「人間失格」の感想

これは太宰治の「人間失格」の感想特にまとめもせず、今の感情のままにこの文章をつづっていきます。なので、これから先、自分がどのような文章を
書くのか分かりません。

葉蔵の幼少期とそれによって形成された心

読む限り、要蔵は幼い日に様々な性的ないたずらを受けていた、それを「汚れ」と思っていた。そして、人に対して恐怖をもって、人と距離をとっていた。もう醜い欲望にさらされるのが嫌でしかたなかった。それで道化になってまで人と距離をとっていた。 それは言い換えると、葉蔵は人間の営む実生活から生じる欲望と悪意に対して耐えられなかった。

無償の愛と清らかさ

「花のアント(対義語)は女」とありますが、清楚なイメージの花にたいして、女とは清らかさのない欲望や何かの象徴だったのではと思っています。 だからこそ、葉蔵、白痴の淫売が与えてくれる「無償の愛情」や「清らかさ」をただただ求めていたように思いました。それは人間の営み=欲望からかけ離れたもので自分の汚れを清めてくれるものだったんだと思います。 そして、最後に妻ともいえる「ヨシ子」の「無垢の信頼」がそれに等しいものなのかなというのが読んだうえでの感想です。

「人間の営み」からの離脱

白痴の淫売という単語から、勝手に、彼女たちが知的障害があると推測しています。彼女たちはそれが故に魂や何かが、春をひさぐことをもってしても汚されることがなかった。それ故に、「無垢の愛情」を注げた。 しかし「ヨシ子」は「罪」の意識をもってしまい、それゆえに、汚れを背負ってしまったそれ故に、要蔵は、「ヨシ子」から清らかさを見出すことができなくなってしまったのではないか… 入水や自殺未遂は、「人間の営みからの離脱」であって、「無償の愛情」の成就ではなかったと思います。

復活するツネ子の清らかさ
心中したツネ子は人間の営みに憂いていた、またモルヒネでの自殺も人間の営みに葉蔵は苦しんでした。 そして、ヨシ子が勘違いして差し出すモルヒネを拒絶するときにもう一度「無知」を見出し、求めていた「清らかさ」みたいなものによって何かをとりもどしたんだと思いました。

キリスト教の失楽園

この話にはときどき、キリスト教の要素が入っています。そして、「無知」と「清らかさ」を結び付けているふしがあるように見えています。 知恵の実を食べたがゆえに、罪を背負い、それを引き継ぐことになった人間に対してそれ以前は白痴で、楽園に暮らしていた人。 この「人間失格」は、楽園の前後の人間を象徴しているのではと思いました。

竹一の予言

ひとまず、葉蔵を堕としたのは「人間の営みへの恐れ」で、それを昇華するには竹一にだけ見せた絵の様に、「人間の欲望」を正面に見据えてそれを写し取る事であったのだと思います。 竹一の予言「女に惚れられる」は、人間の営みに恐怖し苛まれる事を示し。「偉い画家になる」は、その恐怖を昇華する可能がある。それを示していたのかもしれません。

肯定できない葉蔵の自殺

そんなわけで、大庭葉蔵は「真実の愛」でなく「人間の営みへの恐怖」によって、堕ちたのだと思います。 私は「真実の愛」の成就のために「人の世の営みを捨てる、自決や堕落」を無上のものだと思っていますので、大庭葉蔵の自殺は肯定できません。 これが今のところの「人間失格」の感想です。

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