料理人の矜持
煙を、料理として、提供されたことはあるだろうか。
もう一年近く前、
お世話になっている札幌イタリアンの名店
「ケーダッシュ」でのこと。
目の前に運ばれてきた時には驚いた。
皿の上にはグラスが乗せられている。
普通と違うのは、口を下にして伏せられていることだ。
中は真っ白に曇っている。
一体これはなんなのか。
何が入っているのか。
期待が高まる。
グラスがゆっくりと取り除かれると共に、煙が溢れ出す。
香ばしい芳香を胸いっぱいに吸い込むと、
その下から鮮やかなワインレッドの鹿肉が現れた。
メニュー名は
「雄武産雌鹿のタリアータ
自家製ミズナラチップの瞬間スモーク
石狩行者ニンニクのソースと共に」
ソースに使われている行者ニンニクは、
雪解けの早い石狩で私が採った、シーズン最初のものだ。
肉は、前猟期の一番最後に撃った
脂の乗り切った雌。
山菜の走りにエゾシカの名残。
この最高の組み合わせは、北海道の4月にしか
味わうことはできない。
そして、スモークチップに使われたミズナラは、
ケーダッシュのオーナーシェフ、Dからの
「鹿が暮らしていた場所の、広葉樹の枝が欲しい」
というリクエストにより採取したものだ。
実際に雌鹿を解体した時に吊るしたミズナラから、
枝を少しだけいただいた。
スモークは、肉に風味をつけるという目的だけではない。
私達に命をくれた雌鹿への餞だという。
この鹿が共に生きてくはずだった木。
その生涯を全て見届けるはずだった
母なる木の煙と共に、
雌鹿は空へと還ってゆく。
それは最早、単なる料理ではなかった。
命をいただく、ということへの感謝。
鹿の魂をおくる、という物語。
そうしたものを全て、テーブルの上で凝縮させる。
Dとは、そういう料理人だ。
味が絶品であったことは言うまでもない。
心震える、一生の想い出となるディナーとなった。
その後も、一緒に山菜やキノコを採りに行ったり、
Dが友人と共同で米作りをしている田んぼで
田植えをさせていただいたり、
私にとって、いつしか大切な人生の友となったDを
先日ようやく、鹿猟にお連れした。
この日は、Dのために何がなんでも獲りたい、と思っていた。
真っ暗なうちに集合し、日の出と共に猟場に着く。
肉を運んでもらうための背負子にDのリュックを括り付ける。
ところが、重い。
過剰な防寒着や、大量の食料や飲料が入っているのだろうか。
狩猟はピクニックではない。
これで一日中山を歩き、帰りに肉まで背負って、
本当に大丈夫だろうか。
しかし、この日のために、Dは何度も近くの山に登って
トレーニングをしてくれていた。
スノーシューもわざわざ友人から借りて、練習済みだという。
そこまでしてくれた上で、この荷物を背負って歩きたいのなら
それもいいだろう。
緊張した面持ちのDを連れて、歩き出した。
すぐに新しい足跡を見つける。
これは、あっという間に出会う可能性もあるな、と気を引き締め、
集中力のギアを一段上げる。
森に入った途端。
案の定、一頭の鹿がいきなり頭を出した。
警戒したままこちらを凝視している。
歩き始めてまだ10分程か。
ここで獲ってしまうことに躊躇する。
フィールドサインを読み解きながら
体と頭をきっちりと使い、
五感をフル活用しながら鹿を追うのが
忍び猟の醍醐味だ。
それをDに味わってもらうことはできない。
そんな迷いを抱えながらも、
私の体は勝手に射撃の準備を始めていた。
膝をつき、薬室に弾を送り込み、スコープを覗く。
真正面からお互いを見つめ合う。
美しい雌。
お前が欲しい。
瞬時に、Dのことも心から消えていた。
時間はまだ7時を少し過ぎたくらいだった。
ファーストコンタクトから数秒後に、その日の猟は終わった。
鹿は寝起きだったようだ。
つい先ほどまで寝ていた、体温で雪が楕円形に溶けた窪みの上に
その体は崩れ落ちていた。
狩猟を始めて5年、こんなに楽に獲れた鹿は居らず、
本当はDとは、もう少し悔しさや苦しさを共有したかった。
が、それでも、獲れないよりは良かった。
ナイフの入れどころを説明し、
すぐに血抜きをしてもらう。
イサム・ノグチが設計したモエレ沼公園の噴水のように
勢いよく立ち上る血は、
未だに命そのものなのか、
或いは、命だったものなのだろうか。
鹿を撃ち、解体して肉にしていく過程は、
現在形が過去形へと変化していく過程でもある。
普段から肉を捌いているDは飲み込みが早く、
解体でも随分と楽をさせてもらった。
この日も、燻製のための木が欲しいということで、
鹿が倒れていたすぐそばの
カシワの木の枝を少しいただいた。
またそのうち、あの煙の皿が食べられるのだろうか。
顔が綻ぶ。
スムースに作業は進み、撤収に入る。
そこで初めて、Dのリュックが重かった理由が判明した。
「ミキオさんと、乾杯がしたくて」と
Dがはにかみながら取り出したのは
ノンアルコールの缶ビール2本。
おつまみのチーズにソーセージ。
更に、水のペットボトル、ガスボンベにシングルバーナー、
コッヘルにカトラリー。
最後に出てきたのはラーメン。
やはりDはどこに在っても、骨の髄まで料理人なのだ。
新雪を踏み固めて、即席の小さなレストランを作る。
青空の下でDの営業が始まった。
チーズを食べながらノンアルコールビールを飲み、
熱々のラーメンを少し早い昼食に食べる。
何たる贅沢。
聞くと、バーナーのガスはかなりの時間、もつという。
ちょうど、解体したばかりの肉がある。
ヤナギの枝を数本切って先端を尖らせる。
ヒレ肉に串を打つところまで私がやったところで選手交代。
味付けからローストはシェフに任せる。
じっくりと肉の状態を見ながら焼いてくD。
私が狩猟中に肉を焼くときは
いつも、アウトドアだから、という言い訳をつけて
表面が焼けると同時に、多少硬い生焼けを
無理矢理に咬みちぎって飲み込んでしまうが、
Dはプロの目で冷静に肉の状態を吟味している。
焼き時間は私より全然長い上に、
氷点下、限られたアイテムをフル活用して
肉を休ませて保温、余熱を通していく。
どうぞ、と出された肉は
一年ほど前に食べさせていただいた煙の皿と同様に
五臓六腑に染み渡っていった。
毎度、私の心を震わせてくれるDの料理。
この日も最高の宴であった。
命に感謝して食べる。
言うは易し、
しかしそれをリアルに伝えることは案外難しい。
美味しいものを率直に喜ぶのは簡単だが、
その裏に秘められた悲しさや苦しみを感じられるのは
命が失われていく様を直視した人だけだろう。
私は、色々な人にそれを体感してもらうために力を尽くし、
Dは誰よりも私の言わんとすることを受け取ってくれている。
料理は愛情。
これもまた、言葉では聞いたことがあるが
きちんと腹の底に落とし込むことは困難だ。
最後にDが私に教えてくれた。
「料理が美味しいのは、技術です。
でも、料理が温かいのは、愛情なんです。」
そう。
Dとは、そういう料理人なのである。