箱庭ワンダーランド
見たことのない菌をシャーレに取って一晩置いておいたら、翌朝シャーレの中で箱庭の地方都市ができあがっていた。
ああ、これはわたしの専門外だ。
白衣のポケットに手をつっこんで、少々途方に暮れる。
「グリッシーニ博士」
助手のペンネ君が色とりどりの本を背丈よりも高い位置に重ねながらよたよたと歩いてくる。
「博士、スニーカーの蝶々結びがときどき空を飛ぶ件、こんなにたくさん資料ありました……博士?」
箱庭の世界に少々気を取られてしまっていたようだ。軽く咳払いをしてごまかし、わたしは自分の作業机を指差した。
「ああ、ありがとうございます。そちらの机の上に置いておいてください」
雑然と積まれた資料の山。のように見えてすべてが正しい位置に収まっていることを、ペンネ君もわたしも知っている。
彼は資料の山が崩れないよう、要領よく古びた本をあるべき場所へ重ねていく。それを横目で見つつも、わたしの心はやはり目の前のシャーレにあった。
わたしは蝶々やリボンのような形状についての専門家であって、気まぐれに新しい世界を作りだす専門家ではない。すでに文化も人生もできあがってしまったこの小さな箱庭を、どうするべきだろうか。
「どうやらこれは、隣町のようですね」
後ろから覗き込んだペンネ君が、さして驚くふうでもなくそう言う。
「ええ、そうですね」
「パン屋のおばさんが小麦を抱えて歩いています」
「少年たちが川沿いで足を浸して遊んでいますね」
「すごくリアルだ。ミニチュアというよりも、そっくりそのまま世界を増殖させたような」
郵便屋の青年が飲んでいるラムネのビー玉が、研究室の白熱灯に照らされてきらりと光る。ペンネ君のいうとおり、これはひとつの独立した世界なのだろう。
「ふーむ、シャーレで世界を培養してしまいましたか」
「あっ、博士、見てください」
ペンネ君が興奮気味に指差す。
「これはこの研究所じゃないですか」
シャーレの端、縁にぎりぎりあたらないくらいの場所に、たしかに見覚えのあるきのこ形の青い屋根の建物があった。窓をのぞけば、今わたしたちがしているのと全く同じ様子で同じ場所に小さなわたしたちがいる。
「ふむ、どうやらこの箱庭は実際の世界とリンクしているようですね。ということは、この台詞を今まさにこの小さなわたしも発しているのでしょうね」
「ということは、この小さな博士の手の中にも箱庭の世界があって……うう、混乱しそうです」
「ペンネ君」
わたしは、シャーレを見ながら言った。
「はい」
「これはきっと、世紀の発見なのでしょう。しかるべき学会に発表すれば、いろんな人がいろんな活用法を思いつきそうだ」
「そうですね」
「ですから」
「はい」
「“わたしたちは、箱庭の世界など発見していない”」
「え?」
「わたしたちの生活に、これは不要なものなのです。すでに何万年という時間を、この発見なしに生命は生きてこられた」
「たしかにそうです」
「かと言って無下に処分してしまえば、この箱庭で暮らす人々も、わたしたちも、どうなってしまうかわからない。ですから」
わたしは、まるで前衛的な芸術作品かのように積み上がった書類の山の頂点を指差す。
「あのいちばん高いところにおいて、もうこの件は忘れてしまいましょう」
「わかりました」
わたし以上にわたしらしいとも言える優秀なペンネ君は、すべてを理解したかのようにひとつうなずくと、奇跡的なバランスで山の頂点にシャーレをおいた。
それは、がらくたの寄せ集めにも、なにか宗教的なオブジェのようにも見えた。
「さあペンネ君、空を飛ぶスニーカーの靴紐についての研究を再開しましょう」
「はい!」
そうして、きのこ形の青い屋根の建物の下で、いつもと同じわたしたちだけの時間が流れはじめるのだった。
***
箱庭のちいさな並行世界でもラムネの瓶のビー玉はきれい