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3月分

思ったことや考えていたことを、できるだけ短時間で文章にしているだけ。
毒にも薬にもならない(人によってはちょっと毒かも)(でも薬にはならない)。
書き手は未成年。17歳。
後々非公開、もしくは閲覧にハードルを設ける予定。


・傷つける言葉
・私以外私じゃないの
・異端の自覚、という異端



言葉を発することは、怖い。
常に、この言い方で伝わるのか、相手に恐怖を感じさせないか、考えては打ち直しながらメッセージを作っている。
時々考えすぎてもういいや、なんて諦めて送信することもある。

昔からずっと、話すことが少し変わっているみたいだった。
思うままに話せば、難しくて何を言っているか分からないと言われた。
しっくり来る言葉を使えば、怖いと言われた。
それがあまりに馴染みすぎたものだから、いつからか私の口調は怖いのだと、そういうものなのだと考えるようになった。

私は少し物言いがストレートなようだった。
それでは怖いらしかった。
怖がらせるつもりは無いからみんなに合わせようと思ったのだけれど、自分に無い価値観を合わせるというのも難しい話で、何とか笑いながら手探りで表現を抑え込むことでどうにか和を乱さずに済んだ。
笑っていれば、大抵のことは真剣に受け取られない。
怖がらせずに済むのならそれで良かった。

ただ、メッセージ上ではそうもいかない。
絵文字や顔文字ばかり使っても変なようだし、かといってあまり装飾しなければ私の口調では怖がらせるのだろうし、笑顔を使えないのはもどかしかった。

メッセージ上とはいえ、会話である限り私はできるだけ普段と同じ話し方をしたかった。
だから最初は頭に浮かんだ文章をそのまま打ち込もうとするのだけど、その度にこれでは怖いかもしれないだとか、誤解を生むかもしれないだとかそういう不安が指先を固めた。

そうして誤解する余地を無くして、傷つけないよう抑え込んで、加工した文章を送る。
時にどうしようもないほどもどかしいけれど、これがきっと正しいのだと思っている。

周りの少女が私を怖がったように、私は今、私自身がこれ以上誰かを傷つけることを怖がっている。それはもう、どうしようもなく。「お前の文面が怖いとか思ったことないけどな」という友人の言葉を貰って尚、一歩も動けないほどに。

傷つけずに済むのなら、何ら問題は無い。
ただ正直な表現ができないだけ。それだけだ。

だから、文章を書くことが好きなのかもしれない、と思う。
このnoteという場や文芸の舞台では、表現を抑え込むことなどしなくていい。
もちろん伝わらなくては意味が無いからそれなりに工夫が必要だが、どれだけ素直に書こうが、目の前の一個人を傷つけることなど起こらないからだ。
ほとんど頭の中そのままの文章で画面を構成していくとき、ああ、私らしい、と思う。

伝わりにくいとしても、優しくはないとしても、私は私の文章が好きだ。
私の書き方の中では当たり前に私がいちばん上手いのだ。
だからひたすらにずっと、私の言葉を積み上げていくことが好きだ。


とは言っても、別にメッセージのやり取りが嫌いなわけではない。むしろ好きだ。
対面での会話と同列に扱いたいくらい、いや事によってはそれ以上に、文字で話すことも楽しいと思う。
だからこれを読んでくれた優しい人、私に少しでも興味を持ってくれている人、どうか私と話すことを辞めないでほしい。
そもそも何より、私は人と話すことが好きなのだ。

好きなのに怖がらせてしまうなんて、よくある例えだけど、人好きのモンスターみたいだ。
まだ山へ帰りたくはないから、いつかちゃんと優しい言葉を渡せるように、もう少し修行しようと思う。

なう(2024/03/02 03:34:51)




あまり考えると自分の意識と身体の乖離が進みそうだから、あえて目を背けていた考え方があるのだが、名前とはつくづく不思議なものだと思う。

結婚して苗字が変わったり、ペンネームや芸名を付けて活動したり、そうやって自分で自分に名前を付けることはこの先の人生にあるかもしれないけれど、本名は基本的に変わらないしなかなか変えられない。
自分を一番表わす名前なのに、それを付けたのは他人である親だと思うと、不思議だなと思う。

だからこそいつも思う、私の名前は私の一部に過ぎないと。

仮に私の本名を「田中春子」だとしよう。
そのとき「私」が「田中春子」なのであって、「田中春子」が「私」なのではないのだ。
もっと言葉を足して言うと、私という人間は「田中春子」という名前を説明するに足るが、「田中春子」という名前で私自身は表しきれないのだ。

何を当たり前のことを、と思うかもしれない。
確かにこれは当たり前だ。
だのにごく頻繁に書類に名前を書いてばかりいると、私の名前との距離感が分からなくなる。

「田中春子」というのは、私が「私」になる前に付けられたものだ。
それなのに、この日常生活の中で「私」を証明するのはどうしたってその「田中春子」という名前なのだ。
私自身はもう、その名前を与えられた赤子の頃からすっかり変わったというのに。

正直いうと、私自身が名付け、そして私の人生・人格の大半を占める界隈で使っているこの「Showgo」という名前は、もはや本名と名乗っていいくらいに感じている。
その名前に何の意味があるでもないのだが、名付けたその時といま現在の私との隔たりが少ないからだ。

こういった自分の精神と現実の私の構成要素との乖離を、自我と身体性の乖離と呼んでいる。
深く考えれば考えるほど、その乖離は精神の上で広がる。

それを俯瞰できていればまだ良いのだが、ただ自分の名前に違和を感じるだけで終わったら話にならない。
自分のものではないと思いながら書く名前は、どうしたって綺麗には見えないだろう。

ここに書けないのが惜しいくらいに、私は私の本名を一応気に入っているから、この話はここら辺でやめておこう。

くれぐれも同調なんてしないことだ。
あなたの名前だってきっと美しいだろうから。

なう(2024/03/05 23:55:27)




異端であるという自覚は、最も深刻な自己への攻撃だと思う。
はみ出し者だと認めながら生きることは、時として人に自棄の勇気を与えかねない。

詳しくは言わないが、とある事情から私の自己認識の根底をその異端が巣食っている。
曝露するにも厨二くさいのでいい加減取り払いたいのだが、いつ付いたか分からない汚れほど落としにくいものだ。

簡単に言えば、私は私をこの世の異端だと思いながら生きている。

疑問や反骨の絡まった異端ではなく、整然とした事実の異端に近いのが私の認識だ。
それが唯一の救いであり、私が掴んだ藁だと思う。

自分を(正しくは構成する要素を)否定されることを嫌がる気持ちは人並みにありつつも、おかしいのは自分なのだから仕方ない、わがままを言っているのは私だ、と考えるように成長した。

自分のようなややこしくて複雑で人の気持ちも分からない異端が生きているより、もっと優しくわかりやすく柔軟な人間に置換した方が、この世界は絶対的にスムーズに動くだろうという、確信めいた自虐もある。

これはたびたび自分に言い聞かせるように、何度か頭の中で繰り返す自虐だ。
自惚れないため、これ以上乖離を見誤ってはみ出さないための自虐だ。

しかし、愚かなことかもしれないが、私はこの自虐を事実でないとも思えないところまで来ている。

周囲に合わせて自己認識を歪めない私が悪いのだ。
異端を殺さない私がわがままなのだ。
だから、きっと置換した方がいいのだ。


問題なのはそんな自分の中だけの暴言より、「否定を嫌がる気持ちは人並みにある」という部分だ。
いや、人並み以上かもしれない。

自分で自分を異端だと認めているからこそ、これ以上他人に触れてほしくないと思う。
思い知らせてほしくないと思う。

だから実に迷惑なことに、人が少しでも私が普通でないというような発言をしたときに、それがたとえ私の異端の本質に関わらないとしても、過剰に反応してしまうきらいがある。

攻撃に近い態度で返してしまいそうになるが、それを細かく分解すれば、そこにあるのはこれ以上はみ出し者にさせないでくれという切な願いだ。

まあ、相手にそこまでの意図はないのだから、これは私が正さなければならない認知だ。

(この認知は以前の口喧嘩ライブで少し感じ取ったものに似ている。そういうところでも彼に惹かれているのだと思う)


この異端の認識は、明確になったのはおそらく11歳頃のこと。
抱き始めたのがいつかは、今となってはもう分からない。

いつまで抱えてゆくのかも、まあ予測できる話ではない。

でも最近は、人は皆どこかしらが必ず異端であるはずだと、少しだけ思う。

なう(2024/03/13 02:40:16)




第2回にして内容がとんと減ってしまった。
年度末というのは何故だか忙しくなってしまうものらしい。

まあ前回が明らかに書きすぎだからむしろちょうどいいのかもしれない。

悲しいかな、今後はもっと投稿頻度も落ちるだろう。
「じゅけんせー」なので。

それでは、閲覧どうもありがとう🐜

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