ふたすじの足あと
大好きな詩が、ある。
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ある晩、男は夢を見た。
夢の中で、彼は神と共に砂浜を歩いていた。
空には、男の人生の軌跡が映し出された。
それぞれの場面で、砂浜にはふたすじの足あとが見えた。
ひとつは彼のもの。もうひとつは神のものだった。
人生最後の場面が映し出された時、
男は砂の上に残された足あとを振り返った。
すると多くの場面で、足あとがひとつしかないことに気付いた。
そしてそれは全て、彼の人生の中で最も辛く、悲しい時のことだった。
男は憤り、神に尋ねた。
「神よ、私があなたについてゆく決心をした時、
あなたはいつも私と共に歩んでくれるとおっしゃった。
しかし人生で最も辛かった、まさにその時に、
足あとはひとつしかない。
最もあなたを必要としていた時になぜ、
あなたは私を置き去りにしたのか?」
神は答えた。
「かけがえのない、大切な我が子よ。
私はお前を愛し、片時もそばを離れたことなどない。
お前の試練と受難の時、足あとがひとすじしかない時。
それは、私がお前を背負って歩いていたのだよ。」
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題名は“Footprints”もしくは“Footprints in the Sand”。
キリスト教信者の間では有名な詩で、
原作者については諸説あるようだ。
私自身はキリスト教信者ではないが、
折に触れ、この詩を思い出す。
「自分ばかりが苦労している」と
つい独りよがりになりがちな思考を戒め、
大いなる力に抱かれて人生を送っている
安堵を与えてくれる、大切な詩だ。
2022年3月末。
ふたすじの足あとを見つけた。
その足あともまた、上記の詩とは違った意味で
大きな幸福感をもたらしてくれた。
その話を、しよう。
2016年に、転勤で北海道に来てから6年。
4月から東京に戻ることになった。
残念だが、会社勤めの身としては致し方ない。
猟期の締めくくりに選んだのは、
秋から冬にかけ、ヒグマを獲るために通い詰めた山だった。
その地域は雪が深く、冬には鹿が減ってしまう。
12月半ばにヒグマが冬眠した後は、
私の狩猟に同行したいという希望者を鹿狩りに連れて行く為、
別の山域に通い続けていた。
3ヶ月以上ぶりに舞い戻った、馴染みの地。
ヒグマ追いしかの山、と言ったところか。
早朝から歩き始める。
春の日差しが燦々と降り注ぎ、
暑くてジャケットを脱ぐが、
足元は未だにスノーシューがないと
膝まで雪に沈む。
しばらくして、ヒグマの足あとを見つけた。
間違いなく、雄だ。
去年最後まで追い続け、遂に仕留めることができなかった、
熊五郎のものだろうか。
足跡に手を重ねてみるが、相当な大きさだ。
熊五郎より二回りはデカい。
300キロは超えているだろう。
銃を持ってはいるが、ヒグマを撃てる期間はもう終わっている。
襲われないように気をつけなくては。
気が引き締まる。
山の奥へ、歩を進めてゆく。
目の前にはふっくらとした冬芽。
コブシのものだろうか。
動物のようにびっしりとした冬毛に覆われた中には
春への期待と喜びが漲っている。
モノトーンだった山に、彩りも戻ってきた。
雪の上に散らばる、鮮やかな赤、黄色、緑。
イタリアンサラダのような配色は、
ヤドリギの実が弾けたものだ。
ヤドリギは着生植物。
日当たりの良い大木の枝に根を食い込ませ
水分や栄養を奪うという
なんともたくましい生態を持つ。
上を見上げると、あるわあるわ。
鳥が大挙して巣を作ったようにも見える。
種は液に覆われ、拾い上げると、
驚くほどの粘り気だ。
鳥に食べられて運ばれ、
止まった木でフンとして排出されると
その枝に貼り付いて成長してゆく。
自分の未来を、完全に鳥に託してしまう潔さは、
人間には到底真似できるものではない。
ふと、獣の気配を感じる。
木立の合間に、美しい雌鹿が一頭、
すっくと立っていた。
私を見つめたまま微動だにしない。
目を合わせたまま、しゃがむ。
息を吐き、半分で止め、
引き金にかけた人差し指を静かに絞る。
私が膝をついた大地の延長線で、
鹿はゆっくりと横たわった。
今期最後の、山神からの授かりもの。
美しさを讃えながら、肉にする。
気道を枝にかけて祈る。
何度となく繰り返してきた大切な儀式だ。
10月に親子熊を獲った場所に、お礼参りに向かう。
彼らが横たわっていたトドマツの前に立つ。
爪痕が刻まれた太い幹を両手で抱える。
暖かい日差しに包まれると同時に、
体の奥底からも熱が込み上げてきた。
既に私の体の一部となったあの親子熊。
魂の根幹に入り込んでいるあの日の記憶。
それらが共振し、発熱しているのを感じる。
ひたすら「ありがとう、ありがとう」と唱え続けた。
そしてまた雪の上に、新しい熊の足あとを見つけた。
林道を歩く、小ぶりのメス。
その隣に並ぶ足あとは、もっと小さい。
親子だ。
よくぞ、この厳しい冬を、無事に越してくれた。
ふたすじの足あと。
じゃれる子熊は、頻繁に母親の背中に乗る。
その時、詩と同じく、足あとはひとつとなる。
慈愛に満ちた美しい光景が目に浮かぶ。
またしても「ありがとう、ありがとう」と唱え続ける。
秋に、ある親子を撃っておきながら、
春を迎えることができた別の親子を祝福する。
これは自分勝手な感情なのだろうか。
矛盾した思考なのだろうか。
いや、そうではない。
自分が生きるためには、他の命を食べなくてはならない。
生きる喜びと、殺す悲しみは、
まるで吸った息を吐くように、
自然なひとつながりとして存在している。
私は熊に憧れ、熊を敬う。
心から熊を愛しながら、
これからも彼らを狙ってゆく。
ふたすじの足あとは、やがて林道から外れ、
山奥へと登っていった。
健やかであってくれよ、と
並んで歩く親子熊を心の中で見送りながら、
しばしの別れを告げた。
そろそろ、私も、帰ろう。
林道を出るゲートの手前で
最後に歩いてきた道を振り返る。
ひとすじしかない、足あと。
しかしこの日、そこに寄り添う
たくさんの命の面影が見えた。
私もまた、一人で歩いているのではなかった。
涙が溢れる。
「必ず、戻ってきます」と
山神に誓った。
また、逢いに来よう。
何度でも、逢いに来よう。
鹿に、熊に、
そして、私自身に。