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海へとつづく国道で

遅くまで仕事をした日、わたしはときどき少し遠回りして国道を歩いた。

色とりどりの光を放つ大きなトラックや、風だけを残してあっという間に見えなくなるバイク。犬と一緒に夜の散歩をするご老人、ファーストフードから出てきて自転車にまたがる塾帰りの中学生。

まばらな街灯と星明かりの下で、みんな夜に半分姿を隠されている。誰かの気配を存分に感じるのに、誰も彼も干渉はしあわない。それぞれの人生が一瞬だけ交わる、この帰路がわたしは好きだった。

でもその日は、あまり手放しに幸せを喜んでもいられなかった。ガードレールに、少女が腰掛けていたから。

腰掛けた少女の脚は車道側に投げ出されていた。つまり彼女は、ガードレールに座って、すぐ目の前を飛び交う車やバイクの流れを眺めていたのだ。

小学生くらいだろうか。風になびく髪の毛以外、微動だにしないのだった。

なんとなく「よくない」と思った。倫理的にというよりも彼女にとって、なにか「よくない」ことが起きるかもしれないという予感がした。

「なにしてるの」

自分でも気づかないうちに声をかけていた。声を出してはじめて、国道が思ったよりもたくさんの音で満ちていることに気がついた。張り上げようとして半ば怒鳴るように響いてしまったわたしの声に、彼女がびくっと振り向いた。

「ごめんね、怒ったわけじゃないの。ただ、少し心配に見えたの……あなたはそこで、なにをしてるの?」

慌てて言い直す。言葉の意味を噛み砕くように、彼女はきょとんとした表情を浮かべている。お節介だったかな、と後悔しかけたそのとき、少女はにわかにひまわりがさいたかのような笑顔になった。

「車が魚になるとこ見てるの」

彼女は、はっきりと、そう言った。

「え」

今度はわたしがきょとんとする番だった。

「車が、魚に?」

彼女はうなずくと、やや舌足らずな声を一生懸命につむぎ出した。

「この道は海につづいているでしょ?この車たちはね、ほんとうはみんな、海に向かって泳ぐ魚なんだよ。海が近づくと、次々に魚に姿を変えるの」

この国道が、海へつづいていることは知らなかった。もっと言えば、わたしの毎日が海につづいているなんて考えたこともなかった。

わたしは、少女の目線まで下げていた顔を上げ、右から左へ流れていく車の向かう先を目を細めて眺めた。緩やかな下り坂になっているらしく、海どころかわずか数キロ先さえ見えない。でも、わずかに鼻の奥に、潮の匂いを感じた気がした。

「わたしはここで、車が魚になるとこを見てるの」

少女はもう一度、嬉しそうに繰り返した。

「お姉ちゃんも一緒に見る?」

服の裾を掴んで、にっこり笑う。

彼女の見ている世界がどんなものなのか、たしかに少し興味があった。それに、さっき鼻先を掠めた潮風の匂いの正体も気になる。

「うん、じゃあ一緒に見ようかな。そのかわり、危ないからガードレールのこっち側でね」

彼女が素直にガードレールを降りたのでほっとする。

流れのままにわたしは、少女とふたり夜の国道を眺めた。

少女はなにも言わず、食い入るように国道を見つめている。道を川に見立てているのだろうか。車もバイクも、テールランプの残像を残して軽やかに流れていく。その光の線はたしかに川のようだったし、メタリックな流線型のボディは、魚みたいだと言えないこともなかった。

なるほど。と、少女の気持ちを少し理解しかけたそのときだった。

比較的ゆっくり走っていた緑色の軽がぴょんと跳ねた。

「あ、ほら」

「えっ」

少女とわたしの声が重なる。そのほんのわずかな一瞬ののち、軽はトビウオへと姿を変えた。

あっという間に小さくなっていくその後ろ姿を、生き生きと揺れる尾びれを、呆気にとられてわたしは眺めていた。

「ね、魚になるでしょう」

少女の誇らしげな笑顔にわたしはうなずいた。車が魚になるという言葉は喩えではなかったのだ。わたしはすっかり国道から目が離せなくなってしまった。

「また変わるよ、ほら」

すると、ピンク色のサイドマーカーを灯した大型トラックが、魔法でもかけられたみたいにぽんっとクジラに姿を変えた。そしてそのまま、気持ちよさそうに左右に揺れながらぐいぐいと国道の中空を泳いでいく。

それからも、いろんな車がいろんな魚になった。

魚にならない車のドライバーや対向の歩道を歩く人々はこの不思議な現象に気づいていないようだった。見ようとしなければ見えない類のものなのかもしれなかった。

声をかけられるまで時間の経つのも忘れて、わたしは車が魚になるのを見ていた。

魚と車の混ざって光る、それは夜のパレードだった。

「あの、なにしてるんですか」

どれくらいの時間が経っていたのだろう。その声は、わたしを現実に引き戻すには十分な力があった。

仕事帰りのサラリーマンだろうか、不思議そうにわたしを見ている。

「あの、この子と……」

と言いかけてわたしは隣に少女がいないことに気がついた。

いつからいないのだろうか、はじめからいなかったのだろうか。あたりを見渡すも、気配さえも残っていなかった。

「いえ、ただ景色を眺めていただけです」

取り繕うようにそう言い残すと、わたしはなんでもなかったかのように帰路へついた。

なんだか、夢と現実の境目があいまいだった。

夢じゃないとでも言うように、わたしを追い抜いて、歩道の中空を金魚が泳いでいく。

あ、あの子だ。と思った。

そうか、彼女も海へ向かうのか。

ふわふわとした気持ちをそのままに、わたしもぷくぷくと二酸化炭素を吐き出しながら、気持ちの良い夜の長い帰り道をたどった。


***

あ、ひかった 海へとつづく国道で車は順に魚になって


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