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単独忍びヒグマ猟記 搬

大人一頭に、子供二頭。
三頭のヒグマを前に立ち尽くす。

ここで解体し、背負える状態にして山を降りるか。
しかし私はヒグマを解体したことがない。
基本は鹿と同じ、という話も聞いたことはあるが
消化器系の構造は全く違うだろうし、
最も値が張る熊の胆(胆嚢)や
高級珍味の掌の外し方も知らない。
無理矢理解体することは可能だろうが、
最大限にその恵みを享受することはできないだろう。
私は北海道の師匠、F氏に電話をすることにした。

早朝なので、まだ起きてはいないだろうなと思いながら
携帯が繋がるところまで出て電話をかける。
最初は出なかったが、しばらくすると着信があった。
自分のことのように喜んでくれるF氏。
師匠の喜ぶ顔を思うと私も嬉しくなる。

状況を説明すると、
「腹は出すな。
 あと、絶対に銃を身から離すな」
と言われる。
ヒグマはヒグマの肉を好んで食すとも言う。
そしてその嗅覚は、絶対に侮れない。
また繁殖期を過ぎても、
雌熊には雄が付き纏っている可能性があると言う。
そこまでの想定は全くしていなかった。
慌てて銃を肩から掛ける。

すぐに行く、と言ってはくれたが
F氏の到着までは2時間以上かかるはずだ。
その間、自分でやれることはやらなくては。
とにかく、下ろせるところまで獲物を下ろすことにした。

まず一旦、車まで戻った。
いつも積んであるストックを2本取り出す。
獲物を引きずる時、ストックにも体重をかけて
足だけでなく腕の力も推進力とする為だ。

再びヒグマ達の元に戻る。
体力が残っている内に、
一番大変そうな母熊から作業を始めることにする。
鹿を引きずる時の為に、スリング(ループになった登山用ベルト)は
ザックに2本常備してある。
1本でヒグマの両前脚をしっかりと束ねる。
もう1本を8の字状にクロスさせ、
襷のように両肩にかける。
2本のスリングを繋ぎ、全体重をかけて引っ張る。
顎、後脚、銃の先端、色々な部分が木の幹や枝に引っかかる。
ちょっとした窪みに熊の体がはまる。
問題を一つ一つ解消し、数メートル進んだ頃には汗はびっしょりだ。

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木が少しまばらになったところまで出ると
落ちていくラインを予想し、斜面の下に向かって
熊の体を全身で押してひっくり返す。
転がり始めはゆっくりだが、
勢いが付くと止まらない。
完全に脱力した体が
あちこちを木々にぶつけながら落ちていく。
撃った鹿が急斜面の途中で引っ掛かってしまった時など、
狩猟をしているとたまにやらなくてはならない作業。
痛々しく、無残な姿だ。
先程まで生きていた尊い命を
物として乱雑に扱っている気分になってしまい、
何度やっても慣れることがない。

斜面の下まで落ちたヒグマ。
数メートルではあるが、笹藪を漕いで林道に出すまでは
本当に苦労した。
内臓を出せばかなり軽くなるはずなのだが
師匠の警告通り、他の熊に襲われるのは避けたい。

車までの林道は、荒い砂利が敷かれている。
急な登りはないが、多少のアップダウンはある。
ここからはストックの出番だ。
体を極限まで傾ける。
ラグビー選手がスクラムを組むような姿勢で、
全ての力を前方への推進力とする。
少しでも滑りを良くしようと
ブルーシートを地面に敷き、
その上にヒグマを乗せて包む。
ほんの少しずつ、這うように移動していく。

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枯れ葉と共に引きずるが、枯れ葉が増えると抵抗も増えるため
こまめに取り除く。
ブルーシートからすぐに熊の体がはみ出てしまい、
何度も包み直す。
振り返ると枯れ葉で覆われた林道に
土が露出した黒い筋ができていた。
もし猟場でそんな筋を見つけたら
ヒグマが鹿を引きずった跡かと思うだろう。
しかしF氏が言うには
彼らは軽々と鹿を咥え上げて運ぶそうだ。
この時点で私の足腰は既にガタガタ。
ヒグマの力強さを思い知る。

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襷掛けのスリングが両肩に食い込み強い痛みを感じるが、
それは自分が我慢すれば良いだけの事だ。
熊の分まで生きなくては、という感情が強く沸き起こる。
苦行ではあるが、それも狩りが成功したからこそ。
徐々にテンションが上がり、独り大声で叫びながら獲物を引っ張る。

ようやく車まで母熊を運んだ。
疲労困憊だが、ここで休んでしまうと
気持ちが続かない気がした。
すぐに子熊を運びに戻る。

3頭を運ぶのに3往復。
荷物の為にもう一度、合計4往復。
結局一人で全て、獲物を山から下ろした。
一体何故そんな事が可能だったのか、
どこからそんな力が湧いたのか、
今もよく分からない。

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最後の往復、車が見えてきたところで
F氏の姿が目に入る。
固い握手。
握手をするのなんて久しぶりだった。
こんなに分厚い手だったのだな、と改めて思い出す。
良くやった、おめでとう、と喜んでくれ笑顔を見て
少しだけ恩返しができたような気がした。

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実はまさに前日、F氏とのメールのやりとりをする中で
「今年は必ず良いことがあるよ」と言われていた。
あたかも翌日、
私が熊を仕留めるのを見越していたかのように。

去年、ヒグマを撃ちたいと山に向かう中で
車ごと道から落ちて死にかけた時には、
「それは山の神に守られたんだ。
そのまま入っていたらきっと熊に殺られていただろう」
と言われた。

ところが今年は、そろそろコイツは熊を獲るな、
と感じていたそうだ。
本当にこの人にだけは敵わない。
それがまた、気持ち良い。
追いかける背中は
大きければ大きいほど良く、
そんな男に出会えた事が最高に幸せだ。

F氏の見立てでは、母熊は推定8歳、
体重は140キロくらいだという。
そのままでは車には乗らない。
内臓だけは山で出し、
皮剥ぎや解体は札幌に戻り、
師匠の作業場で行う事になった。

肛門を抜き、結索する。
次いで腹を裂く。
胸骨は柔らかいらしく、F氏はノコギリも使わず
ナイフだけで割ってしまった。

内臓の中でまず真っ先に取り出すのが胆嚢だ。
昔は金よりも高価な値段で売れた、とも聞く万能薬。
乾燥したものは硬くて真っ黒だが、
体内にあるそれは鮮やかな黄緑色の液体が入った柔らかい袋。
ちょっとでも手荒に扱えば破れてしまうそうだ。
レバーにしっかりと癒着しているため、
胆嚢を優先し、レバーの一部を少し胆嚢につけて切り取り
すぐに胆管の先端を麻紐で縛る。
「絶対に忘れたり無くしたりしないよう、
今のうちに車の中に吊るせ」
と言われ、すぐに車に戻ってサンバイザーを利用して吊るす。

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胃を開けると中身は全て真緑色のコクワ。
一気に甘い香りが立ち込める。
腸から肛門まで、緑一色。
前週に林道上で見た真緑の大きなフンは
やはりこの熊のものだったのだ、と確信した。
私がコクワの実を殆ど見つけられないにも関わらず
腹をコクワだけで満たしているヒグマの
食べものを探し当てる能力に脱帽する。
これだけいいものを腹一杯食べていれば
肉は必ずや旨いだろう。

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ハツ、レバー、胃などを取る。
腸は白いミミズのような寄生虫がたくさん入っており
諦める事にした。

続いて子熊の腹も裂く。
小さいがきちんと胆嚢も取り出せ、
大小3つの熊の胆を手に入れる事ができた。

腹出しを終え、最後に
もう一人の師匠、クリンギット族のキースに教わった通り、
切り取った気道をそばの木の枝に刺す。
木に手を掛け目を瞑り、熊に感謝を捧げ、再生を祈る。
そして心の中でキースに「遂にやりました」と報告した。

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腹を出すと熊は先程に比べればとても軽くなったが、
それでも車に積むのには苦労した。
私のエクストレイルの後部座先をフルフラットに倒し、
大きなブルーシートを敷く。
F氏が入り込んで車内からヒグマを引っ張り上げ、
私は車の外から熊の尻を持ち上げて押し込む。

トランクルームは熊でいっぱいだ。
ヒグマを丸のまま放り込んでいる車なぞ
見た事がなく、壮観であった。

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最後の最後にもう一往復、
F氏と共に熊がいた場所を見にいく。
一体彼らはあそこで何をしていたのか。
母熊は頭を下げていたので、
地面を嗅ぎながら、落ちた木の実を探していたのだろうか。
しかし、コクワやヤマブドウの蔓はない。
トドマツが並ぶ林の中、キノコも生えていない。
F氏が見つけたのは黒い土が大きく露出した地面。
多分、繁殖期で気が立っている雄鹿が泥を浴びたか
角で掘ったものだという。
この時期の雄鹿は恐れを知らず、
熊にとっても侮れない相手なので
警戒してその臭いを確認していたのだろう、
というのがF氏の推理だった。

車に戻り、走り出した時点で、時間は午前11時。
道路に段差があると三つの熊の胆が跳ねるように振れる。
北海道神宮のお守りと並んで
ブラブラと揺れる胆嚢を片手で押さえながら、
一路、札幌のF氏の作業場へと向かった。

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