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2月に思ったこと、としとくか。(15~22日)

思ったことや考えていたことを、できるだけ短時間で文章にしているだけ。
毒にも薬にもならない(人によってはちょっと毒かも)(でも薬にはならない)。
書き手は未成年。17歳。
後々非公開、もしくは閲覧にハードルを設ける予定。


・死にたさの証明
・作家になる人
・地続きのOD
・優しいゲーム
・自分を大切にしないと安心する
・飛びたい
・安楽死キット
・自信家の空虚
・友人について
・さよならは諦め



リストカットがあまりに有名な行為になって、死にたさを伝える手段はよっぽど陳腐になった。
漫画の中でもメンヘラキャラは軒並み手首がきれいじゃなくて、そういうキャラクター性のひとつのようだった。

自分がどんどん無能になってゆく気がしたとき、この焦燥を表現しようとして、ふと手首を見たとき、そこへの傷の付け方も、付くであろう傷の様子もありありと想像できて、しょうもないと思った。
ここへ横に何重にも重なる傷をつけたら、私はたぶんメンヘラになる。同じ傷を持っているだろう何万人もの少年少女たちの仲間になる。

くだらない、と思う。
自分の抱える、自分だけの死にたさまで、既存の手段で伝えてしまいたくはない。

なんだか昨今のリストカットは、死にたさの代名詞、あるいは証明書のようだ。

いちばん最初に手首を切った人の「死にたい」は、きっとほんとうにほんとうだった。

なう(2024/02/15 02:03:42)






文章を書くことを続けていると、事あるごとに「作家になりたいのか」と聞かれる。その度に曖昧な笑みを浮かべて、目指しているわけではない、と半ば正直に答えるが、どちらかというと「目指してはいけない」ような気がしている。

創作を生業にする人への世間のイメージはおおかた一通りで、社会不適合者と形容するにふさわしい。
だが仕事である以上当然に、社会に迎合しなくてはやっていけない。と、とある作家は講演の中で言っていた。

確かに、社会の中でやっていけるような器量が無ければ、作家として大成することも難しいだろうと思う。ただそれとは別に、「書かずには生きられない」という異常性も無ければ、成り立たないのだろうという疑いがある。

作家の中には会社員との二足のわらじを履いている人も、元会社員の人も五万といる。書かなくても、生きられた人たちだ。
しかし彼らにとっては、それは「生きる」ことではなかったのだろう。
「書かなくても生きられたが、書かなくては生きられなかった」のだ。実におかしな文章だ。

この事実を考えるとき、ふと自分のことに立ち返ってみる。
私は書かなくても生きられるだろうか。

テスト前のこんな時間にこんな文章を書いている時点で、書くな、と言われても従えないことは明白だ。
ただ、続けてしまえるだけで満足しないだろうか。

書くことは好きだ。何よりも。
文章を書いている間だけは、何の苦痛も感じずにいられる。
それがなんの文章であっても(書いたことは無いがたとえ反省文だったとしても)、文章であるというだけで私はひたすらに満足感をもって書き続けることができる。文章を書いている間だけは、私は確実に幸福なのだ。

だが、この私の書くことに対する熱量が、他の人と比べた時にどの程度のものであるのかがずっと掴めずにいる。

文章を生業にする人のような、あの逸脱性に肉薄するものなのだろうか。やはりそれは烏滸がましいだろうか。

正直になるのなら、この安定志向の時代にそんなことが許されるのなら、文章を仕事に出来ればそれ以上素敵なことは無いだろうと思う。
もし万が一にでも、目指してよいのなら。


ああただ、おそらく私は勉学も安定も何も捨てず、誰を巻き込むこともせず、ひたすらに黙って書き続けるだけなのだと思う。

少し欲張っていいのなら、これをいつか見るであろう恋人よ。
いつか君が一番気に入ってくれた話を、いちばん素敵だと言ってくれる装丁で、世界に一つだけの本にするのもいいかもしれない。

なう(2024/02/16 00:32:55)




オーバードーズの恐ろしさを思い知った。
たった今の出来事だ。

この家で起きているのは既に私一人。
私から風邪がうつって私より重症になった母親に処方された薬が、20錠ほどドライヤーの傍に無造作に置かれていた。

髪を乾かすためにその近くに座って、何の気なしにそれを見つめて、ハッと我に返った。
私は確かに、「飲んでしまってもいいかな」という気持ちを持っていた。

20錠が多いのか少ないのかも分からない。
目の前の薬がオーバードーズに使われるものなのかも知らない。
だから私の気持ちが本当にそれを欲していたのかは分からない。
ただもう少し私が判断力を失っていたら、目の前の薬は今既に半分も残っていないだろうと思う。

そのくらい、ぼんやりとしたものではありながら、「いいかな」と思った。

恐ろしい。
だって、何一つ苦痛じゃないのだ。薬を飲むことなんて。
その後にある地獄なんて今はまだ知ったこっちゃないし、ただ錠剤を嚥下する行為には痛みも何も無い。
あまりに日常と地続きすぎる。

踏みとどまれてよかった、と思うが、明日はどうなるだろうか。

なう(2024/02/16 02:03:25)




だいぶ前に辞めたゲームがある。
まだアプリは完全には消していない。いつでも、最後に遊んだ時の状態に戻ることが出来る。
でも私は、もう一度インストールすることはしばらく出来ないだろうと思う。
ひどく後ろめたかったからだ。

そのアプリの名前は出さないでおく。
万が一にも迷惑になるようなことはしたくない。曲がりなりにも素晴らしく好きなゲームだからだ。

そのゲームには広大な自然があった。
どこまでも広がる大地があって、青い空があって、花も優しい風もあった。
世界中のプレイヤーと交流できて、時には協力してクエストを解くこともあった。
敵はいるけれど、争いは無くて、見知らぬ誰かに助けられることも何度もあった。
そのゲームはとても優しかった。

ゲームの中で何度も死にかけ、何度か本当に死んだけれど、その死はいつだって誰かに祈りを捧げるものだった。
掲示板のような場所に残るメッセージは、決して誰かを傷つけたがるものじゃなかった。
プレイヤーたちが日常の癒しを求めているように、いつだって優しい世界が広がっていた。


それがだんだんと、後ろめたく感じるようになった。
私は、こんな優しい世界にふさわしくない。

厨二病みたいだ。
それでも本当に、偽造した入館証でログインしている気分だった。

一度、そういった旨をメッセージで残そうとしたことがある。
「自分もこのゲームにふさわしい、優しい人間になりたい」と、誰にも見つからない場所へ。

結局、設置方法が分からなくてそれは諦めた。
それに、馬鹿らしい、と思った。
設置する時点で誰かに見つけてもらいたいことが透けて現れているし、メッセージの内容も独りよがり。
共感も受容も求めるなよ。お前一人で勝手に寂しがって勝手に頑張れよ、かまってちゃんが。

そんな言葉が出てくる時点で、やっぱりふさわしくない。


そのゲームは変わらずホーム画面で、健気にプレイヤーの帰りを待っている。
申し訳ないけれどまだ、彷徨は終われない。

なう(2024/02/18 01:04:08)




たとえば、夜更かしをすること。
たとえば、食事を蔑ろにすること。
たとえば、湯船に顔を沈めること。
たとえば、手で首を絞めること。

「自分を大切に」しないと、どこか安心する。

私は幸い精神も、体もたぶん人より幾分か強い。
生まれて少し経つまでは生きるかどうか知れなかった身にしては、とても逞しく育っている。
だからこそ、そんな体も心も、どちらかと言えば「気遣いせず使い倒せてラッキーな資源」くらいの気持ちで、自分で自分に試練を課すような生活をたびたび送ってきた。

昔からあまり早くに寝なくて、中学からはおそらく日付を越す前に寝た日数は体にある指を全部使えば数えられる。
以前は2時まで起きていれば必ず翌朝ものもらいができていたが、無視していればいつの間にかできなくなった。
5時間睡眠3日目で訪れていた吐き気も、今はもう無い。

食べることは好きなのに、一度食欲と空腹感が噛み合わなくなってしまってから、どんどん食事が苦手になった。
人類が光合成か何かで生きられるようになって、食事が趣味くらいの位置になればいいのに、とここ最近は割と本気で思っている。

生活を改善させる知識も、能力もたぶん持っている。
それなのに何もしない、もしくは悪化の一途を辿っているのは、やっぱりたおやかな自傷なのだと思う。


SNSで自虐をすると落ち着く。
心の中で自分に暴言を吐くと安心する。
「〇んだ方がいい」とか、ストレートに「〇ね」だとか、自分に対しては何度言ったかもう数えていない。これは体にある指くらいじゃ足りない。

最近はそういう心の中にふつふつとしたものに「そうだねしにたいね」と肯定する形をとっているが、思考を止めるために湯船に顔を浸す回数が増えた。


自分を蔑ろにすると安心する。
価値が無いと必死に言い聞かせて安定を図っているのは、きっと現実に発生している責任を知っているから。

実力には責任が伴う。
称号には空虚が付き纏う。

「勉強ができること」を、気付かぬうちに狭いコミュニティの中でアイデンティティにしてしまって、成長してから「頭が良くなければ自分に利用価値は無い」と考えることしかできなくなった。

自覚できているだけまだ良い。
そんな歪んだ自己認識が生み出した成長もいくらでもある。

周囲に恵まれているから、そんな風に私を否定するのは私だけだ。
私に価値が無いと言ってくる人間はいない。そもそも生半可な人間に否定できる生き方はしていない。
だから、安心する。
本当の私を知っているのも、それを否定するのも私しかいない。

私をちゃんと否定するお前がいるから、私は甘えないでいられると思うのだ。
だからどうか、これからも価値が無いと罵ってくれ、私。

なう(2024/02/18 14:28:21)




死にたいと思ったとき、その死にたさは何から来ているかを考えてみたりする。
大抵は、自分が無能に思えたとき。
現状や未来が明るくなっていくとは思えなくて、せめて今の状態で人生を終わらせたくなったとき。

もしくは、本当はどこか遠くへ行ってしまいたいとき。
深夜の街とか、田舎とか、ふらっと玄関を飛び出してそのままどこまでも行ってしまいたいとき。
つまりは、目の前の現実から逃げたいとき。

そんな中の一つに、飛びたくなったとき、というものがあることに気がついた。
空がきれいだった時、もしくは高台の道路を車で走っている時のあの高揚感に、どうしても死にたさが混じっている。

馬鹿みたいだ、死にたいが本当は飛びたいだったなんて。

そう思うけれども、もし飛べるようになるほどに世界に転換が起きたとしたら、きっとそれは私の目の前の問題もどうにかなるくらい世界にとって大きな変化だろうから、あながち間違いでもないのかもしれない。

だから綺麗な空を見たとき、このまま車を飛び出したり、走って飛び降りたりしたらそのまま飛べそうだなと思ったとき、死にたいな、と思う。


手首は綺麗なままで、痛いことは嫌いで、出来れば綺麗なまま死にたいと願っているけれど、そういう時の衝動はあまりにも魅惑的で、幸せそうだ。

今日もまた夜になって、上手くいくこともいかないこともあって、静かに死にたくなってきたけれど、まだ体感できてない面白いことがこの世に溢れているので、大人しく人生を遂行しようと思う。
こんな日々を繰り返しているのだ。

なう(2024/02/19 00:16:30)




「死にたい」と言うことは、絶対悪だろうか。
前向きな死は決して無いのだろうか。

昨今、また安楽死制度が話題になって、安楽死キットというものを扱った漫画が描かれているのを見た。
もちろん架空だし、おそらく安楽死制度が日本に導入されることはない。
さすがにそこまでイカれた世界ではない。

だけども少し、自分だったら安楽死を選ぶだろうかと考えてみた。
答えはひどく単純で一般的で、おそらく愛する人がその道を選ばない限り、そしてお笑いの文化が存在する限り私は生きようとするだろう。

ただそれとは別に、私は安楽死制度の導入にそこまでNOを突きつける気も湧かない。

命とは天からの借り物だと、私の好きな作品の中で少女は言った。
死ぬ時とは命を天へ返す時で、いわば運命。逆らうべきものではないと。

半分同意して、半分首を傾げた。
もちろん、彼女の考えは彼女の考えで、私とどちらが優れているということもない。
その上で、私は命とは人の唯一で絶対的な財産だと思う。
だからこそ、それを捨てる権利も同時にあるはずだ、と。

安楽死制度を導入することで起こる不利益は、未成年とはいえさすがに私にも想像がつく。
特定の世代において人口が大幅に減少する可能性は否めないし、そもそも簡単に死ねる制度を国という個体が持つべきではない。

でもその上で、各個人が各々の命をもう少し好きにできたってよいのではないか、とも少しだけ思う。

生きたい人がいるのだから、死にたい人がいたって自然だ。
死にたいことをまるで悪事かのように扱われては困る。ただ自分のものの扱いを自分で決めたいだけなのだから。

死んだ先には快も不快もなくただ無なのだから、現世がどうこういう引き留めは何の役にも立たない。
実際、生きてほしいと他人に言うことはどこまで行こうがエゴに過ぎない。
全てを把握し、解決し、導くだけの全能でなければ。

死にたくてもただ生きている、その事実だけが重要だ。
ただ、あの漫画の安楽死キットはかなりよくできていたなぁ。

なう(2024/02/19 17:42:49)




私の特徴を一つずつ挙げていくと、割と早い段階で「自信家である」ことが出てくると思う。
無論それは、勉強への適性や文章に基づいている。

私は幼い頃から、周囲に「頭が良い」と評されて育ってきた。
両親はその点において私を褒めたことはあまり多くないが、私に比べて成績が芳しくない姉への気遣いもあったのだろうと思う。(姉に対しても絵を褒めたことはそこまで多くない。おおかた人を褒めることが苦手なのだろう。)

そして、私はその言葉に見事に依存した。
その結果、前述の通り頭の良くない私に利用価値は無いと考えるようにこそなったが、反面私を私たらしめる自信も持てている。

私の座右の銘もといモットーは「持てる者はその全てを提供せよ」である。
もちろん自作だ。

私の手で何とかできることなら何とかさせてくれと思うし、デメリットが出ないくらいの協力なら何の返礼が無くてもする。

それはひとえに私が「できる人」であると思わせてくれた周囲の賜物であるし、そういったポテンシャルを授けてくれた両親のおかげでしかない。

だから自信を持っているし、きっとそれが現れている態度は人によっては頼もしく映るだろうと思う。


ただ、それは実に泡沫的で空虚である。

自信があるということは、往々においてプライドが高く傲慢であるという側面も含むことが多い。
いやなに、誰かを刺そうという訳じゃない。
私がそうだから言ってみただけだ。

プライドが高く傲慢である私は、過度に失敗を恐れるきらいがある。
それは単純に、一度の失敗で全てが崩れる、とまでは行かないが、それ相応の喪失があると思っているからだ。
周囲に頭が良いと思われているのなら、それが失われれば私は私でないのだから、成績は保たなければならない。
私は私のプライドを保つためには、どうしてもこの狭いコミュニティでトップでいなければならない。
もし少しでも失敗すれば、私は次に何かしらで評価されるその時まで、無能感と不安感に苛まれる。

我ながら書いていて、若いな、と思う。
若さゆえの切迫感、何者かになろうとする焦燥だ。

愛しいじゃないか。
どうせ学生である限り私は成績という評価にしがみつくのだから、あと数年くらいこのまま生きてみてもいい。
苦しくないとは言わないが、これ以外の生き方はきっと何倍ももどかしいだろうから。

なう(2024/02/20 21:07:58)




自分に自信はある。
あるにはあるが、果たしてその根元に他人に好意を寄せられるだけの理由なり得るものがあるかと問われれば、はて、と思う。

友達は多くはないが、それなりにいる。
友達と呼ぶほどでない人とも、それなりににこやかに話せる。
後輩にもそれなりに慕われていると思う。
こんな文章ばかり書くので印象が少し違っているかもしれないが、私は存外人当たりがいいところがある。

だが、私自身人に好かれるに値するのか、どうして友人であってくれる人がいるのかと考えると、途端に理由が掴めなくなる。

私が私に認めている長所は、何度も言うが勉強が得意なところであったりとか、人並み以上に文章を書けるところ、思考力や言語化能力があるところであって、人間関係にはやや結びつかない。

それどころか、私は呆れるほど人の気持ちを理解できないし、自分のそれは特に蔑ろにしがちだ。
自信があって傲慢を隠しきれず、排他的な振る舞いも露呈するような態度は、むしろ嫌う人も少なくないだろうと思う。
実際、昔友人に「私の事嫌いな女子絶対いると思うんだよね」と何の気なしに持ちかけて、さほど間も置かず「うんいるよ、お前のこと嫌いな奴」と返されたことがある。

少し話が逸れるが、ここで私の友人の話をさせてほしい。
私には、中学時代を共に過ごした5人の友人がいる。今でも長期休みの度に集まるくらいの仲だ。
何を隠そう、その5人がまあいい子たちな訳だ。協調性も思いやりもあって、適度に活発で、とにかく人がいい。
時々この集まりに自分が属していることが少々申し訳なく感じるほど、とにかく素敵な人たちなのだ。
すごくないか。6分の5が性格良いって。
この5人と友達であれるだけで、私の中学時代は間違いでなかったと思える。
とにかく自慢の友人たちな訳だ。

さてじゃあ、どうしてこの5人が私と友達であってくれるのかと考えると、もうさっぱり分からない。
ただ分からないだけでは話が進まないので、少し本腰を入れて考えてみよう。

時たま言われる私の長所は、しっかりしているというものである。
生来の気質が真面目なので、これには納得できる。
じゃあそこに頼もしさなどを感じてくれているのだろうか。
……分からない。

いや、分からないものは分からない。
少し長くなりすぎたので、お互い消化不良だろうと思うが、この話はここで締めよう。

おそらくは、私の友人には気のいい人が多いから、彼ら彼女らのその寛容さに甘えさせてもらっているのだろう。

なう(2024/02/22 02:31:38)




さよならは諦め、もしくは拒絶であると思う。

私は挨拶にちょっとしたこだわりがある。
たとえばおやすみやいただきます、ごちそうさまは出来るだけ欠かさず言うだとか、そういう私が好きな私でいるための小さな決め事である。

そんな調子で別れの挨拶にも、自分だけの意識がある。
以前漫画のあとがきか何かで、「また明日ね」は微かな約束であるというような言葉を見た。
それならば私は、「さよなら」は諦めであると思った。
どの言葉より別れを受け入れていて、無抵抗だ。
むしろ柔らかな拒絶にも思える。
ここで別れてもいいのだ、今生の別れであっても受け入れよう、という姿をしていると思う。さよならという言葉は。

だから私は、個人間で交わす挨拶ならまず「さよなら」は使わない。
これを意識し始めてからこの言葉を使ったのはおそらく一度、どうしても友達にはなれない知人に対してのみである。

代わりにいつも使うのは「じゃあね」という砕けた挨拶だ。
「またね」「また明日ね」と口にできるほど、私は明日を確約できない。
否、むしろ祈りのようで素敵かもしれないが。

「じゃあね」という言い方は、私には軽い期待のように思える。
明日、もしくは近いうちに会えることを期待して、ただ口には出さずにそっと心待ちにするような、そんな言葉であると思う。

だからいつも、誰に対しても「じゃあね」と言って軽く片手をあげる。
私だけの意識だから伝わることなど無いのだけれど、それでもその言葉に、私はあなたに会えることを期待しているという気持ちをそっと載せる。

そして微かに、こんな思いを抱ける相手が周りにいることを幸せに思う。


今回はこれで最後の章だ。
それでは皆様、じゃあね。

なう(2024/02/22 23:48:07)



ここまで読んでくださったんですか?
わあ嬉しい。
目が疲れたでしょう。ゆっくり休ませてください。

何の得にもならない文章だったかと思いますが、暇つぶしにして貰えていたら本望です。
閲覧本当にありがとうございました。

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また次回も読んでいただけると嬉しいです。

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