ヴァルター・ベンヤミン『暴力批判論』
ジョルジュ・ソレル『暴力論』を前提として語る『暴力批判論』他十篇を収めた一冊。ベルリンに居た時代の仕事を纏めたものだが、今回は『暴力批判論』に的を絞って論ずる。
ジョルジュ・ソレル『暴力論』は権力と暴力の二分類を唱え、ゼネストによる革命と神話の構築を訴えたのに対し、タイトルとは裏腹にベンヤミンも革命的暴力には存外に肯定的であり、その過程には議会制民主主義批判もまた同時に混ざる。
ただ問題なのは、ジョルジュ・ソレルがフランス人であり、フランス革命においてロベスピエールが『最高存在の祭典』を実施した伝統から、フランスにおける神話観念と実際的宗教の分離があり、そもそもが唯物論を基礎に置いたマルクス主義に再度神秘主義を導入したところにソレルの非凡さがあった。しかし、ベンヤミンは『暴力論』を受容した上で、ここで描かれる神話概念、神話的暴力をアブラハムの宗教におけるヤハヴェを引用し語ることで、ソレルの時点で分離されていた宗教と神話を結びつけ、神話をアブラハムの宗教の範囲に”狭めて”しまった。ここに一つの誤謬がある。
実際にはソレルの述べる神話概念とは、ゼネストによる国家転覆それ自体が神話化すること。この神話において過去の宗教は前提とならないことが『暴力論』からは読み取れるのだが、ベンヤミンはこの可能性を”アブラハムの宗教”という枠組みに落とし込んでしまっている。
その結果、神話的暴力の枠組みが”神の裁き”等の、絶対神・唯一神の概念として付随した解釈が述べられてしまう。これは非常に嘆かわしい。
無論、解釈の一端としてアブラハムの宗教におけるヤハヴェは引用され得るだろうが、神話的暴力はそれとイコールではないのに対し、ベンヤミンはそれを一面的に解釈してしまっている。これは端的に言って批評家の誤謬だと言われねばならないのではないか?。
最終的に理論は理想としての暴力の廃絶へと行き着くが……ソレル『暴力論』のある種の突飛さに対する暴力観念の解題、法における暴力を述べている部分は非常に面白かっただけに、原典の可能性を狭めている部分については非常に残念に思う。
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