見出し画像

「交換」と「贈与」の罠から自由になろう(前編)

前回まで8回ほどにわたって(*)、「近代化」とともに生まれた資本主義や経済学が、「貧しい」人への差別を生んだことを書いてきました。それを書きながら、「近代化」がもたらした、人と人の間の「もの」や「こと」の「やり取り」を、「交換」と「贈与」でしか考えない見方が、われわれのものの見方を、ひどくゆがめてしまっているのではないか、と思うようになりました。(*詳しくは、マガジン「近代化が生んだ差別について考えるその310)」をご覧ください。

「やり取り(授受)」は、「交換」と「贈与」だけなのか

われわれは、とかく相手との「もの」や「こと」の「やり取り(授受)」を、「交換」か「贈与」のどちらかで考えてしまいます。「交換」という考え方の背景にあるのは、「同じ価値を持ったものの交換(等価交換)」という考え方であり、「贈与」という考え方の背景にあるのは、「あげた」と「もらった」という「(価値あるものの)貸し借り」の考え方です。つまり、「交換」や「贈与」という考え方の背景に、常にあるのは「得」と「損」の意識なのです

人と「やり取り」をするんだから、そんなことあたり前じゃないかと思われるかもしれません。しかし、われわれが日常行なっている「もの」や「こと」の「やり取り」は、本当に「交換」や「贈与」だけなのでしょうか。もしも、われわれが実際に行なっている「やり取り」の中に、「交換」でも「贈与」でもないものがあるとすれば、すべての「やり取り」を、「交換」か「贈与」のどちらかで考えてしまう「近代化」された考え方には、根本的な「勘違い」が含まれているのではないかと思うのです。

子どもにお弁当を作って渡すのは、「交換」か「贈与」か

われわれの生活は、常に他の人との「もの」や「こと」の「やり取り(授受)」で成り立っています。たとえば、親が朝、登校する子どもにお弁当を作って渡し、子どもが「ありがとう」と言ってそれを受け取るのも、「もの」の「やり取り(授受)」のひとつです。この行為は、はたして「交換」なのでしょうか、それとも「贈与」なのでしょうか。

そう考えた時、われわれは親が子どもにお弁当を作って渡すのは、どう考えても「等価交換」のためではないだろうと思います。たとえば親は、自分がお弁当を作る行為が、子どもの「ありがとう」という言葉とほぼ「同じ価値」を持つと考えるから、子どもにお弁当を作って渡すわけではないのです。(このことは、「ありがとう」と言われて親がうれしいと思うこととは、矛盾しません。)

それでは、親がお弁当を作って子どもに渡す行為は、「贈与」なのでしょうか。「贈与」だとすれば、親はお弁当を渡すたびに、わが子に「愛情」を与え、それによって、将来、与えた「愛情」に対する「返礼(たとえば、恩返しとしての老後の介護等)」を求めているのでしょうか。そういう要素を完全に否定することはできないかもしれませんが、子からの将来の「返礼(恩返し)」を確実なものにしたいがために、子どもに毎日お弁当を作って渡しているという親は、たぶんあまりいないでしょう。

「ほかにそれをする人がいないから」

非常にざっくばらんに、つまりは身もふたもない言い方をしてしまえば、多くの場合、親は、ほかにこの子にお弁当を作って渡す人が、今は自分以外にいないので、そうしている面が多いのではないでしょうか。学校に行って、この子が食べるものがなくては困るだろうと考えて、作って渡している親がほとんどではないでしょうか。そうだとすれば、いわば、この子の親である自分の、今の「責任(そうしないわけにはいかないこと)」として、それをしているわけです。一方、子どもがお弁当を渡されて、「ありがとう」と言うのも、その度、心から感謝しているというよりは、そう言うことになっているから、または、そう言わないとまずいから、これもまた子どもの「責任(そうしないわけにはいかないこと)」として言っている部分が多いのでしょう。

「やり取り」の多くは、漠然とした「責任」から行なわれている

このような観点に立って、われわれの生活を振り返ってみると、家庭に限らず、職場なども含めて、われわれが人に対して「もの」や「こと」を「やり取り(授受)」していることの相当の部分が、実は「交換」でもなく、「贈与」でもなく、広い意味でのその時の漠然とした「責任(そうしないわけにはいかない)」の思い(感じ)から、行なわれている部分が多いのではないかと思うのです。もし、本当に家庭や職場における「やり取り(授受)」から、今、述べたような「責任」による「やり取り」の要素を一切排除して、「損」と「得」だけにもとづく「交換」と「贈与」だけで行うようにしてしまえば、おそらく家庭や職場という集団・組織は、一日として持たない(維持できない)のではないかと思うのです。

「やり取り」が挫折すると、「損」「得」が顔を出してくる

ただ、われわれが「やり取り(授受)」していることの多くの部分が、「交換」でもなく、「贈与」でもなく、広い意味でのその時の漠然とした「責任」によるものだということは、実はわれわれの目からは隠されています。ひとつには、このような。漠然とした「責任」の思いから行なわれている「やり取り」は、ふだん何気なく行なわれているために、その背景にある「責任」は、ほとんど当事者には意識されないからです。そのような「やり取り」の背景にあるもの(なんで、わたしはこんなことをしているんだろう)が、改めて当事者にはっきり意識されるのは、実はその「やり取り」がうまくいかなくなった時、いわば「やり取り」が挫折した時です。

ここで問題なのは、次のようなことです。なにかのきっかけで、それまで順調だった「やり取り」が挫折すると、「なんで、わたしはこんなことをしているんだろう」という思いがわき起こり、それとともに、その人の中にあった漠然とした「責任(そうしないわけにはいかない)」の思いは跡形もなく消え去ってしまいます。そのうえ、それまで自分が行なってきた「やり取り」を、「損」「得」にもとづく「交換」や「贈与」としてとらえる思いが、こみ上げてきてしまうのです。

先ほどの、お弁当の例でいえば、子どもが学校に弁当箱を置いてきてしまい、子どもがあれこれ言い訳をして謝らなかったりすると、時によってはそれが親の怒りをまねき、「毎日、毎日、忙しい中でお弁当を作ってあげているのに、忘れたあなたが悪いくせに、なぜひと言、すなおに『すみません』と謝ることができないの」と、親が怒ってしまうこともあるのです。親はふだんは、なぜ自分がお弁当を作って渡すのかということ(自分の中の「責任」)を、はっきり意識していません。しかし、「やり取り」が挫折した時に、一瞬でそのような「責任」は消え去り、「忙しい中でお弁当を作ってあげているのに」という裏切られた「贈与」の思いがこみ上げてくるのです。

「やり取り」の基本形は、一方向の「やり=取り」

「もの」や「こと」の「やり取り(授受)」の基本は、片方が「やり(授)」、もう片方がそれを「もらう(受)」ことです。「やり取り」という言葉は、ふつうはあげたり、もらったりし合う相互的な行為を言い表わしています。しかし、厳密に「やり取り(授受)」について考えるためには、「やり取り」は、片方が「やり」、もう片方がそれを「取る」という一方向の行為を表わすものだと考えるべきです。その点をあきらかに表すために、以降はこの一方向の行為を「やり=取り」とか「授=受」と表記したいと思います

「もらう」行為があってこそ「やり=取り」は成立する

ささいな表現にこだわるのは、理由があります。このように考えると、最初に述べた、親が子にお弁当を作って渡す行為は、親が渡して子が受け取った時点で、「やり=取り(授=受)」が成立、完了していることになります。逆に、たとえば親がお弁当を渡そうとしても、子が「今日は午前で授業が終わり、お昼はクラブの友だちと外で食べる約束をしたから、いらない」と言って受け取らなければ、「やり=取り(授=受)」は成立しません。つまり、あたり前のことですが、片方にとっての「あげる」行為と、もう片方にとっての「もらう」行為は一連の行為として、同時に起きない限り、「あげる」も「もらう」も完了せず、「授=受」は成立しないのです。

「交換」は二つの「授=受」が同時に行われるケース

もうひとつこだわる理由があります。それは、「交換」はこのような「授=受」という行為の特別なケースだということを示すためです。お店でチョコレートを一枚買った時は、買い手がそのチョコレートの価格を、そのチョコレートにふさわしい額であると判断したから、チョコレートと代金が「(等価)交換」され、双方向(①「買い手から店員へお金」と②「店員から買い手へ商品」)の二つの「授=受」が、そこで同時に行なわれたことになります。一方向の行為を「やり=取り(授=受)」と考えるならば、「交換」とは、二つの「やり=取り(授=受)」が、ひとつのこととして同時に行われた特殊な形ということになります。

「贈与」は、受け手に逆向きの「やり=取り(授=受)」を強いる

さらに、この「やり=取り(授=受)」というとらえ方を、文化人類学などが唱える「贈与」の考え方にあてはめてみましょう。「贈与」とは、最初に行なわれる「やり=取り(授=受)」が、それとは逆方向の「やり=取り(授=受)」を「返礼」として必ず行なうように、受け手側に強いる行為だということになります。親が子に自分が作ったお弁当を渡す行為を、このような「贈与」の考え方で説明するならば、親が子にお弁当を作って渡した時、「親から子へ」という一方向の「授=受」の形で、そのお弁当(とそれに込めた「思いやり」など)を、子に「贈与」したことになります。その結果、お弁当を受け取った子は、将来、なんらかの形でそれに対する「お返し(返礼、対抗贈与)」をしなければならないことになるのです。

しかし、わたしはこのような「交換」や「贈与」という見方は、人が実際に行なっている「授=受」に対して、あまりに一面的な見方ではないかと考えます。先ほども述べたように、実際に行なわれている「授=受」は、「(等価)交換」でもなく、「贈与」でもない部分が、相当あるからです。

次回へ

いや、あなたが言うような「交換」でもない、「贈与」でもないような「やり=取り(授=受)」というものは、家族の中にだけあるものであって、職場や一般社会の中での「やり取り」は、基本的に「交換」と「贈与」だけなのではないかと思われる方もいらっしゃるかもしれません。

そこで次回(後編)は、まず一般社会の中での小さな出来事から書き始めて、「近代化」が生んだ「交換」と「贈与」の罠から自由になるとはどういうことなのかを考えてみたいと思います。


いいなと思ったら応援しよう!