものなのである。
最首もこういった関係論に棹差している。彼は「内発的義務」の考えをさらに発展させて「二者性」の考えを展開している。
「わたし」と「あなた」の関係は曖昧である、と彼は主張する。相手の身になって考えるとき、誰でも自他の区別がつかなくなる場合がある。それとともに、自他が区別されて自覚されるときもある。しかし、西欧の個人主義のように、自分と他人のはっきりした区別は存在しない。そこにあるのは曖昧な関係なのである。
関係が曖昧であるから、そこには甘えが生じる。甘えとは、相手に頼ることである。最首によれば、人間関係の根本にあるのは、この「頼り頼られる」関係なのだ。頼ることは、人から何かをうけとること、サービスを受けることであろう。頼られることは、人に贈与したり、サービスしたりすることだと言えよう。自立した個を主張する者は、「頼り頼られる」関係をネガティブなものとしてしかとらえない。しかし、ケアを踏まえた共生は、この関係の上に成立している。
星子は生きていくのに親に依存している。食事、お風呂、排泄など多くのことを両親の世話になっている。彼女は頼る存在である。見ようによっては、一方的に依存しているとも言えるかもしれない。物事を物質や金銭という視点でのみとらえてしまうと、星子が頼ってばかりいる存在としか見えないだろう。しかし、星子の世話をしながら両親もまた星子から生きる力を得ており、彼らも星子を頼っているのだ。両親も星子も頼る存在であり、また同時に頼られる存在でもある。これは、頼ることで相手に借りをつくるような関係ではない。貸し借り以前の関係である。頼られることが同時に頼ることでもあるような関係である。二者のなかでお互いに与え合い、お互いに受け取り合う、そんな関係なのだ。
どんなに弱い存在でも、誰かに頼ってばかりではない。また、どんなに強い存在でも、まったく頼らないということもない。あらゆるものが頼り、頼られるネットワークのなかに存在しているのだ。災害の共同体では、この「頼り頼られる」関係ははっきりとあらわれる。だから、「相互扶助」の思想が生きてくるのだ。
障がい者との関係が教えてくれるのは、自立した個の理性的な関係ではなく、この「頼り頼られる」関係である。この関係を基盤として、最首の考える「共生」や「共同性」は成立する。さらに、この関係は贈与論の根本にもかかわってくるだろう。ここでは、頼られることが同時に頼ることでもあるから、贈与することが同時に受け取ることでもあるのだ。
こういった贈与による共同性は、贈与と返礼からなる贈与交換よりも根本的なものではないだろうか。
連載第7回は、9月27日(金)公開予定です。
註
【1】最首悟『星子が居る──言葉なく語りかける重複障害の娘との20年』世織書房、1998年、6頁。当連載『ケアの贈与論』第1回「イントロダクション ケアと共同性」では、次のように引用している。「無神経に「共に生きる」といわれると、重い知恵遅れの子と暮らしている身としてはムシャクシャしてしまうのであるが、しかし同時にその子の存在が、人間の根源的な共同性を想起させることも事実である。そして、社会主義思想も共産主義思想も、その根源的な共同性に思いをいたして、というより、共同性が危うくなる一方の状況の打破をめざして生まれてきたことも、忘れるわけにはいかない」(同)。
【2】同、130–131頁。
【3】『ケアの贈与論』第5回「贈与の秘密」を参照のこと。
【4】最首、前掲、131頁。
【5】最首悟『能力で人を分けなくなる日 いのちと価値のあいだ』創元社、2024年、151頁。
【6】Rebecca Solnit, A paradise built in hell : the extraordinary communities that arise in disaster, Penguin Books, 2010, p. 305.『定本 災害ユートピア なぜそのとき特別な共同体が立ち上がるのか』高月園子訳、亜紀書房、2020年、456頁。
【7】最首悟『こんなときだから希望は胸に高鳴ってくる──あなたとわたし・わたしとあなたの関係への覚えがき』くんぷる、2019年、301頁。
【8】最首『能力で人を分けなくなる日──いのちと価値のあいだ』前掲、140頁。
【9】クロポトキンは「相互扶助」を動物から人間まで受け継がれているものと示したが、最首は石牟礼道子の影響のもとでさらに徹底させて、「頼り頼られる」ネットワークを「山川草木波頭、森羅万象」(同、138頁)にまで広げている。
*訳文・訳語に関しては既訳と一致しない場合もある。
執筆者プロフィール
岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。
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