なぜ、あの人には言葉が通じないか 〜「おとなの発達障害」について(その1)
職場の中で、なぜあの人には「あたり前」の話が通じないのだろうかと思ったことはありませんか。しかし、そう思われている「あの人」は、わたしのまわりの人たちには、なぜこんなわかりきった「正しいこと」が通じないのだろうかと思っていることも多いのです。
職場でこのような互いに「言葉が通じない」ことが起きている背景には、「おとなの発達障害」が隠れていることがあると、よく言われます。しかし、なぜ「発達障害」という傾向が、「言葉が通じない」ことにつながるのかということになると、その人の「コミュニケーション力の問題」などというとらえ方ですまされてしまって、あまりきちんと考えられていない気がします。今回は、なぜ「おとなの発達障害」があると、お互いに「言葉が通じない」という事態が生まれるのかについて、じっくり考えてみたいと思います。
なぜ、ASDという言葉を使うのか
現在、世間では、「発達障害」という言葉は「ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)」という言葉とほぼ同じ意味で使われているようです。つまり、職場などで「おとなの発達障害」などという場合は、「ASDの特性を持つおとな」を指していることが多いようです。しかし、正確にいうとASDイコール「発達障害」ではありません。あくまで、ASDは「発達障害」と呼ばれるもののひとつです。それと同時に、「発達(の)障害」という言葉自体が、人はこのような発達(成長)をするものなのだという考え方(「定型発達」)を前提にしている点で、大きな問題を抱えています。
そんなわけで、このnoteの中でわたしは「発達障害」という言葉はできるだけ使わず、「ASD」という言葉を使うようにしてきました。ただ、表題としてはASDだけではわかりにくいため、今回、題名には「発達障害」という言葉を使いました。
お互いに「言葉が通じない」と思っている
職場の中で、ASDの傾向が高いと思われる人と話をしていて、「この人には、なんだか言葉が通じないな」と感じたことがある人は、結構多いと思います。しかし、逆に、ASDの傾向の高い人は、職場の中で「なぜ、この人たちはみんな、こんなわかりきった『正しい』ことが通じないのだろう」と思い続けていることが多いのです。
わたし自身は、ASDという特性は、だれの中にも多かれ少なかれある傾向だと考えています。ですから、「ASDである人」と「ASDでない人」を分けることはできないと思っています。しかし、以下に述べることは、ASDの特性をあきらかにするために、その傾向が高い人とその傾向が低い人との「違い」を、あえて単純化して書いています。
「白い紙はここにはありません」
こんな例を考えてみてください。あなたの目の前の机に、「白に近いグレーの紙」と、「黒に近いグレーの紙」の2枚が置いてあって、だれかがあなたに「そこにある白い紙を取ってくれ」と言ったとします。もし、あなたが自分に近いところに置いてある黒っぽい紙の方を取って渡したら、相手はどう反応するでしょうか。おそらく、「これは黒じゃないか。違うよ。白い方を取ってくれって言ったんだ」などと言うでしょう。それに対して、あなたが「どっちの紙もグレーです。『白い紙』はここにはありません。白っぽいグレーの紙がほしいのであれば、『白っぽいグレーの紙』とか『白に近いグレーの紙』とか言うべきです」などと言い返したら、相手はどう思うでしょうか。もしかしたら、あきれ返るか、怒り出すかもしれません。
ほとんどの人は迷わない
こんなことを書くと、そんなのありえない屁理屈だと思われる方もいらっしゃるでしょう。確かに、目の前にうすいグレーの紙と濃いグレーの紙があって、「そこにある白い紙を取ってくれ」と言われたら、たぶんほとんどの人がより白色に近い方、つまりうすいグレーの紙を取って渡すからです。それは、相手が「白い紙」という言い方をしたのは、たぶん、「二枚のグレーの紙の中で、より白色に近い方を取ってくれ」と言うのがめんどうなので、「白い紙を取ってくれ」という簡単な言い方をしたのだろうと思うからです。
「白」と「グレー」の違いにこだわる人は
しかし、実際には机の上には(黒色の濃さが違う)二枚のグレーの紙しかありません。「白」と「グレー」は違うということにこだわる人ならば、「白い紙」を言葉どおりの意味でとらえて、「机の上に白い紙はありません(二枚ともグレーの紙です)。どっちの紙ですか」などと問い返すかもしれません。確かに、相手が言った言葉だけで考えれば、むしろそう聞き返すことの方が「正解」かもしれません。机の上にはグレーの紙しかないからです。しかし、そう聞き返された相手は、「なに言ってるんだ」とか、「この人、ちょっとおかしいな」とか思うかもしれません。
実際の職場のやり取りは、はるかにあいまいで複雑
この話は、きわめて内容を単純化していますので、自分はASDの傾向が高いかなと思っている方でも、「『ここには白い紙はありません』なんて、だれも言わないよ。わたしだってそんなことはしない」と思われるかもしれません。しかし、たぶんそれは、このような単純なケースであれば、それまでの自分の経験に基づいて、どう対応するのがよいか、知的にわかっているからです。(ちょうど、「汎ASD論」(その1)で取り上げた「マーブルチョコのテスト(スマーティ課題)」では、おとなならほぼ全員が「チョコレート」と答えるのと同じです。)
しかし、職場などで交わされるやり取り(会話など)の内容は、この例よりはるかにあいまいで複雑です。そのような場合、このような言葉自体(「白」か「グレー」かなど)へのこだわりが強いと、つまり「相手が、どういう言葉を使ったか。そもそも、その言葉を言ったか言わないか」等にこだわってしまうと、さまざまなトラブルが起きてきます。
「今日までに報告せよとは言われていません」
「汎ASD論」(その2)の中で、職場のトラブルの例としてこんな話をあげました。ASDの傾向を強く持つAさんは、上司から仕事の進み具合の報告が遅いと注意された時に、「お言葉ですが、今日までに(途中経過を)報告せよとは言われていません」と言いました。
確かに上司はAさんに、いつまでに仕事の進捗状況を報告しろとは言っていませんでした。ですから、Aさんの言っていることに「間違い」はありません。事実として「正しい」のです。Aさんとしては、「今日までに途中報告が必要ならば、仕事を命じる時にそれを言っておくべきだ。しかし、あなた(上司)は言わなかった。だから、わたしが今日まで途中報告をしなかったことで、あなたがわたしを注意するのはおかしい」と考えるのです。確かに、言葉として何を言ったか(何を言わなかったか)だけをとらえれば、Aさんの言うことは「正しい」のです。Aさんは、どうして、こんなわかりきった「正しい」ことが、相手に通じないのかと思っています。
「正しい」主張を、まわりの人はどう見ているか
しかし、Aさんがそのような「正しい」主張をして、上司にどなられているのを見ているまわりの人たちはどう感じているでしょうか。おそらく多くの人は、Aさんのそのような主張や態度に、なにか「その場にそぐわないもの」、「おかしな」ものを感じています。ただ、なぜ「おかしい」と感じるのか。その理由は人それぞれ違います。「上司に注意されたら、謝っとけばいいのに、バカだな」と思う人もいるでしょう。「上司に言われなくても、自分から報告するのが部下の仕事だろ」と考える人もいるでしょう。「報告・連絡・相談がこの職場のルールでしょ。なに言い訳してるのかしら」と思う人もいるかもしれません。「あの上司は、自分がなにを言ったかなんか覚えていないんだよ。そのくらいのこと、まだわかんないのかな」と思う人もいるでしょう。
このような、上司の言葉に対するAさんとまわりの人たちのとらえ方の「違い」はどこから生まれるのでしょうか。
ある言葉が「意味」を持つためには、「背景、地」が必要
まわりの人たちにとって、上司の言葉(言ったこと)は、さまざまな状況や雰囲気がつくり上げる「背景、地」の中に見える「しるし(記号)」のようなものです。「しるし(記号)」というものは、たしかになにか「意味」を持っていて、なにかをわたしに「働きかけよう(なにかを伝えよう、なにかを感じさせよう、なにかの行動させよう等)」としています。しかし、その「しるし(記号)」の「形」は、すぐに見て取れても、その「しるし(記号)」の「意味」が、この場合具体的にどのようなものであるかは、その「背景、地」となっているものといっしょに見ない限り、実はわからないのです。あるひとつの言葉が、具体的なある「意味」を持つことができるのは、その言葉を生み出した状況などが、その言葉の背後に「背景、地」としてあるからです。この「背景、地」の中には、もちろんその時の上司の思いや気分も含まれますし、その仕事の内容やその職場の習慣やしきたりや雰囲気なども、すべて含まれます。
街の中のあちこちにある×という記号の「意味」
言葉でこんなことを書いても、わかりにくいと思いますので、すこし視覚的な比喩を使って説明してみます。ここに街の風景を写した大きな画像があるとします。その画像の中には、拡大してみるとあちこちに×(バツ)と思われる「しるし(記号)」が写っています。通路の上に赤ペンキで大きく書かれた×は、たぶん「通行禁止」を表しているのでしょう。ドアの取っ手(ノブ)の上に黒マジックで書かれた×は、「取っ手が壊れていること」を表しているのかもしれません。アンケート・ボードの×のシールは、アンケートの問いに対する「いいえ」を表しています。政治ポスターに、「○○政治に×」と書いてあるのは、「○○党」に投票するなということを言いたいのでしょう。歩道のわきの枯れた街路樹に赤のビニールテープで大きく×が貼ってあれば、それは、その木が今後の「伐採作業の対象」であることを表しているのかもしれません。
×という記号だけでは、具体的「意味」は生まれない
ところが、もし、こんな街の画像から、以上の×の部分だけを切り取って(トリミングして)何枚かの画像をつくって並べたら、どうでしょうか。それがさまざまな色の×(バツ)であることはわかっても、この×が具体的にどのようなことを示しているのかは、わからなくなってしまいます。それでは、×のまわりの画像(背景、地)を多少入れて×を切り取ってみたらどうでしょうか。ただ、そうしても、その画像のまわりの背景や地がもっとたくさん写っていないと、×の一般的意味である「ダメ」という意味(メッセージ)以外は、あまり感じられない(わからない)画像のままでしょう。
「今の言葉は、パワーハラスメントです。人権侵害です」
これを今度は、人と人のやり取りで考えてみましょう。先ほどの話の続きです。「今日までに、途中報告をせよとは言われていません」と言って、上司にこっぴどくどなられたAさんは、その翌日、途中報告の書類を作って上司のところに行き、それに基づいて説明をしました。しかし、上司はAさんの説明がポイントを押さえず、ひたすら長く続くので、Aさんが説明している途中でひと言、「ダメだ」と言いました。書類を見ながら説明していたAさんは、「えっ」と言って顔を上げました。そのAさんの顔を見て、上司はもう一度「ダメだ」と言ったのです。Aさんは、自分や自分の仕事のやり方が「ダメだ」と言われたと感じて、「どこがダメなんですか(こんなに落ちがないように必死にやっているのに)」と聞き返しました。その態度にさらにむっとした上司は、「ぜ〜んぶ、ダメだ」と言いました。この言葉に、自分が全否定されたと思ったAさんは、「今の言葉は、パワーハラスメントです。人権侵害です」と叫びました。
「ダメだ」という言葉の「意味」
上司がAさんに「ダメだ」と言った時、上司はAさんの説明の冗長さにイライラし、そのいら立ちをAさんにわからせたくて、「ダメだ」と言ったのです。実はそう言うまでに、上司はAさんが説明している最中にわざと時計を見たり、机の上で指先を上下に動かすことで、自分のいら立ちを伝えようとしていたのです。しかし、それに気づかず、いつまでも同じように説明を続けるAさんに、あきれた上司は説明の切れ目を見つけて、ひと言「ダメだ」と言ったのです。つまり、二回くり返された「ダメだ」は、「こんな説明はもうやめろ(中止)」という意味でした。ところが、Aさんはその「ダメだ」という言葉の意味を、自分や自分の仕事ぶりへの「ダメ(否定)」という意味だと思ってしましました。そこで、「どこがダメなんですか(こんなに落ちがないように、必死にやっているのに)」と言い返します。上司のいら立ちに、まったく気づいていないそのAさんの態度に、むっとした上司は、売り言葉に買い言葉で、「ぜ〜んぶ、ダメだ」と言ってしまいます。その言葉を文字どおり(額面どおり)に受け取ったAさんは、自分が全否定されたと感じ、「今の言葉は、パワーハラスメントです。人権侵害です」と叫んだのです。
先ほど述べた街の風景の画像を思い起こしてください。その画像のあちこちに写っている×が、どれも共通した「ダメ」という意味を持ちながら、実際には、それぞれが「止まれ」とか「故障中」とか「いいえ」とか「伐採対象」とか、異なったさまざまな具体的な意味を持っています。「なにがダメなのか」というその×の実際の「意味」は、×という「しるし(記号)」のまわり(背景、地、状況)を見なければわからないのです。そして、その具体的な「意味」が相手にわからなければ、日常生活の中で×はその具体的役割を果たすことができません。たとえば、歩道のタイルに書いてある赤ペンキの×の意味がわからず、そこに足をのせて、足首をねん挫するようなことも起きてしまうのです。
「なんでこの人には、わたしの言葉が通じないのだろう」
この話の中では、Aさんと上司がそれぞれ、「なんでこの人には、わたしの言葉が通じないのだろう」と思っています。
上司がそう思うのは、Aさんの特性を理解していないからです。Aさんは相手の話す言葉を文字どおりの意味(辞書に載っているような意味、字義)だけで受け取って、その言葉が相手の口から出てきた「背景、地(相手の表情やしぐさに感じられる気持ちの動き等)」を、ほとんど見ていないのです。上司は、そのようなAさんの特性に気づいていない(または、気づいていても、受け入れたくない)ので、「なんでAさんには、わたしの言葉が通じないのだろう」と思ってしまうのです。上司は、こんなことまで言わなくても相手はわかるだろうという強い「思い込み」があるせいで、結果として「Aさんには、言葉が通じない」という事態が生まれているのです。
一方、Aさんは、上司やまわりの人たちのほとんどが、「相手の言葉は、言葉(文字づら)だけでなく、その言葉の『背景、地』からその『意味(相手の意図)』をつかむものだ」という「暗黙の了解」の中で、日常の言葉のやり取りをしていることを理解していません。上司は、今までの職場での経験などから、「延々と説明を続ける相手には、上司がイライラした様子を見せれば、自分の説明の仕方がまずいということに気づくだろう。それでも、説明をやめたり、説明の仕方を変えないのなら、首を振って見せるか、ひと言『ダメだ』と言えば、それは『その説明の仕方はダメだ』ということになり、相手はそこで説明をやめるはずだ」と思っているのです。しかし、そのことがAさんには、わかっていません。結果として、上司の「ダメだ」という言葉は、Aさんには、ひどく唐突な、理不尽で暴力的な、自分に対して全否定的なものに聞こえてしまうのです。
なぜ、上司は「ぜ〜んぶ、ダメだ」と言ったのか
このようなことを書くと、上司が、「ダメだ」とひと言しか言わなかったのが、そもそもおかしい。そんな短くてわかりにくい、どうとでも取れる言葉しか言わなかったのが、おかしいんだ。また、Aさんが「どこがダメなんですか」と聞き返した時に、「説明が長すぎるのがダメなんだ」と答えなかったからこんなことになったのだ。今回のトラブルは、上司の方に責任があると思う方もいらしゃるかもしれません。確かに、「どこがダメなんですか」というのは、言葉(文字づら)だけ見れば質問ですから、「どこが」と聞かれたら「ここが」と答えるのが、日本語の会話の受け答えとしては、「正しい」ものでしょう。しかし、そのようなとらえ方は、街の画像の比喩で言えば、×(バツの「しるし(記号)」)だけを見て、そのまわりの「背景、地」をほぼ無視したとらえ方です。そのようなとらえ方をしてしまうと、なぜ上司が「ぜ〜んぶ、ダメだ」と言ってきたのかが、まったくわかりません。
上司は、Aさんが「どこがダメなんですか」と言った時の、Aさんの表情や口調やそれまでの経緯(言葉の「背景、地」)から、その言葉に自分への「質問」ではなく、「わたしを『ダメだ』と言う、あなたの方がダメなんだ」という「批判や非難」を感じたのです。それでむっとして、売り言葉に買い言葉で、「ぜ〜んぶ、ダメだ」と言ったのです。Aさんはそのような上司の言葉の「背景、地」である上司の「怒り」(ふざけるな)をほとんど見ないので、「ぜ〜んぶ、ダメだ」という言葉を、そのまま字義(辞書にのっている言葉の意味)どおりに受け取り、そこに自分への全否定(全部ダメ=人権侵害)を感じてしまったのです。
おわりに
ASDの傾向の高い人が、とかく言葉にこだわるように見えるのは、言葉というものをそれだけ重要視しているからではありません。言葉が出てくるもとになる「背景、地」をほとんど問題にしない傾向があるために、「形」としての(聞こえる、目に見える)言葉だけを重要に思うのです。
ところで、先ほどの話にはまだ続きがあります。Aさんと上司のけんかのようなやり取りを見ていたBさんは、次のような感想を持ちました。
「Aさん、またやってるよ。いい加減にしてほしいな。上司に『ダメだ』と言われたら、とにかく『すみません』と言えばいいんだ。そうすれば、ふつう、上司はどこがダメかをしゃべり始める。『すみません』をくり返しながら、それをよく聞いて、なぜ『ダメだ』と言われたかを、まずつかまなきゃ。それがわからなきゃ、次に自分がなにを言うべきか、すべきかもわからないじゃないか。なのに、『どこがダメなんですか』なんて言ったら、上司はカチンとくるに決まってるよ」
こんなBさんの思いを見ると、Bさんは職場で「うまい生き方」をしているが、Aさんはそういう生き方ができないという「違い」を問題にしているように思えるかもしれません。しかし、本当に大事な「違い」は、そこにはありません。大事なことは、相手の言葉の「背景、地」(なぜそう言ったか)を把握しない限り、相手とのトラブル(行き違い、誤解)を防ぐことはできないということです。
相手が本当に言いたいこと(伝えたいこと)は、言葉(文字づら)の中にはないのです。それをお互いに納得し、相手の言葉の「背景や地」をとらえようとしない限り、お互いの「あの人には、言葉が通じない」という思いは消えません。
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