転がる岩のいなちゃん
昔からずっと死ぬことが怖くてたまらなかった。もしも自分が生きている間に『楽園追放』や『攻殻機動隊』のようなテクノロジーの大時代が訪れたら、みんな死ななくて済むし、病気や事故は怖くなくなる。最愛の人と死別する恐れもない。誰かが格差や貧困に喘ぐことがないよう、グレートリセットしてほしい。人口増加で起こり得る問題に対処し、個々の価値観で住みわけをして、上手に折り合いをつけて、戦争が無くなってほしい。誰かが割りを食うことがないように設計された世界で、みんな幸せに暮らしてほしい。そんな安定という幸せを手に入れても、すぐに飽きて、暇になっちゃって、人はまた戦争を繰り返すのだろうと夢想する。
永久に自我を保つなんてことはあり得ない。自分を記憶装置でデータ化したとして、際限なく肥大した自意識を収める装置を増設していって、いつか果てしない未来に装置が宇宙全体を埋め尽くす。人間と宇宙が、私とあなたが、全となり一となる。いや、そんな気色悪い装置が存在しなくても、今までもこれからも、宇宙や私たちは普遍的なものなのだろう。そんなことを突然、言い始めようものなら、病気を疑われそうなので、厨二病noteをしたためることを再開する。
今のところ、数学や化学や物理で習ったことが最も普遍的真理に近い気がする。円周率のどこかには、私やあなたの生年月日やマイナンバー、SSDの中身までを表す、全ての数字が詰まっているのだろう。循環小数やメビウスの輪に美しさを感じる。宇宙のはじまりとおわり、私たちはどこからきてどこへ行くのか、そんな人知が及ばないような難しいことを考えようとすると、頭がおかしくなりそうだ。だいたい、思想や芸術や音楽や小説といった文化的なものを楽しむ余裕は一切ない社会人生活を送っているのだから。
人生100年時代と言うが、100歳まで元気でイキイキしていられる人はそう多くない。人間の肉体や脳みそは100年も生きられるようにできていない。長く生きれば、その分ゴミのような思い出も多くなるだろう。現代におけるストレス社会では、しっかりと睡眠を取って脳内の「ゴミ」を掃除しないと、認知症まっしぐらだ。だけど、SNSでゴミ収集を続けている。インターネットの世界やSFの世界、御都合主義の物語が好きだ。現実には希望がなくても、拡張現実には夢が広がっている。そういう現実逃避は社会人になる前から変わらず行っている。
現実世界の私は、ただの社不。不眠。夜驚。寝不足で記憶障害。会食恐怖。不潔恐怖。急に奇声を上げる。無意識で手の甲の皮膚をつねってちぎる。鬱で依存心が強いからスマホやテレビは捨てた。お風呂が怖い。朝は起きられん。すぐに腹が痛くなる。おまけに人の顔を覚えられない。協調性がない。興味のない話は上の空。そういう「ガイジエピソード」をクローズにして「ランチは付き合いが悪くて一人でどっか食いに行くけど、頼んだお仕事はちゃんとしてくれる人」枠を狙って働いている。なのに最近あった会社の飲み会では一口も食べられなくて、たぶん察された。
立ち入ってほしくなくて「ハハハ、夏バテですわ~」なんてごまかしていたが、睦さんにはお見通しだろう。その日はコロナ禍でできなかった睦さんの歓迎会だった。
「目が笑ってないから心配だよ」
彼は、心の機微が感じ取れる人だ。心配は有り難いけれど、あんまり詰められると私のガイジがバレるから放っておいてくれと思う。
「かわいそうになあ。イナちゃんは繊細さんなんだわ」
と北さんは言った。繊細さんとかハイリーセンシティブパーソンとかいう流行りの言葉は嫌いだ。そんなものは、オブラートに包んだ自意識過剰だと思う。ひねている自分が嫌いだ。
「楽しんでるから大丈夫ですよ。お酌お酌」
と私はヘラヘラと笑う。「かわいそう」と「繊細さん」呼ばわりが、ちょっぴり私の癇に障っていることに睦さんは気づいているのだろう。
「イナちゃん『こんな自由な職場に来たらもうやめられん』って言ってたもんね。ほんと自由すぎるよね。特に北さん」
北さんが、目を見開いて、わ・た・し~?と無言で口をパクパクさせながら己を指さしている。
「そりゃもうパラサイトしますよ。面接のときに清水さんがさ、私の『中退』『一身上の都合により退職』が並ぶ履歴書を見て『あなたの経験が役に立ちますよ』って言ってくれたの。私、泣きながら帰ったんですよ。ここが私の安住の地です」
「あー、そういうこと僕も言いそー。うまいこーと、丸め込まれたね。いろんなこと乗り越えてきて、ここにたどり着いたんやなあって。かかったな!」
「マジ?!騙されてる?!」
「『乗り越えること』なんてできないっしょ。この年になっても悩みはつきないんだから。それに、乗り越えられていたら、イナちゃんはもっと別のところにいると思うよ」
「それもそうか、ほんとそうだよねえ。親の介護とか、孫の面倒とかねえ。自分の死ぬ番が迫っているっていうのにねえ」
「本当にそうよ!この年になると死を身近に感じるわ。クヨクヨしてる間にこっちが死んじゃうわよ!」
アルコール依存症患者の平均寿命は52歳らしい。ギャンブルや大麻は命に別状はなくとも、アルコールは内臓がやられる。心臓病、高血圧、糖尿病、膵炎、胃潰瘍、神経障害、大腿骨骨頭壊死、エトセトラ。父さんに残された時間は、あとどのくらいあるだろうか。保健福祉センターで働く私たちは、たくさんの人を見送ってきた。おおよそ、私は父さんの末路を知っている。私が扶養照会を拒否すれば、父さんの遺骨を受け取り拒否すれば、私たちのような行政の人がなんとかしてくれるのだ。
「睦さんも、北さんも、私の目には達観してるように映っていますが、大変っすね。大人って。」
「イナちゃん、うちの孫からしたらあんたも大阪のオバハンやで」
北さんはときどき会社に孫の翔ちゃんを連れてくる。熱で保育所が預かってくれないから、北さんが預かるらしい。翔ちゃんは私のデスクの下でswitchをしている。正直、仕事に集中できないし、風邪にもかかりたくないから、直ちに帰ってほしいとは思っている。が、私は翔ちゃんにおやつをあげて甘やかしている。翔ちゃんと私が良好な関係であれば、北さんと私の関係も良好なのだ。北さんはいつもナチュラルに失礼なことを言う、THE 大阪のオバハンって感じ。睦さんは前に北さんについて「キャラ立ちしてるからって失礼なこと言っていいわけじゃない」と、やんわりキレていた。そのとおりだと思う。でも、北さんは、その人生経験に裏打ちされた何か含蓄あるお言葉をポロっと言ったりする。知らんけど。今日の飲み会は睦さんが、ひたすらに気をつかってくれているように思う。そこまで気を使われると、恐縮するし、それこそ私も大人なんだから少々ウザいオバハンがいても大丈夫なのにとも思う。
「イナちゃん、ここじゃなかったら、どんな仕事したい?」
「えー、なんだろう。んー、スナックのママとか?」
まず、人目が気になるから整形しまくるところからスタートしたい。もし「社会的信用」や「良心の呵責」を物ともしない心があれば、酒を飲んで不謹慎なことを言いまくる大人達を眺めていたい。それに、騙されやすくて口八丁でお金を搾り取られそうな人は、この世の中にたくさんいる。今の仕事は、楽しいけど、得意かと言われると全く。「他人に不快な思いをさせないようにしなきゃ」と思うことは窮屈だし。そんな気の利いたことを言えないのに、無駄に気を揉んで疲れる日々。
「あー、ろくでもない酒飲みのおじさんをお世話してそう」
「睦さんや清水さんみたいな寂しいおじいちゃんがお店に入り浸って、告白されて『そんなつもりじゃなかった』とか言ったら、刺されるで」
「せやで、燃やすで」
「え……嫌すぎる……皆さんは他にどんな仕事したかった?」
「僕はー……想像できないね。子どもの頃は、親父と同じ消防士になりたかったなあ。そんなこといつの間にか忘れて定年してた」
人生儚いでなぁ!とアラカンの二人がケラケラ笑っている。そうだ。人生は短いのだ。愛されていても気づかなかったり、なんとかなるのになんとかできなかったり、病気で苦しくて痛い毎日は、永久に続くかのようだ。仏教によると、人生には避けられない苦痛があるという。執着から解放されれば、苦痛は終わるという。棺桶までのランウェイをどうしていけば、多少なりとも幸福度を高められるのか。ダメージで変質した脳みそは不可逆か、穴の開いたバケツには何をしても無駄なのか。そんなことを考えながら働いている。
「うちは、あんまり両親がかまってくれなかったから、早く結婚したかったかな」
北さんは以前、自分は今でいうところのヤングケアラーできょうだい児だと前に話していた。「昔はそんなもんなかった」と。きっと早く結婚して、自分だけの家族が欲しかったのだろうと想像する。「気づいたら定年してた」なんて、サラっと言ってるけど、北さんには北さんの、睦さんには睦さんの、これまでの人生が詰まっているんだろうね。みんな長生きしてね。
「で、イナちゃんは何になりたかったの?」
「え、私?!んー、ロボットを作る博士になりたかった。ドラえもんが欲しくって……こんなん人に初めて話す!はずっ!」
私はのび太くんじゃない。のびのびとさせてくれる親や、都合のいい助っ人はいない。無いものが欲しかったら、諦めるか、愚痴るか、作るか。ドラえもんのような人を助けてくれるロボットや、寿命の延伸や自己補完を可能とするデバイスを、一般人が入手可能になる前に私の寿命は尽きるだろう。死体を冷凍保存しておくのだって、お金がかかるんだ。資本を持たない私が、生産手段を持って利潤を追求することはできない。私には既得権益がないから、この世界を破壊したいと願う。革命できたとして、新たな利権が生まれる。さあさあ主語がでっかくなって参りました。そういうときは大抵、精神状態がヤバい。博士や大金持ちにはなれない、それどころか君の前でさえも。
残りの人生を幸せに生きるために、今すぐ始められること。
1.寝ましょう。