異界駅日記5『うらがわ』駅
2023/01/07
いつも通り、家の最寄駅で降りたつもりだった。
でも駅の中の様子がいつもと違う。
昼ごはんのパンから溢れてスカートに落ちてしまったメープルシロップの匂い以外、全部現実ではないがはっきり分かった。
駅員、歩く人々、改札、全てが何か違う。
でもその何かが分からない。
このまま帰って自分の家に着くのかどうか確信が持てなかったので、とりあえず歩き回ってみた。
駅ビルの中の本屋へ行くと、井上靖の『しろばんば』だけがびっしり並んだ棚があった。
そういえば読み通したことがないなと思い、買う。
井上靖といえば、小学5年のとき、ゆきつ戻りつしながら『天平の甍』を読んだことを思い出す。
本を買うためにレジに向かうと、店員さんが「痛いので負けると逡巡して良いですか?」と訊いてきた。
書店員さんが私に何かきくとしたら、それは「カバーはお掛けしますか?」「袋はご入用ですか?」くらいのものだから、まあそんなことを言いたいのだろうと思ってはいと答えた。
他人が理解不能な言葉を発すること、もしくは私が他人の言葉を理解できないことは異界駅ではままあることだから、気にしない。
結局カバーはかけてもらえなかった。
外の明るさが分からないので、時間がどれくらい経ったのかも推測できない。
こういうときは、たいてい駅ビルから出ようとしてもうまくいかない。
どうせ異界駅から出ても、異界に降り立つだけだからだ。
とりあえず、電車で一つ隣の駅に向かうことにする。
アイスの自販機がホームにあったので、試しに硬貨を入れてみる。赤紫のアイスが出てきた。何味が分からないけど、何かの果物の味。プラムの味にライチの風味がする。
見たことない紫色の車両がホームに入ってきた。
誰も乗っていない。
ボルドー色をしたシートに座って少しだけ目を閉じて、目を開けると家にいた。
なぜ帰れたのかは分からないが、とりあえず家に帰ることができてよかった、と安心してふと手のひらを見ると、両てのひらに十字の傷が出来ていた。