人に依って存る生

『もし、もしこのまま、推しが嫌われていくのなら、私はさっさとしにたい』

つい先日、私はこんなツイートをしようとした。
本心をただ文字にしたものだった。

その日は前夜から配信関係でTLが落ち着かなくて、私だけが変わらないままで、いつの日か同じように彼を愛する人が去っていくんじゃないか、と思えた。
去っていったみんなが帰ってくることを期待しながら、枯れた土地でひとり楽しげに砂遊びを続ける私の姿が見えた。


どの口が言っているんだ、と思うだろう。
今私は大喜利プレイヤーに大幅に浮気をしているところで、実際ここ最近の感想ツイートなんかはもっぱらその人たちに寄っている。


それでも、私はそのとき本心から「彼が廃れるなら私もそこで終わりたい」と思った。
もっとあの人の大喜利が見たいだとか、誰々のネタを見たいだとかいう感情は確かにそこになかった。

そこで私は、「彼(このnoteを読む人なら分かるだろう)に依存している」と自覚した。


以前からことあるごとに、自分の興味関心が物事に対してではなく、あくまで人に起因しているという分析はしていた。

例えば、私は決してAPEXが好きで藤本さんの配信を見ているわけではないし、ゲーム実況が好きでマンゲキゲーム実況を見ているわけではない。

私がそれらを見るのは「推しがやっているから」でしかなくて、ぶっちゃけるなら、ゲームの中身に個人的な好みはあれど最悪何をしていたってどうでもいい。

だから正直、この先ゲーム機を買うつもりもないし、配信外でエペについて調べることもない。
私にとってはどんなゲームも、例えば「″マンゲキ🎮でやってた″○○」のように枕詞が必ず付く。

私にとって大事なのは「誰が」配信しているかで、「何を」配信しているのかは二の次にも三の次にも大事じゃないのだ。


それと、少し前にインスタのストーリーか何かで言った、「生きる意味が藤本さんにある(ニュアンス)」という言葉。

それは私が将来ジュリエッタの公演に通うために大阪で暮らしたくて、まだそれを実現できる年齢じゃないから、それを目標にして生きているという意味なんだけど。

これはほぼ言葉通り、藤本さんという目的の要がいなくなったら、私はそこまで生きたいという願望がない。
(厨二的なアレもあるだろうけども、現時点では確かにそう思っている)

本当に言葉を選ばないで言うと、私は藤本さんに生かされているのだ。烏滸がましいが。
だから、私は藤本さんがどんな言動をしようが、どれだけ治安の悪い配信をしようが、私が思うラインを越えなければ何も思わない。
どんな彼であろうと私が離れることは無いからだ。


私はたぶん「べき思考」(忠誠心と呼んでいる)があまりにも強くて、それに支配されているところがある。
だから数年前誓った「彼らを応援する」ということはもはや私の意思によらない決定事項で、好きだの嫌いだの個人的感情で操作できる範疇にない。
そしてややこしい事に、彼らが好きだという感情も、縛る鎖は弱いが決定事項にある。

彼らの人生に私の人生も縛られすぎているが、それももう決定されていて、現時点では私には手も足も出ない。

頭のおかしいことを言っている自覚はある。
ただ理解に苦しむだろうが、Showgoという人間はそういうものなのだと、16歳であるが故か他人に人生の舵を握らせてしまっているのだと、どうか受け止めてほしい。




そしてこれを書き上げたと思った瞬間に思い出した昔話だが、私には小学生の頃からの付き合いの親友がいる。
彼女は普通の人より「死」が近くにある人で、まあ、手首の綺麗な人ではない。

そして、彼女は私の「絶対」だった。

そして私はさらにおかしいことに、彼女が死んだ世界に私が生きるという、そんな未来を想像しては違和感に首を傾げていた。
彼女が死んで私が生きているのはおかしいことなのだ。
理論に筋が通っていないことは承知の上で、私にとってそのif世界はバグでしかなかった。

だから、彼女は怒るだろうが、私は彼女が自らを殺すことにいつか成功したら、私も後を追うと決めていた。
それが私の世界では正解だった。むしろそれ以外の道があることはバグだった。


今ではそんな彼女とも高校が離れて、家に行くこともとんと減って、新しく付き合う人も増えて、その考えは少し弱くなった。



思い返してみれば、私の人生は過去も人に依っていた、という昔話だ。
ただ、私がもし消息を絶つようなことがあれば、それは私のせいでない、ということは知っておいてほしい。

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