オトナの転職と子どものオルタナティブスクールの関係

「オトナは転職するのに、子どもはなぜ学ぶ場所を選べないの?」

この記事にある「登校生と呼ばないのに、なぜ不登校と呼ぶの?」
という問いに考えさせられた。
しばらく考えたがこのストレートな問いに答えるのは易しいことではない。
実はオトナにとって「オトナは勤務先を変える場合があるのに、
なぜ子どもは教育を受ける場は選べないのか?」という問いにも思える。
そこに「オトナはオトナの事情があるんだよ」という返答は単なる言い訳にしかならないだろう。

企業活動の文脈では多様性、包摂、平等などが語られて久しい。
しかし、この3つは実際に子育てをする文脈ではそんなに易しいことではない。
オトナがかつて自分たちが受けた日本の教育について
批判するのは最も簡単な行動だが、
批判からは何も生まれない。
そして、オトナは自分が受けた教育を1つの経験として
「〜なものだ」と世代を越えて伝えがちだ。
これも単なる感覚や世代論の差異を表現しているだけで、握手はできない。

日本の学校システムの限界

この記事を読んで
「就学期間という一定時間の中で雑多に効率的に学ぶ
ことが学校教育の機能として限界を越えている」
という子どものメッセージなのかもしれないと感じた。

「一斉に何かのインプットを学校という同じ場所で受けるのは、
150年くらい前、日本が国を強くする必要があったときには
うまく機能したのかもしれない」と過去を振り返るのは簡単だが、
今を語ることにはならない。

オトナが「違いをどのように組み合わせてみんながOKになる世界を作ることの方が大切だよね」というのは最も容易な方法だが、
その渦中にいる本人からしたら、「今、何ができるか?」が解くべき目の前の課題なのだろう。
今を生きる子どもにとっては単なる感情論ではなく、超ドライな現実論として映るのだろう。

違いを巡る現実論を例に挙げると、
「視力が弱い→眼鏡をかける選択肢を与える→みんなと生活できる」
「大きな音に敏感だ→話しかけ方、指示の仕方を変える→良いパフォーマンスが出せる」
となるのに、日本は学校へ行く/行かないとなると極端に選択肢が少ない。

必要な人に必要なことが伝わらない構造

オトナから見ると、オルタナティブスクールやチャータースクールなど
オトナが子どものために作った選択肢はいくつかある。
しかしながら、「学びの多様な選択肢」が
登校する子ども、登校しない子どもに選択肢として届かないのは、
どのような社会的構造があるだろうか?

みんなそれぞれが異なる特性をもっているわけで、
この記事の読後に、みんながOKになるためにはどのような「目的」をセットするのが良いかを突きつけられている気がした。

モンテッソーリ教育

あるモンテッソーリ教育の先駆者の言葉を思い出す。
 *モンテッソーリ教育はイタリアの医学者であるマリア・モンテッソーリが創ったもので、初期は障害者をどう育成したら良いか?という医学的な見地から始まったものです。
 *子どもたちは毎日自分がやること(お仕事と言います)を
 常に自分で意思決定をするのが特徴の一つです。

「ふふふ、子どもたちは小学校5年生くらいから20歳くらいにかけて、本当に自分がやりたいと思うことを、それぞれの方法を使って見つけていくよ。結果みたいなものは、ずっと先だからね。だから、オトナのモノサシを押しつけすぎないでね」


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