「会うは別れの始めなり」
シェアハウスで長らく関わってきた男性ヘルパーが9月いっぱいで退職する。すでにシフトとしては昨日で終了し、入居者やヘルパーからは別れを惜しむ声があがっていた。
私自身もシェアハウスに入居してから8年間、さまざまな形で関わってきたし、移動支援では遠くのほうにも出かけたから、それなりに想い出はある。
しかし……それでも寂しくはないのだ。
いや、「寂しさのスイッチを切っている」と言った方が正しいかもしれない。
大げさな言い方が許されるなら、障害当事者にとって別れは宿命である。自由の利かない体である限り、不特定多数のヘルパーの介入を受けながら、ぎりぎりのところで命をつないでいかなくてはならない。
私自身も脳性麻痺当事者としてこれまでもたくさんの介助者と関わってきた。
それは、この先の人生でも変わらない。
あえて冷淡な言い方をすれば、ヘルパーとの別れは長い人生の中で不意に発生した1つの通過点に過ぎないのだ。ヘルパーとの別れに際し、いちいち「寂しくて泣きそうだ」などと感傷に浸っていたのでは身が持たないのである。
もちろん、私とてそのヘルパーには思い入れがあるし、会えなくなるのは寂しい。感謝の気持ちもある。
しかし、それでも。それがあくまでも介助者としての関わりである限り、「8年間ありがとう」とまっさらな気持ちで言う気にはなれないのである。
シェアハウスでは男性ヘルパーの送別会が開かれるらしい。彼と特に距離感の近かった女性利用者は感謝の手紙をいつ渡そうかとドキドキしているようだ。
私は、冷たい人間なのだろうか。