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小鳥のこと
夏みたいに気温が上がった5月のある日、窓辺に、聞いたことのない声で鳴く鳥がきていた。
茶色くて、とても小さい。それが子どもだからなのか、単に体が小さい種類なのかはわからない。本の中でさえ見たことのない鳥だった。シルクのようになめらかな茶色い羽をふるわせて、懸命に何事かを主張している。
からからと窓を開けてあげると、風に乗ってふわりと甘い匂いがした。それが彼女の香りだということはすぐにわかった。
彼女はすぐさま入ってきて開口一番
「溶けちゃうところだったわ」
と言った。
「溶けちゃう?」
「お外は熱いでしょ。あなたのおうちがなかったら危ないところだった」
寒いところに住む鳥なのだろうか。
冷房のついていないぼくの部屋もたいして涼しくはなかったけれど、彼女はひととおり室内を飛び回ると、満足したみたいに電気スタンドの上に落ち着いた。
すぐに出ていくかと思ったけれど、彼女はなんとなく居座りつづけ、なんとなくぼくと小鳥の生活がはじまった。
はじめの印象のとおり、彼女はたいそうな暑がりだった。
じんわり汗ばむような陽気でさえ嫌がって、押入れのすみとか、シンクの中とか、少しでも涼しいところを常に探していた。
冷蔵庫の中に入ろうとしたこともあった。そのときはさすがにぎょっとして掬い上げたけれど、彼女にとってはほんとうにそれが適温のようで、いつからか冷蔵庫の中段右側が彼女のポジションになった。
「冷蔵庫に小鳥を住まわせているなんて、愛鳥家が見たら卒倒するだろうな」
「熱いと、わたし溶けちゃうから」
それが彼女の口癖だった。
住み良いならどこにいてもらったってかまわないけれど、ぼくのキャベツを冷蔵庫の中で勝手に食い散らかすのは勘弁してくれよ、と、点々と散らばる緑色を見ながらぼくは思った。
彼女はひょうひょうとしていて天真爛漫で、言い換えればだいぶ世話が焼けた。気温のことだけでなく食べ物や生活のすべてにこだわりがあり、ぼくはいつでもオーガニックのにんじんやセロリやレーズンを冷蔵庫の中段に常備しておかなくちゃならなかったし、彼女が眠いと言えば、どんな作業もいったんやめて彼女に物語を聞かせに行った。
日々の中心が彼女になり、なんだかんだ言いながら、ぼくにとってそれは決して悪い毎日ではなかった。むしろ、小鳥のおかげで笑っている時間が増えたくらいだった。
そんなふうに彼女との生活が3ヶ月ほど続いたある日のことだった。
最高気温はその年のピークを迎え、目に映るすべてのものが蜃気楼に揺られていた。夢かうつつかもわからないくらい暑い日だった。
冷蔵庫の中にいてもそれは伝わるようで、彼女も心なしか元気がなさそうだった。
「今日は冷蔵庫から出たらだめだからな」
「うん」
すみの方でしおらしくうなずく。でも、その返事はどこか上の空といったかんじだった。聞き流しているだけなのか、何か考え事をしているのかはその様子からはわからなかった。
ぼくは大学に行かなきゃならなかったので、小鳥のことは少し心配だったけれど家を出た。
そして、夜帰ってきたらもう彼女はいなかった。
冷蔵庫はもぬけのから。朝用意した野菜も手つかずのままだ。
部屋中を探しても見つからない。呼んでも返事がない。
ふと顔をあげると、小鳥が入ってきた窓が開きっぱなしだった。
慌てて駆け寄ると、窓辺には小さな茶色いシミがひとつついている。
ふわっと香る甘い匂い。最初に小鳥が入ってきたときにも感じた香りだ。
ああ、そうか、とぼくは気づく。
これは、チョコレートの香りだ。
心配する心の奥の方で、何かがしっくりくる感覚があった。
「熱いと、わたし溶けちゃうから」
彼女の口癖がよぎる。この言葉は、たとえでも誇張でもなかったのか。
暗くなった窓から顔を出して、見つからない小鳥の行方をぼくはしばらく思った。
風鈴さえ鳴らない熱帯夜。熱されて甘ったるく膨らむ香り。
今夜はなかなか寝付けないかもしれないな。
窓は閉めないままで、ぼくは深く息を吸う。
***
チョコレートみたいあの子は甘くって抱きしめてたら溶けてしまった
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