メリダとおそろしの森すごすぎ。
恥ずかしながら本日はじめてメリダとおそろしの森を見たんですが、とんでもない話でした。
「伝承文学ファンである自分」の目線で、どうすごかったのかちょっとまとめたいと思ったので書いていきます。
伝承文学、特に伝説として見る本作
先に記載した通り、私は伝承文学のファンです。
特に各国の伝承文学を比較し、その国ならではの特徴や雰囲気を感じるのが大好きなのですが、そんな私が「伝説のパターンとしての出来がよすぎる!」と感じたのが本作です。
しかしながらこの話からどう伝説を強く感じるのか? ということについては私のような伝承文学ファンにしかわからないかと思いますので、より楽しめる方が一人でも増えるようにと願ってこちらを記事にいたします。
ちなみに私は伝説については専門ではありませんので、アラはあるかと思います。ご了承くださいませ。
伝説とは
本作は作中でもよく描かれているように、「伝説」というものが主体になってくる作品かと思われます。メリダは「まだこの国は若いから伝説になっていない。でも物語がある。」という話をしていたと思いますが、彼女のこのシーンでの演説によりこのストーリーは伝説の文脈になったのです。メリダのダンブロッホ王国は彼女が語ったように、伝説になったのです。
伝説、というとピンとこない方もいらっしゃるかと思いますが、伝説というのは伝承文学の一部に分類されます。
定義としては厳密には難しいですが、「特定の人物や対象等においての特殊な出来事を”事実として”伝承した物語」のことです。アーサー王伝説が有名ですね。
これの神様バージョンが神話になります。
このストーリーはピクサーのオリジナルストーリーです。なので伝説であるはずがないのです。しかし、作中のストーリー展開で、巧みにこの「歴史のない、誰から受け継がれたわけでもないお話」は伝説の文脈を作り上げたのです。
メリダが作中でこの物語を「伝説」にした方法
上で述べた通り。伝説というのは事実ベースとして語られてこその話です。
メリダは作中前半で古い伝説のことを「お話だ(作り話だ)」とバカにしています。しかしその後、後半で心をいれかえたメリダはエリノア王妃に教わったように「伝説は真実と教訓に満ちている」と語ります。
ここがすごいところで、この作品は「作り話という前提で語ったら伝説は伝説ではない」という本質をガッツリ突いているんですね。
伝説は事実であり、自分たちの国も伝説となるのだというメッセージを込めることにより、作中で伝説を強く伝説たらしめています。
そして、「英雄的事実が受け継がれることで時を経て伝説になる」ということを作中で持ち出した上で「英雄的な出来事を起こす」んですね。これにより、メリダの王国が伝説になる準備は完了しているんです。
そしてこれが伝説としての最後のピースである「語り継がれていくこと」を暗示しているのは、ラストで出てきたクマと姫のタペストリーです。
王国はこのストーリーをタペストリーにし、後世に残していくことを決めたのでしょう。タペストリーが受け継がれていくことで、伝説になっていくことが示唆されています。
これがどれだけすごいことかと言いますと、先に申し上げた通り、伝説といってピンとくる人は少ないのです。しかし、この伝説的英雄譚を作るにあたってピクサーは伝説とは何なのかを調べあげたのでしょう。
脱帽です。正直このシーン見た時泣いた。
伝承文学の分類なんて普通の人はどうでもいいんです。伝説ってどういうものなのか? なんて考えることはないんですよ。
現に伝承文学をベースにしたウォルト・ディズニーアニメーションスタジオ作品である白雪姫、シンデレラ、塔の上のラプンツェル、これらすべてには伝承文学の特性がありません。
それを、よりにもよって創作ストーリーで「伝説」を作り上げたんですよこの作品は。それがどれだけ難しいことか。狙っていないとできないことです。
メリダを英雄と読み取る理由
メリダはこの伝説において英雄の一人とされるであろう女性です。
そして、ピクサーはおそらくメリダを英雄と結びつけるために様々な仕掛けを取り入れています。
たとえば、メリダは婚約から逃れるため、婚約者候補である諸侯の長男が射た矢の上から矢で中心を射抜く離れ業をやってのけます。
これはウィリアム・テルのオマージュかなぁと個人的に思っています。
矢によって離れ業を披露したウィリアム・テルも伝説として語られていますので、メリダも英雄として語られる存在であることへの示唆ではないでしょうか。
また、言うまでもないのですが怪異(鬼火)に導かれる存在であることや、大きな脅威となりうる怪異モルデューを打ち倒した(厳密には倒したのは王妃ですが)ことも英雄たるストーリーでしょう。
魔女との取引をするのも英雄っぽいですね。
メリダとおそろしの森だけが特別なのか?
先ほどから私は創作ストリーを伝説に仕立て上げていてすごい! という風に語っているかと思うのですが、おそらくこのはしゃぎ方に納得がいっていない方が結構いらっしゃるかと思います。
それは「ディズニーかどうかを問わず、英雄的なストーリーって多いし、全然特別じゃなくない?」「ヴィンテージディズニー作品は本の表紙から始まるし、アラジンだって語りから始まるんだから伝承の文脈を満たしているんじゃない?」というところですかね。
なんのこと言っとるか意味がわからんという方のために補足いたしますと、童話を元にした初期のディズニー作品はストーリーの始まりに実写の本の表紙を映し、「昔々あるところに~」という風に物語がスタートするんです。
「今からやるストーリーは、お話として本に書き記されているものですよ」という示唆を含んだ演出が為されているんです。
これのオマージュがウィッシュでもありました。
しかし私は先ほど「白雪姫、シンデレラ、塔の上のラプンツェル、これらすべてには伝承文学の特性がありません。」と述べました。
これについてなんでか? という疑問を持たれる方がいらっしゃるかと思いますので、お話させてください。
伝承文学の特性
先ほど伝説について説明するにあたり、伝承文学という単語が出てきたかと思います。こちらについて解説いたします。
伝承文学というのはざっくりいうと「作者が不明であり、土着で語り継がれてきた物語」のことです。
ですので、例えば同じディズニー作品の原作でもシンデレラ、白雪姫は伝承文学であり、人魚姫や雪の女王は伝承文学ではないのです(アンデルセンによる創作文学にあたります)。
日本でいうと、ごんぎつねは新美南吉による創作文学で、桃太郎は伝承文学です。
上記のように、伝承文学は大抵の場合口伝によって伝えられたお話です。
ですので、創作文学と比較すると前提の組み方などがテキトーで曖昧なんですね。伝言ゲーム的なものなので当然のお話です。
そして、なぜテキトーでも言い伝えられていくのかといいますと、伝承されていく地域の常識で語られるからです。
例えば桃太郎だと、桃から生まれた桃太郎が急に「鬼が悪さをしているから倒しにいく」という話をしてきます。
この場面一見簡単なのですが、実は「鬼という存在が居る」「鬼というのは悪さをする性質をもっている」という常識がないと意味がわからないんです。
ここで仮に「ゴバべべが悪さをしているから倒しに行く」という話をしていたら「まずゴバべべってなんだよ」というところでおじいさんとおばあさんの思考がストップするんです。
また、「福の神が悪さをしているから倒しに行く」という話だったとしても「福の神が悪さをするってどういうこと!?」となるんです。
つまり、伝承文学においての怪異は、その土地では常識になっているような存在が常識通りの性質をもっていることが多いんです。
そして、常識であるがゆえに説明がありません。聞き手や登場人物は「鬼」という単語一つでその存在を理解しているんです。
日本だと先ほど申し上げた「鬼」なんですが、鬼の細かい説明ってどのストーリーにもだいたいありませんよね。
これは他の民話にもあてはまり、例えばグリム童話でも「トロール」「怪鳥グライフ」などの単語が平然と出てきますし、ロシア民話でも「コシチェイ」「バーバ・ヤガー」等が割となんの説明もなく出てきます。
これらは説明が入ることが極めて稀な存在で、「複数の物語から察するになんかそういうもの」という認識がすでにその土地で備わっているんです。
メリダとおそろしの森が伝承文学の性質を持つ部分
メリダとおそろしの森においてこちらの説明のない怪異にあたるのが「鬼火(ウィスプ)」と「モルデュー」ですね。
鬼火という存在についての説明はないのにメリダは知っていました。モルデューについても同様です。
「実はモルデューは古い伝説に語られる長男の成れの果ての姿だったのだ!」という結構大きめに説明して伏線を張っていい話がめちゃめちゃ雑に描かれてるんですよね。
ここで何の説明もないのが非常に伝承文学っぽいんです。
まぁここから伝承文学を嗅ぎ取るほうが悪いと言われるとそれまでなのですが……。
ただ、ここで主張したいのは「説明をしない意味」についてです。
通常のストーリーテリングであれば、意味のわからない事象については「この存在はこれこれこういうものであり、こういった性質があるのだ!」という説明がついてくるのが基本です。
モアナと伝説の海に出てくるマウイでさえ冒頭で説明があったのです。マウイは実際にハワイで語り継がれる神であり、知っている人は知っている存在にもかかわらず丁寧に説明をしてくれます。
今回、鬼火はともかくとして創作で全く誰も知らない存在であるモルデューについての説明が微塵もない明確な理由はあるでしょうか。
私はここで「ピクサーはあえて説明をしていないのではないか」と考えているのです。
創作ストーリーを伝承文学たらしめるために、ピクサーはあえてここをぼかしたと思っています。
もしこれが思い過ごしでなければ、ピクサーは伝承文学、ひいては民族が脈々と受け継いできた文化的な文脈についての敬意をもって作品を作ったであろうことが想像できます。
説明のないスコットランド
伝承文学は先程も申し上げた通り、土着のお話です。
ですので、地域性がモロに出るんです。これも先に説明しましたが、地域の常識をもとにストーリーが出来ているんです。
例示するのであれば雪女などは顕著です。雪女は主に東北あたりで語られる怪異で、この怪異は「冬に雪が降る」という常識がないと成り立ちません。
例えば東南アジア付近であれば雪女は成立しないんです。
つまり「東北では雪が降るということを雪女は示唆している」んです。
しかし、東北において雪が降るなんていうのは常識中の常識なので、「雪というのは寒い冬の日に空から振ってくる小さな氷のかけらであり」などという説明はしません。
このように伝承文学は説明もなくその土地の性質を語る特性があります。
そして、メリダとおそろしの森はスコットランドの常識が遺憾なく描かれています。
例えばキルトをまくりあげ、嫌がらせとして他人に見せるシーンですが、これは「キルトの下は見るに耐えないものである」という常識が織り込まれており、要するにキルトの下はなにも履いていないことが説明もなく示唆されます。
また、タータンチェックも出てきましたね。チェックの模様は一族に受け継がれるもので、家紋と同じであることは有名かと思われます。これがしれっとなんの説明もなく入っています。
スコットランドの「風味」を伝承文学風に匂わせていると言えるでしょう。
ちなみにクマについて調べたところ「クマはスコットランドにおいてそんなに霊的な存在と密接な関係にないし、必ずしも文化がスコットランド準拠なわけではない。実際もうクマなんていない」らしいです。(ここめちゃくちゃ違和感があったので調べました)
ここはスコットランド準拠ではないっぽいですが、そのへんは創作の愛嬌ですね。
イギリス周辺でのクマの印象はこういう霊的な感じじゃなかったので、調べてみたらドンピシャでした。勘ってすごいね。
まとめ
これまで述べた通り、メリダとおそろしの森はストーリー中の語りと説明の扱いによって伝承文学、伝説の文脈を忠実になぞった稀有なアニメーションと言えるでしょう。
これに少しでも興味を持たれた方、ぜひとも本作をご覧になったり、伝承文学を読んでみたりしませんか?
あまり知名度の高くない作品ですが、現在東京ディズニーランドのパレードやキャッスルプロジェクションマッピングで彼女の姿が見られますので、この機会にぜひ!