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駆除

私の中にずっと存在する
ひとつのモヤモヤに、
終止符を打ちたい。



初めて獲ったヒグマ。
それが母子だったことを話すと、
「次に現れたヒグマが母子だったら、また撃つのか?」
と聞かれることが多い。
自分自身も、ずっと同じことを考えていた。

ヒグマ生まれた時点での性比はオスメスで変わらず、
50:50とされている。
(出典:知床半島ヒグマ管理計画 2017、釧路自然環境事務所/道森林管理局)

ヒグマはこれからもずっと狙っていきたい。
次はオスを獲りたいと思ってはいるが、
そううまくことが運ぶとは限らない。
目の前に現れる確率は、オスもメスも同じ。
次もメスであり、更にそれが子供を連れている可能性も十二分にある。

以前、ヒグマ猟の記事にも書いたが、
母子を撃つのは辛いものだ。
許しを懇願するような目で私を見つめた
子熊の眼差しはトラウマに近いものがある。



母子熊を撃った後、ヒグマにはまだ出会っていないが、
母子の鹿には出会っている。
その時は特に迷いもなく、
丁度木々の間から全身を出していた母親の方を撃った。

肺を撃ったのでその場では潰れず、
母親は斜面を駆け降り、
子鹿が後を追っていった。

視界から消えた鹿を追うが、
倒れている姿を見る前に
私は母親を仕留めたことを確信していた。
鹿が倒れているであろう斜面の下を目指し、
大急ぎで、ザクザク音を立てながら歩いているにもかかわらず、
か細く甲高い警戒音がずっと逃げずに
同じ場所から聞こえてくるからだ。
子鹿の声だ。
やがて、ウロウロしている小さな体も見えてきた。
そのそばには母親が倒れているのは明白だった。
でなければ、母親自身がさっさと逃げ、
それを子鹿も追うはずだ。

母を撃ったら、子供も止めるのはハンターの使命。
少々遠いが、座っては見えなくなってしまう。
丁度、目の前には若いトドマツの木があり、
私は銃の先台を横枝に乗せ、安定した姿勢をとった。
絶対に当てる自信はあった。
鹿は人間でいうところの表情筋が乏しいからか、
こちらを見ている子鹿は恐怖に怯えた顔ではなく、
母の隣ではしゃいでいる時と同様とても可愛らしい。
せめて、きちんと旨い肉にしよう。
引き金をゆっくりと引こうとした瞬間、
不思議なことが起きた。
急に銃を乗せていた枝が折れたのだ。
山の神が子鹿に、生きろ、と言ったのか。
走り去る子鹿を、
私は半ば安堵しながら見守った。
単に、自分が新たなトラウマを抱えなくて済んだという
エゴイスティックな気持ちだったのかもしれない。
とにかく、熊だろうが鹿だろうが、
母子を撃つということは非常にしんどいことだ。

それでも、もしまた私の目の前に
子連れのヒグマがひょっこり現れたら。
悶々と考え続けてきたが、もう決めた。

撃つのだ。



理由は大きく二つ。
一つは個人的なもので、
ヒグマの肉がとてつもなく旨いから。
その味は、私の周囲の皆を笑顔にする。
これが何と言っても、第一の理由だ。

もう一つは、後付けではあるが、
社会的な見地に立ったもの。
ヒグマの数は増加傾向にあるとされ、
2021年のヒグマによる死傷者は12人。
統計開始以来、最悪の結果となっている。
6月、札幌市の市街地で
パニックになったヒグマが4人を襲った事件は
衝撃的だった。
11月、夕張市役所から2キロの地点で
ハンターがヒグマに襲われて死亡したという事件も
記憶に新しい。

市街地に出てくるヒグマは、
強いオスに駆逐されて新たなテリトリーを探す若いオスと、
子供を産んだばかりで繁殖の対象とならないメスが多いという。
オスは自分の子をメスに生ませるため、
メスが連れている子熊を殺すことが知られている。
要するに、ヒグマの総数が増えた結果、
山からあぶれた弱いヒグマが里に降りてきているのだ。
増えすぎた個体数を調整するなら、
メスの数を減らすのが最も確実だ。
オスを駆除したとしても、繁殖可能なメスが残れば、
別のオスと交尾し増えてしまい、次世代の数は変わらない。
そして現在、ヒグマの数を減らす役割を果たせるのは、
私たちハンターしかいないのだ。



行政からの依頼で、駆除にあたるハンターもいて、
出動要請は以前より増えている。
そうした中、色々な軋轢も生まれている。
2018年、砂川市の依頼を受けてヒグマを駆除したハンターが
「建物に弾が届く恐れがあるのに発砲した」という理由で
北海道公安委員会により、銃の所持許可を取り消された。
結果、「これで摘発されるなら駆除はできない」と
ヒグマが出ても見回りはするが発砲はしないという対応をとる
猟友会も出てきた。
発砲したハンター自身も訴訟を起こした。
先日ようやく、札幌地裁が「権限乱用」という見解を出して
公安の処分を取り消した。
我々ハンターにとって朗報ではあったが、
最大の争点であった、
熊の後ろにあった高さ8mの斜面が
バックストップとして機能していたか、については
札幌地裁は触れることは無く、
私の中には釈然としないものが残った。

そして新聞には、識者のコメントとして
「趣味の狩猟は鳥獣保護法で厳しく取り締まるべきだが、
同じ法律を害獣駆除に適用すれば社会の要請に応えられない」
といった文章が掲載されていた。
全く以ってごもっともなご意見であり、
この方自身が駆除を行う業者であることから
他意はないご発言とは思うが、
これを読んだ読者はどう思うのかを考えると
少し複雑な気持ちになった。



私は趣味で狩猟をしており、
害獣駆除には携わっていない人間である。
狩猟が鳥獣保護法に則ったものでなくてはならないことは
十分に理解しているし、法令遵守の促進に努めてもいる。
しかし、狩猟は取り締まりの対象、
駆除は推進すべきもののようであるらしい。

一体、「狩猟」と「駆除」は何が違うのだろうか。
狩猟は趣味で遊び、
駆除は義務で仕事、
ということか。

確かにそういう見方もできるが、
野生動物の命を奪う、という点においては
何ら変わりはしない。

狩猟は単なる個人的な楽しみ、
駆除は皆の命を守る大義に則ったもの、
と思われるかもしれないが、
本来、狩猟も自分達の命を繋ぐための食糧を得る行為だ。
肉はスーパーで買うべきもの、と思い込んでいる方々には
なかなか理解していただけないことも多いが。

そして、野生の命の力をいただく、
ということに強いこだわりを持っている私にとっては、
駆除された個体がどう処理されたかが気になってならない。
駆除は仕方ないとして、彼らはきちんと解体されたのだろうか。
そしてその肉は誰かが食べたのだろうか。

昨今、行政もジビエの推進に力を入れてはいるが、
駆除された野生動物の多くが産業廃棄物として処理され、
そのコストが問題視されることも多い。
あの、凛々と美しく、人間がどう足掻いても敵わない力の持ち主。
その命が、産業廃棄物とは。
あまりにも自分勝手で失礼な扱い様に、
本当に動物たちに申し訳ない気持ちでいっぱいである。

せめて私は、自分自身も自然の食物連鎖の輪に加わり、
可能な限りフェアに彼らと対峙し、
きちんとその肉をいただこう、と改めて心に誓った。



ところで、ここまでの歴史を鑑みるに
増えすぎた動物は、
どうやら駆除される運命を辿るようだ。

だとすると、
問題となっている、ヒグマよりも、エゾシカよりも、
よっぽど増えている輩がいる。

1950年には25億匹であったが、
2000年には60億匹を超え、
2100年には100億匹を超えるとも予想される。

彼らは、
生態系のバランスを崩すだけでなく
気候までをも大きく変化させ
自分の利益だけを優先し
多くの他の生物を絶滅に追いやってきた。

もはや自分達が
猿の一種であることも忘れつつあるらしいその動物を、
母なる地球が、駆除の対象に選ばないことを
祈るばかりである。


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