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The Missing Link

Missing Link(失われた環)とは通常、
進化の過程を実証するのに足りない
生物や化石を指す言葉として使われる。
例えば、イルカやクジラが
元々は陸上の哺乳類であったことが分かっていたとすると、
いきなり完全に水中に適応した体になる前に
陸と海の境界で暮らす中間種がいた筈、と仮定される。
そうした中間種の化石や現存種が見つかっていないとすると、
その残された謎の部分がMissing Link。
古生物学で使われる言葉だ。

Missing Linkを探し求める。
ジャンルは異なるし、意味合いも少々異なってしまうが、
私の中ではヒグマ猟も、
二つの事象を繋げる未知の要素を
追いかける行程に思えてならない。


狩猟を始めてこのかた、足跡や爪痕、フンなど
色々な痕跡から、ヒグマに辿り着こうと尽力してきた。
その推理の過程こそがヒグマ猟の醍醐味であろう。

しかし私の推理が
合っているのか、
間違っているのか。
多分間違っているから
全く獲れなかったのだが、
たまには合っていたこともあったのかもしれない。

ところが一回だけでも成功体験ができたことで、
さまざまな断片が
自分の中で繋がり始めた気がしている。

バラバラに転がっていた歯車が
急に噛み合って回り始める。
もしかすると、
Missing Linkの一端を掴んだのかもしれない。
今日はそのあたりのことについて考察してみたい。



獲物の行動を先読みすることは
狩猟では欠かせない、基本のキだ。
「正しい場所」と「正しい時間」が分かれば獲物に遭遇できる。
それだけのこと。
X 、Y、Zの位置的三次元、プラス時間軸の四次元。
論理的に因数分解すると単純なのだが、
さまざまな因子が複雑且つ流動的に絡み合い、
実際は途轍もなく複雑で難解だ。



正しい場所と時間に到達するのに、まずは
「正しかった場所」と「正しかった時間」
から色々なことを考えていく。

正しかった場所。
これは単純だ。
足跡、フン、食痕。
獲物がピンポイントでそこに居たという確固たる証拠だ。
エゾシカであればそこら中で見つかる。

ヒグマは生息数が鹿よりも少ないため、
見つけるのは非常に困難だ。
また、断面積の狭いエゾシカの蹄に比べ、
大きな足裏でフワッと地面を踏むので
足跡自体、とても残りにくい。


正しかった時間。
これは相当に難しい。
足跡であれば、風雨でどれだけ崩れているか、
上にどれだけ落ち葉や雪が降り積もっているか。
フンや食痕であれば、表面や断面の酸化の具合などから
経過時間を推し測る。


平面上のX、Y軸の座標が変化すると、
草地だったり、川だったり、森だったり、と環境が変わる。

草食の鹿の場合、敢えて単純化してみると
草地=食事、川=水飲み、森=休憩、
と言い換えることもできるだろう。

雑食性の高いヒグマにとっては
森はコクワやヤマブドウなどの
食べ物を探す場所でもあるだろうし、
どこで休憩しているのかは、
私にはまだきちんと見えておらず、
推定が難しい。

Z軸は標高。
X、Y軸と同義な部分もあるが、
時間軸とより密接に関係している気がしている。

鹿で言えば、標高の低い草地や川で採餌し、
休むのは標高の高い森や、
稜線から少し下がった風当たりの少ないポイント。
狩猟鳥獣は狩猟圧がかかっている場所では
夜行性になっていくので、
鹿で言えば、夜から明け方は草地や川、
日中は森や稜線まで上がった付近にいる確率が
高いように感じている。

ヒグマに於いては、時間帯と行動パターンの紐付けも
私の中ではまだできていない。


なぜ、ヒグマの行動を読むのが斯くも難しいのか。
それは、成功体験をなかなか積めないからに他ならない。
足跡やフンなどの痕跡を見つけても、それが後に
「なるほど、そういうことだったのか」
という結論にまで結び付いてくれない。
秘密を解く鍵は確実に目の前に落ちているのに
正解が隠された扉を開けることができない。
要するに、ヒグマ自身に出会えないのだ。

北海道に於ける両種の生息数の推定は
エゾシカ50〜70万頭、ヒグマ1万頭強。
確率だけで考えると、鹿を100回くらい見れば
ヒグマを一度くらいは目撃できそうなものだが
実態は大きく異なる。
狩猟を始めて5年目で、鹿は多分、数千頭は見ているが
ヒグマに出会ったのはたったの一回。
それだけヒグマが身を隠す能力が
ずば抜けているということだ。

体の構造や習性の違いは、大きな要素の一つだろう。
私は山中で狩猟をするスタイルだが、
林床は笹やシダなどの下草で覆われていることが殆どだ。
エゾシカは危険を感じた時、その中に屈むことをしない。
立ったまま一瞬こちらを見て止まり、
次の瞬間に軽々と跳ねながら逃げていく。
たまに、逃げる途中で立ち止まり、振り返る。
こちらとしては、その瞬間が撃ち時だったりもする。
いずれにせよ、下草が鹿の体高より低い場合は
鹿の体はずっと目視できる。

一方、ヒグマはベッタリと地面に這うという。
大柄なヒグマでも20センチの窪みがあれば
完全に隠れてしまうというから驚きだ。
視覚で認識が不可能になった後、
犬ならともかく、人間では嗅覚だけで
見えないヒグマの位置を特定するのはほぼ不可能だ。
ピクリとも動かなければ、音もしない。

そして、なんといっても忍耐力が違う。
人間は(特にせっかちな私は)、
五感を研ぎ澄ませたまま立ち止まっても
数分が限界だ。
ヒグマはじっと息を潜めたまま
何時間でも動かずにいることが可能だそうだ。

地球の生態系の頂点に立っている人間だが、
それは自分達が作り上げた極一部の環境の中、
あらゆる技術の力を借りている時に限ったことであり、
山の中、ヒグマの前では圧倒的に無力な存在なのだ。


しかし、親子熊を獲ったことで、
たった一つではあるが成功例ができた。

夜から未明にかけて
川筋から日当たりの良い林縁で食べものを探し、
日の出と共に斜面を上り、森に入っていく。
私の中に湧いたイメージが、猟果に結び付いた。
偶然ではあるだろうが、事実であることも確かだ。

以来、一つの足跡からも、
より具体的に熊の行動や表情を想像するように
変化が起きている。
失われた環を見つけ、
色々なものが繋がり始める。
それは、ヒグマ猟の醍醐味が増す、ということだけでなく、
ヒグマへの恐怖や畏敬の念が増すことと同義でもあった。


親子熊を仕留めた数日後。
私はまた同じ林道を歩いていた。
鹿の気配もなく、熊の足跡もフンもない。
片道7キロ。
一番奥まで行っても何の出会いもなかった。
よくあることではあるが、気落ちしたのも確か。
早朝から活動を開始していた私は睡魔に襲われ、
しばらくそこで眠った。

小一時間後、目を覚まして山を降り始めたとき。
地面の一点に目が釘付けになった。
道を登っていた時には無かった足跡が
柔らかい泥の上にくっきりと残っていた。
爪を上げ、気配を消して
無音で歩いている。

身の毛がよだつ、とはこのことか。
熊の気配がないと落胆しながら
私が林道を登っていくのを
物陰からじっと見ていたのだろう。

そして私をやり過ごした後に
音もなく林道を横切り、
消えていった。

爪の跡をくっきりと残していた、
私が撃った母熊とは違う。
より経験を積んでいて、狡猾だ。

手強い。

たった一つの足跡で
ここまで私を怯えさせる存在に出会えた幸せと
リアルな恐怖に震えながら、
ゆっくりと山を降りる。

その後、その熊の痕跡は山から消え、
結局出会うことは無かった。

私は命拾いをしたのかもしれない。


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