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【読書】色に溺れる-四十八茶百鼠
朝、カーテンのない窓から外を眺めて薄暗い鼠空と葉が落ち切った6本の大きな木、裏の家の緑の芝生に微かな希望と癒しを見出しつつも雨が気持ちのどんよりに拍車をかける。
洗濯機を回したら、あとはもう何をする気にもなれなくて、冷め切ったコーヒーをダイニングテーブルに残したまま、隣部屋でアメリカに来てから買ったばかりの黒い皮のカウチに身を委ねてる。
スマホを観ても心踊らず、入り込みたいものも見当たらないので、オタク仲間の友人からのメッセージに返信して本を手に取った。
実はこの本はもうかれこれ1年くらいかけて読んでいる。つまらないのではなくて、読むたびに発見、驚き、目覚め、羨望、自分に対する失望などが巡るので、一気に沢山読めないのだ。それほどにストイックに一文字ずつ重く練られた文。
志村ふくみ『一色一生』 龍求堂
私は歴史の長い都会が好きで、新旧織り混ざった雰囲気を魅力的に感じる。一歩歩くたびに景色が変わり発見があるような東京下町や上海の里弄、チェコの旧市街そういう雰囲気が好き。
だからアメリカに引っ越すと聞いて心底がっかりしていた。私に取っては好きなものが何もない。
例えばニューヨークやボストン、シカゴなんかは楽しいと思う。
でもこの街には何もない。
行くところはスーパーくらいしかないし、見えるのはどこまでも並ぶ似たり寄ったりの家ばかり。
若い時のように何かに積極的にもなれなくて、
ただ友達に作らずじっと家にいる。
「古いものが好きならアンティークショップに行けば?」と言われたこともあるけど、物を買いたいわけではないし、古ければなんでもいいわけではない。
古いものが新しくものと共存して大事に使われている様が見たいのだ。
そんな心情で不貞腐れている私がこの本を手に取って数ページ捲る。
今日読んだ歌詞はタイトルの四十八茶百鼠のことが書いてあった。江戸時代の庶民は贅沢はできずに暮らしていたから茶紺鼠という色が着物でもほとんどで今のようにカラフルな服は着ることがなかった。
でも機械製造ではなく草木染めで自然に生まれる色はそれぞれに違う名で呼ばれ、愛されてきていた。
紫色の話では椿の灰で媒染するが椿が新しいか、伐採してすぐか、雨に濡れたあとなのかなど状態で締めあがりの色が変わってくるというのだ。
アンミカさんの名言に「白って200色あんねん」というのがあるがまさにさまざまな色には何百色もの可能性があってそれぞれ違い、奥深い。
こういう内容の本だから、さらっと読めずページをめくっては思い巡らし、色を調べ、ページを戻してもう一度読む。時間がかかるタイプの読書なのだ。
そうして今日も5ページほど読んで、さっき不貞腐れた気持ちで眺めた窓の外をもう一度眺める。
すると全く違う景色が広がっているように錯覚する。
灰色の空をみると、その色に隠された空の青が透けていて、水蒸気でいっぱいのモヤが美しい自然の白を足している。水気がたっぷりの雨上がりの曇り空は空気中に水分のせいで柔らかく優しく見える。
裏の家の芝生もさっきまでただの黄緑だったのに、冬ゆえの茶味が見えてきて黄緑というよりは燻った雰囲気が濃厚に見える。
木々の茶色も個性が増して苔と木の皮の色も木の種類による色の違いも鮮明になる。
私は変わらず同じ黒革のカウチに座って同じ場所から外を見ているのに、景色がこうも変わるとは、本の力、読書体験の妙、考え方によって見えるものが変わるとは、読書とは何という威力を持った体験なのだろう。そういうことを再確認する。