贖罪
子鹿の解体を終えて一息つく。
銃弾は両肩甲骨を貫いていたので、
前脚は残念ながら諦めた結果、
肉は全部まとめても
20キロはないと思われる。
早めの昼食を食べる。
まだ母親がそばにいるような気がする、
などと話しながら冷たいおにぎりを頬張る。
子鹿が倒れていた斜面の上には
新しそうな足跡もある。
時間はまだ昼。
このまま帰るのも少々物足りない。
私はまだ歩けるし、
Hは鹿を撮影どころか
まだ生きた鹿を見ていない。
バックパックを交換し、
Hに肉を背負ってもらって
もう少し奥へと進むことにした。
しばらく歩くうちに、体が無意識に止まった。
見慣れたシルエット。
一頭のメスがこちらを見ている。
距離は100メートル弱か。
今度はHを呼ぶことも
振り返ることもしなかった。
鹿から目を離さないままに弾を装填。
素早く膝をつき、狙いを定める。
スコープ越しに鹿と目が合う。
1秒にも満たないであろうその瞬間。
殺すものと殺されるものが無言で交わす会話。
私と鹿以外誰も入り込むことのできない
時間が止まった音のない世界だ。
きっとあの子の母親だろうな、
という思いが頭をよぎると同時に
引き金を引く。
跳ね上がり、駆け出す鹿。
あっという間に視界から消えてしまう。
私も走る。
鹿が立っていた場所に到達すると
鮮血が散っている。
そう遠くないところで倒れているはず、と踏んだ。
雪の上の血は追いやすい。
ほどなくして、最初の血痕から
50メートルほど離れた場所で倒れている鹿を見つけた。
すぐに追いついたはずなのだが、
既に完全に事切れていた。
雌鹿の頭に手を置き
何度もありがとうと言葉をかける。
顔を上げると、すぐ横の木の幹に目が釘付けとなった。
地面から数十センチの高さに
血がべったりとついている。
胸に開いた銃痕から流れ出したものだ。
そこまではポタポタと垂れていた血が、
この木だけには
大量になすりつけられたようになっている。
その血痕から、鹿の最期に思いを馳せる。
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今日は最悪の日だ。
四つの輪がついた大きな箱が猛スピードで近付いてくると、
雷のような音が響き
最愛の我が子を失ってしまった。
しかしあの子は本当に死んでしまったのだろうか。
むくりと立ち上がり、
また無邪気に甘えてきたりはしないだろうか。
尾根を越えて逃げようとも思ったが
やはりあまり遠くまで離れる気にはなれない。
おや、また例の二足歩行の生き物がいる。
稜線をヨタヨタと歩く姿は本当に不恰好で哀れなものだ。
こちらに気づいたようだ。
何か黒い筒を持ち上げた。
嫌な予感。
我が子に向かって放たれたのと同じ雷鳴が轟く。
左胸に焼きつくような痛みを覚える。
無我夢中で走り出す。
全速力であの忌まわしく醜い生き物を振り切るのだ。
あの生き物は自分では
ノロノロとしか走ることができない。
谷を渡り、尾根を越えよう。
今までも色々なピンチはあったが
いつだって乗り越えてきた。
今回も、きっと。
しかし今日はいつもと何かが違う。
とてつもなく息が苦しい。
肺に血が溜まり、口から吹き出てくる。
走る速度が落ちてきているのが自分でも分かる。
いくら野山を駆け回っても疲れることのなかった
自慢の脚が鉛のように重たい。
倒れてはならない。
もしここで倒れてしまったら、
もう二度と立てないであろうことは体で感じている。
この苦しみに耐えられず、
あの子は倒れてしまったのだ。
まだあんな小さかったのだもの。
かわいそうに、無理もない。
しかし私は絶対に倒れてはならない。
いくら苦しくても、絶対に。
冬が終わり春が来て、
夏が過ぎて秋になれば
また力強い雄とつがい、
新たな命を宿すのだ。
意識が朦朧としてくる。
立木が目に入る。
少しだけ休もう。
そしてまた逃げなくては。
幹に体を寄せ掛ける時にひどい痛みを感じる。
傷口を木に当ててしまったようだ。
血がどんどん流れ出していく。
寒い。
出血が体の熱を奪っていく。
もうどうにも、脚は前には進まない。
走るのだ、生きるのだ、という意志だけが
木々の間を駆け抜け、稜線を越え、空へ昇っていく。
幹を伝った大量の血が雪に、
そして土に吸い込まれていき
遂にその上に倒れこむ。
視界が霞み、
あの子の足音が聞こえてくる。
待っててくれたの?
やっぱり一人で行くのは怖かったんだね。
さあ、一緒に行きましょう。
最期の息を
ゆっくりと吐ききる。
大丈夫。
見慣れた山は
今日も美しく静かだ。
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この日二頭目の解体。
キースの教えの通り
枝に刺すために気道を切り取る。
それを二つに分けた。
一つはこの場所に。
もう一つは、子鹿を解体したところまで持ち帰り、
子鹿の気道を刺したのと同じ枝に刺そう。
本当に親子かどうかは分からないが、
私はそう感じていたし、
もし違っていたとしても、
同じ日にすぐそばで命を落とした者同士、
寄り添うことで力を合わせて
天に昇ってほしい、とも思った。
帰り道。
Hと再びバックパックを交換し、子鹿の肉を背負う。
メスの肉はブルーシートに包んでロープをかけ、
ソリのようにして引く。
二頭分の肉を一人で運ぶやり方は頭にあったが、
実際に試すのは初めてだ。
子鹿の場所までは数百メートル。
無事に歩ききり、一旦荷物を下ろす。
子鹿の気道を刺した枝を見ると、気道が見当たらない。
既にカラスかトンビに持って行かれたようだ。
遅かった、ごめん、と心の中で雌鹿に詫びる。
あの子はここから天に昇ったんだよ、と、
同じ枝に雌鹿の気道を刺した。
車まではあと4キロほどか。
再び子鹿を背負い、雌鹿を引き、
歩き始める。
二頭をどうしても
自分の力で運びきりたかった。
去年の3月14日。
山奥で右ふくらはぎの筋肉を断絶した私は
その日撃った二頭の鹿の肉をその場で捨て山を降りた。
その後1ヶ月を、車椅子と松葉杖で過ごすこととなった。
私は、欲張り過ぎた自分に、
山の神が罰を与えたのだと感じている。
自分の命を守るために肉を捨てる、
という判断が間違っていたとは思わない。
しかし、二頭の鹿を殺しながら
その命をきちんと有効活用できなかったことは
常に心に引っかかっていた。
だからこの日は、
何としても二頭の肉を
自分で持ち帰りたかったのだ。
去年は、大きな雄と一歳の雄の肉を全て背負った。
険しい稜線なのでソリは使えなかったし、
当時はそもそもソリという発想もなかった。
この日は、雌と子鹿。
比べれば重さはだいぶ軽く、
しかも一頭分はソリのように引いているので
体への負担は全然少ない。
しかしずっと歩いていると
やはりじわじわと疲れが増してくる。
途中で日が暮れる。
ヘッドライトを出す。
後半は歩きやすい車の轍に沿って歩いていたが
徐々に方向がずれてきていて、
どうもこのままでは戻れそうにない。
来た道を少し引き返して、笹薮に入る。
獣道を進むが、あまりにずれると
無理矢理藪を漕いで進む。
ソリが木の根や笹に引っかかると
Hが後ろからフォローしてくれる。
猟を開始してから10時間。
11キロ近くを歩き、ようやく車に辿り着いた。
結局Hは生きた鹿を見ることはできず、
私が発砲する瞬間を撮ることもできなかった。
しかし、きっと残念には思っていないだろう。
この日、無残に殺された子鹿の肉をいただき、
自分でもう一頭撃った雌鹿の肉も全て持ち帰った。
怪我により捨ててしまった二頭の雄鹿が
私を許してくれたとは思えないが、
今回は山の神が、
正しい猟をしようとする私に
力を貸してくれたように感じた。
去年からずっと引きずっていたわだかまりを、
子鹿と雌鹿が、私から取り外してくれたのだろうか。
一つの区切りをつけられた気がした。
※写真はHiroaki Okawaraさんにご提供いただきました。