9月に入ると、 カナダ・ユーコンの先住民は皆、勇み立つ。 仕事は手につかず、打ち合わせをしていても上の空。 心は原野を駆け巡り、いてもたってもいられない。 結局、多くの人が長期の休暇をとる。 今年もヘラジカ猟の季節が到来したのだ。 2024年、10回目のユーコン訪問は まさにそんな時期の真っ只中だった。 どこでヘラジカを見ただの、 誰が早くも1頭仕留めただの、 男たちの会話はヘラジカ一色となる。 しかし僕の師匠である タギ
今からズーッと昔の地球。 そこにはたくさんの生きものが 生きていました。 あるとき、空からの声で、 地球上のすべての生きものの種が、 ひとつずつ呼ばれて集まりました。 空からの声はこう言いました。 「ここに集いし生きものたちよ、 よく聴いてほしい。 今から、地球上で最も弱きものが 生まれてくる。 その生きものは、自分だけでは食べるものを 得ることができない。 また、自分だけでは、暑い日ざしや冷たい風から、 身を守ることもできない。 だから、ここに集
“超人”と称される人は世に多かれど、 我が家のご近所に暮らす 清蔵さんを超える人はいないと思う。 昭和8年生まれの清蔵さんは、御年90歳。 僕の家から2キロほどのところに暮らしている。 たまに我が家を覗きに来てくれるのだが、 運転免許を持っていない清蔵さんは 颯爽と自転車を漕いでやって来る。 90歳で自転車を乗り回すなんてすごい、 と思うかもしれないが、驚くのはまだ早い。 清蔵さんは、地元では引っ張りだこの現役選手だ。 守備
【なめとこ山の熊のことならおもしろい。なめとこ山は大きな山だ。淵沢川はなめとこ山から出て来る。なめとこ山は一年のうち大ていの日はつめたい霧か雲かを吸ったり吐いたりしている】 そんな一節から始まる「なめとこ山の熊」。 宮沢賢治が猟師と熊のことを書いた童話だ。 美しくも切ないエピソードが散りばめられている名作で、 読む度に、胸が締め付けられる気持ちになる。 なめとこ山の熊を片っ端から獲ったという主人公の淵沢小十郎は 本当は百姓や木こりなど
24年と4か月。 ひとところで、よく働いたものだ。 2023年8月、長年勤めたテレビ局を辞めた。 同時に、生まれ育った東京を離れ、北海道に移住した。 狩猟採集活動を軸に置き、 執筆や講演をしながら暮らす。 2冊目の本を出版できる当てはないし、 どのメディアにも連載など持てていない。 これまでの会社員生活と違って固定収入は存在せず、 不安定極まりないが、 だからと言って一度しかない人生の短さを思うと これから最も大切なのは お金ではなく時間だ
ここ数日の、 不思議な偶然の連鎖について記しておきたい。 狩猟や駆除で捕獲した獲物の有効活用といえば やはりジビエだろう。 野山を駆け巡る野生動物の肉は滋養に富み、 とても美味しい。 しかし肉以外にも活用できる部位はある。 鹿で言えば角や毛皮だ。 角は雄にしかない。 立派なものは人気があり、 いい値段で売られているのを目にすることもある。 僕は自作のナイフのハンドルに使ったり、 革紐を編んでキーホルダーを作ったりしてきた
北海道に移り住んで半年が経った。 集落にハンターが引越してきたことは 多分ほとんどの人が知っているだろう。 地元の方々との関係性も徐々に深まってきた。 中でもMさんは特別な存在だ。 薪にするための木を敷地の中で切らせていただいたり、 美味しい料理を分けて下さったり、 とてもお世話になっている。 植物や野鳥など地域の自然に関する知識は 集落の中でも群を抜いていて、 本当に勉強になる。 遠くからわざわざ会いに来る人達もいる程だ。 そ
2023の大晦日。 日の出まではまだ2時間以上ある、朝5時過ぎ。 ベッドで一緒に寝ていた犬がムクリと起き上がり、 吠えだした。 常に鹿には反応する彼のこと。 また庭に大きな雄鹿でも入ってきたのかと 眠い目を擦り外を見る。 しかし、ぼんやりとした木々のシルエット以外、 僕の目には何も映らない。 犬は鳴き止み、 僕は再び眠りについた。 しばらくして、電話が鳴った。 老母が入所している介護老人保健施設からだった。 つい今しがた、母の心臓が止まったという。 すぐに身支度をし、施設
2023年もあと数日で終わりとなる年の瀬。 僕は狩猟で山に入った。 北海道での狩猟は10月1日が解禁であるにもかかわらず、 銃を持って山を歩くのは、この日が初めてだった。 狩猟採集生活に軸足を置きたいと北海道に移住したものの、 まずは自宅を居住可能な状態にするために 多くの時間と労力を費やしていたからだ。 遅々として進まないリフォーム作業だったが 12月に入ってようやくトイレが使えるようになった。 しかしドアがない。 目隠しの
「あなたが知っている山を教えてください」 と聞かれたら、どう答えるだろう。 富士山、高尾山、比叡山、阿蘇山。 山の名前を答えるのではないだろうか。 大いなる大地の隆起である山。 その属性の第一番目は、なんと言っても名前だと思われる。 個々によって思い浮かべる山容や情景は違えども、 人はまず、名前によって山を個体識別する。 では二番目に重要な情報は何かというと、 やはり標高ではないだろうか。 富士山といえば日本最高峰。 標高が3,776メートルであることを誦じている人も
まだ、熱い鼓動を、温かな余韻を、体の芯に感じている。 9月27日、名古屋レジェンドホール。 「不良牧師」として知られるアーサー・ホーランドさんの誕生日イベントで ご本人と対談させていただいた。 キリストのことを「魂のロッカー」と呼び、 自らも全身にタトゥを入れ、ハーレーを乗り回す。 およそ一般的な牧師のイメージからはかけ離れている。 重さ40キロにもなる十字架を担いで 日本を縦断したり、アメリカを横断したりしてきたが、 今度はエルサレムから日本までを歩くとい
ポケットの携帯電話が、大音量で鳴り出したのは 台所の壁にコンセント用の穴を開け終わった時だった。 北海道移住に向け、築50年の家のリフォームを続けているが 作業は思うように捗っていない。 引越しまでは、もう1ヶ月を切っている。 忙しいので無視しようかとも思ったが、 念の為と思って着信を確認すると、 90歳の父、黒田隆が入所している 東京の特別養護老人ホーム(特養)の ケアマネージャーさんからだった。 彼からは、前の週にも電話をいただ
そのバーを見つけたのは、まだ猟期が始まる前。 東京に引越して半年程が経ったある夜の遅くに、 犬の散歩をしている時のことだった。 暗い路地に、ぼんやりとした温かい灯りが 浮き上がって見える。 エントランスにはピンク色のブタの置物が鎮座し、 その首から 「ワンちゃんは人間より歓迎です」 と書かれた看板がぶら下がっていた。 大きなガラス越しに、店内を覗き込む。 オーナーの女性と、バーテンダーは若い男性。 私と犬の存在に気付き、 にこやかに手を振りながら迎えて
ナマケモノ、という生きものがいる。 動きは極めてゆっくりだ。 天敵に見つかったら最後、逃げることはできない。 1日数グラムの葉を食べるだけの日々。 あまりにノロマなので、 全身にコケが生えはじめ、 哺乳類であるにもかかわらず、 徐々に緑色になってゆく。 一見、ナマケモノには何の生産性もない。 そんな動物の名を、自らに冠した思想家がいる。 “ナマケモノ教授”を名乗る辻信一先生だ。 “スローライフ”という生き方を日本に紹介し、 南米アンデスに伝わる、短くも深い
その老女は、毎日のようにキースの家にやってくる。 目つきは鋭く、少ししかめ面をしていることが多い。 おいそれと話しかけることができない空気を纏っている。 名前はベッシー。 キースの奥さんのドナは、 彼女に食事を振る舞い、 ビールも自由に飲ませている。 ベッシーは毎日、 当然のようにそのもてなしを受けている。 ベッシーはキースの母親の従兄弟だ。 年齢は76歳。 ひ孫が女の子だけで5人いて、 もうすぐやしゃごも生まれるそうだ。 クリンギット名はグーツ・ドゥティーン。
2月頭の北緯60°。 厳冬のユーコンでは全てが凍りつく。 この時期は、銃猟には適していない。 猟師は皆、最上級の冬毛を纏った動物たちを 罠で捕える。 罠猟には、トラップラインと呼ばれるルートが必要だ。 ルート上にいくつもの罠を仕掛け、 それをスノーモービルなどで見回る。 トラップラインはそれぞれの猟師に付与されていて、 他人のそれに罠を仕掛けることは許されない。 キースもいくつかのトラップラインを持っていて、 一番近いものは、家の裏庭に