「あみだくじ」式の人生観からの脱却 〜ゆきづまった時の解毒剤(その3)〜
前回、起きたひとつの出来事とそのひとつの「原因」を、「必然」の関係で結びつけてしまうと、人は自分の「自由」を失ってしまい、ゆきづまることがあると書きました。このようなゆきづまりから抜け出すには、どうすればいいのでしょうか。
「原因」と「結果」が一対一で結びつく人生観
わたしたちが今、見ている出来事は、言ってみれば、「あみだくじ」の一番下の「結果」だと考えることもできます。「あみだくじ」であれば、一番下の「当たり」からどんどん上にさかのぼっていくと、「当たりくじ」がどれだったかがわかります。「当たり」がひとつしかない「あみだくじ」であれば、当然、「当たりくじ」もひとつしかありません。前々回も述べたように、人生で起きる出来事は常にひとつだけです。「あみだくじ」式に、目の前の出来事とその原因を、一本のジグザグの線で結びつけてしまえば、目の前の出来事(結果)が起きたのは、その「原因」のせいなのだということになります。
今起きているひとつの出来事と、そこに必然的につながっていくひとつの過去(原因)を、「原因と結果」の一本の線でひとつに結びつけてしまう、このような考え方を「あみだくじ」式人生観と呼びたいと思うのです。
われわれを支配している「あみだくじ」式人生観
このような人生観の背景にあるのは、前々回から述べている、目の前の出来事とその「原因」と思われることを、「必然」という一本の糸で結びつける「もののとらえ方」です。ただ、「あみだくじ」式人生観などと言うと、「だれもそんな単純な考え方はしていない。起きたことの原因がひとつではないことなど、だれでもわかっている」と反論される方もいらっしゃるかもしれません。しかし実際には、わたしを含めて多くの人が、このような人生観に支配されています。
「親ガチャ」や「健康と長寿の秘訣」
たとえば、前々回、例に出した「親ガチャ」の考え方はまさにこれです。「今の自分が不幸なのは、親がダメ(ハズレ)だったからだ。」という考え方です。生まれた時に、「ダメ親」というハズレくじを引いてしまった(引かされてしまった)から、今のこの状態があるのだと考えるのです。
また、テレビ番組などで、健康な高齢者の方を取材していて、「健康と長寿の秘訣」を聞くのも同じ発想です。そういう質問に、今、現に健康で長寿な方が、「毎日、○○を欠かさないことです」と答えれば、「そうか、やっぱり○○はいいんだ」と思ってしまいます。この「○○」には、「歩くこと」、「笑いを忘れないこと」、「肉を食べること」など、それらしい言葉であれば、なにを入れてもかまいません。その方がそう思っていればそれでいいのであって、そもそもそのことがその人の人生で、どれほどの効果があったかなど、実際には検証のしようがないのです。
「毒親」と「繊細さん」
もちろん、以上のような場合でも、人は頭では、ほかの原因(理由)もいろいろあったのだとわかっています。しかし、「これが一番の原因(理由)だ」と思ってしまった時点で、われわれは人生の「あみだくじ」に、はまり込んでしまいます。その結果、「原因(理由)」がわかったはずなのに、その「原因(理由)」がなかなか解決できず、身動きがとれなくなって、ゆきづまってしまうことがままあります。たとえば、自分の親が「毒親(toxic parent(s))」だから、今の自分はこんなにつらいのだと考えたり、自分が「繊細さん(HSP(Highly Sensitive Person))」であることが、まわりの人には理解されず、ふさわしい対応をされないので、今の自分はこんなに苦しいのだと考えたりすることは、まさにそのようなケースではないでしょうか。
「そんなことをしていると、きっと後で後悔する」
「あみだくじ」式に人生を考えてしまえば、一番下に並ぶ「当たり」や「ハズレ」というすべての結果(現時点の出来事)は、それぞれが一番上にある、くじと一対一で結びついています。おとなが子どもたちによく言う、「そんなことをしていると、きっとあとで後悔する。」というような言葉も、この「あみだくじ」式人生観にほかなりません。そういうことを言うおとなの「あみだくじ」式人生観の中では、「そんなこと」という「くじ」が、一本のジグザグの線の先で、「後悔」という「ハズレ」にしっかり結びついているのです。
「あの時ああしてなかったら、こうはならなかった」
また、ある人が、もし自分の人生を振り返って、「あの時ああしてなかったら、こうはならなかったろう」と思うならば、今の「結果」の中身のよしあし(当たり、ハズレ)に関わらず、「あの時」以降は、その人は自分の人生を「原因と結果」の「あみだくじ」で理解しているということになります。このように考えてみると、実はきわめて広い範囲で、われわれは「あみだくじ」式に、自分の人生や人の人生を理解していることがわかります。
未来も「あみだくじ」式に考えたいという誘惑
「あみだくじ」式人生観は、基本的には現在から過去にさかのぼる形で、自分や人の人生を考えますが、ひとたび「原因と結果」のつながり(一本の必然の糸)が、その人の中でできあがってしまえば、先ほどの「そんなことをしていると、きっとあとで後悔するぞ」という言葉のように、現在から未来を考えることも可能になります。
現在から未来を見た時、実際に未来でなにが起きるのかわかる人は、もちろんこの世にひとりもいません。(学者からスピリチュアル界の人まで、「わたしにはわかる」と言う人はいくらでもいますが、もちろん本人がそう思っているだけです。)しかし、さまざまに考えられる出来事のうちで、実際に起きる出来事は必ずひとつです。たったひとつ起きる出来事は、はたして必然によって起きるのか、それとも偶然によって起きるのか。それは数千年にわたって議論されてきましたが、いまだに決着はついていません。にも関わらず、未来についてもわれわれは「あみだくじ」式に、今こうしているのだから、きっとこうなるはずだと考えたい誘惑に逆らえないのです。そのことがわれわれを、占いや宗教的な儀式やスピリチュアルな話に引き寄せるのです。
この世界には、偶然なことなどなにひとつない?
ここまで書いてわたしは、だいぶ前に読んだ京極夏彦さんの小説で登場人物が言う、有名なセリフを思い出してしまいました。安倍晴明の流れを引くという中禅寺秋彦(古本屋「京極堂」の主人)は、事件の奇怪さに当惑する関口巽にこう言うのです。
「この世には不思議な事など何もないのだよ、関口君」(『姑獲鳥の夏』)
しかし、京極夏彦さんは別の小説の中で、別の人物(堂島静軒)に、たしかこのようなことも言わせています。
「世の中には不思議でないものなどないんですよ」(『塗仏の宴 宴の支度』)
このふたつのセリフをまねれば、われわれは、こんなふうに自分に言うことができそうです。
「この世界には、偶然なことなどなにひとつないのだ。と同時に、偶然でないことなど、この世界にひとつもない」と。すべては必然で、すべては偶然なのです。
自分の「自由」を見失わないことの大切さ
この世界に起きるすべての出来事は、「偶然とも必然とも言える」のです。このどっちつかずの、あいまいでごちゃごちゃした事態が、前回も書いた必然と偶然の「あわい(すき間)」を生みます。この「あわい(すき間)」があるからこそ、人は自分の中に「意志」というものがあることと、自分が「自由(あれか、これかを選ぶ力)」を持っていることを、感じ取ることができるのです。(そして、これが「わたしが生きている」実感と意味になります。)
そう考えれば、われわれが「あみだくじ」式の人生観にはまって、ゆきづまってしまうのは、自分の「自由(あれか、これかを選ぶ力)」を見失っているということなのかもしれません。逆に言うならば、自分の「自由(あれか、これかを選ぶ力)」をもう一度思い出す(取り戻す)ことから、われわれは今のゆきづまりから自分を解き放つことができそうです。
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