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ミモザの約束
春風は、ある一羽のヒヨドリの羽ばたきから生まれるのを知っていますか。
好きなときに空を飛んで、好きなときに木に止まって、大きな声で歌をうたう。彼のでたらめな歌は動物たちからは不評でしたが、そんな気ままな暮らしがヒヨドリは好きでした。
ある夕暮れ、ヒヨドリは落ちてゆく夕日を見るのにちょうどいい止まり木を見つけました。黒くひんやりとした、少し変わった枝でした。
その場所から太陽までの視界を遮るものはなく、時間をかけて少しずつ欠けてゆくのを眺めながら、彼は大いにゆうぐれのうたを歌いました。顔をしかめて逃げ出すうさぎや怒り出すリスもいない、それはまったく自由な時間でした。
しばらく高らかに歌っていると、不意に自分以外の声が聞こえることにヒヨドリは気づきました。それはよく聞けば、彼の歌うのに合わせて小さく歌う声でした。
彼は歌うのをやめ、あたりを見回しました。
すると、振り返った先に大きな窓があり、中で少女が口ずさんでいるのが見えました。彼が止まり木だと思っていたのは、どうやらバルコニーの黒く錆びた手すりで、そこは大きな建物の一部屋のようなのでした。
清潔な白い壁、白いカーテン、そして白いシーツに半分体を起こした状態で、その少女はヒヨドリのことを見ていました。少女の着ている服だけがやわらかい黄色で、それがやけに印象的でした。
「もう一度歌って」
少女は言いました。ガラス越しでくぐもってはいましたが、その声はヒヨドリにはきちんと聞こえました。
彼はうなずくと、また調子っぱずれの旋律をかなではじめました。少女はまた嬉しそうにほほえむと、それに合わせて「ららら」と口ずさみました。
その声を聞きつけたのか、突然部屋に大きな体の女の人が入ってきて、少女に何か言いました。ヒヨドリにはすべて聞き取ることはできませんでしたが、それでも「体に障る」、「これ以上悪くなったら」という言葉をその女の人が口にしたのはわかりました。
ヒヨドリはその場から飛び去りました。
嬉しい気持ちと、説明のできない重たい気持ちがちょうど半分ずつ胸を占めているのでした。
その次の日も、夕暮れの時間になるとヒヨドリは黒い手すりに降り立ちました。少女はやっぱり同じように、ベッドの上に半分体を起こしてぼんやりとしていましたが、ヒヨドリを見ると嬉しそうに手を振りました。
そしてまた、女の人が部屋を覗きに来るまでの間、二人で調子っぱずれの歌をうたいました。
その次の日も、そのまた次の日も、夕暮れの時間が迫るとヒヨドリは黒い手すりを目指して飛んでゆき、太陽を眺めながら少女と歌をうたいました。少女は心なしか日に日に痩せていくようでしたが、ヒヨドリは気づかないように、つとめて明るく振る舞い続けました。
大きなガラスに阻まれて、決して触れ合うことはない。けれど、夕暮れ時のほんのわずかな時間は、ふたりにとっていつしかとても大切な時間になっていました。
そんなある日のことでした。ヒヨドリが窓辺に降り立つと、ベッドの上に少女の姿はありません。
不思議に思ってしばらく待っていると、部屋の奥にあるドアから彼女が入ってきて、伏し目がちに窓辺へと近づいてきました。
ヒヨドリが安心して歌おうとした瞬間、先に口を開いたのは彼女の方でした。
「もうここにはいられないかもしれないの」
少女はまっすぐ、ヒヨドリを見てそう言いました。
「もう、会えないかもしれない」
小枝のように細い指先を窓にそっと押し当てて、もう一度つぶやくようにそう言います。
ヒヨドリにはよく意味がわからなかったけれど、なにかとてもさびしいことが起きているのだと思いました。彼は尾羽を下げて俯きました。
「あのね」
それまでの消え入りそうな声から一転、彼女は顔を上げて笑顔で言いました。
「春になったら、わたしはミモザの花になるから。君はどこへでもいけるでしょう。黄色を目印に、わたしに会いに来てほしいの」
少女の着ているワンピースの色が、ミモザの花と同じ黄色だということにヒヨドリははじめて気がつきました。彼は、一生懸命うなずきました。
「ガラスを越えて、ようやく会えるね」
少女は笑って、さっきよりも強く手のひらをガラスに押し当てました。わずかに白く曇る輪郭が、彼女の体温を知らせます。
ヒヨドリは2度ほどコツコツと、その手のひらをガラス越しにくちばしで叩くと、後ろを振り返らずに飛んでゆきました。
それから彼は、もうあの黒い手すりに飛んでいくことはありませんでした。
そして、春。
咲きほころぶミモザを探しに、ヒヨドリはそこらじゅうを飛んで回りました。そして、どれが少女であってもいいように、見つけると彼はかならず調子っぱずれのゆうぐれのうたを歌って聞かせました。
春になると、花をなでるような優しい風が吹くのは、そういうわけなのです。
***
この指がミモザの枝に変わったらやさしく揺らす風になってね
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