見出し画像

浮世絵美人は、江戸っ子の粋な脳内補正でリアルになる

大河ドラマ「べらぼう」のスタートよりはるか以前から浮世絵好きを自認しているが、美人画というジャンルにはそこまで心を惹かれない。単純に可愛くないからだ。それで浮世絵ファンを名乗るのはお叱りを受けそうだが、美的感覚が違うのは如何ともし難い。特に傑作と名高い歌麿の作品を見ても、その文化的価値や芸術性に感嘆はするが、女性そのものに魅力は感じない。

寛政三美人

うん、やはり可愛くない。

同じ3人並びのイラストなら、B小町の方が余程可愛い。それが現代人の素直な感覚だろう。文化人を気取るために、無理をする必要は無い。

B小町

しかし、美人画を代表する寛政三美人と、同じく現代美少女の象徴たるB小町には、明確な共通点がある。

その顔が、人間離れしているという点だ。

実写版のB小町と比べてみると、その異形ぶりがよく分かる。眼球の大きさはこぶし大。鼻の穴どころか鼻梁すら存在せず、唇も見当たらない。

ドラマ「推しの子」公式サイトより


美人画を見て「こんな顔のやつおらんだろ」と感じる人は、B小町も同じだという事に気づいて欲しい。表現は異なっても、やってる事は同じなのだ。写実に囚われる事なく、人々の理想を大胆に、実際にはあり得ない程デフォルメしている。まあ、考えて見たら当たり前だ。浮世絵もアニメも、大衆の人気が優先の娯楽た。写真みたいに、本物に近づける必要はないだろう。

…写真?

写真って、その時あったっけ?


「おめえ、難波屋おきたを見に行ったそうじゃねえか?」

「おうよ。さすがは寛政三美人。眼福だったぜ」

「茶屋の主人に、誰が『おきた』か尋ねたのか?」

「んなこたあ、必要ねえよ。一目で分かったぜ。何せ浮世絵と瓜二つときたもんだ…」

「おう、やっぱりか」

「そうさね。もう、目なんて特に、まんま絵の通りよ」

「鼻はどうだ?なにせ『おきた』の鼻は、後の2人とは全然違うからよ」

「もちろんよ。鼻も口も、浮世絵の『おきた』とそっくりそのままよ。」

「おひさの受け口も、絵のまんまかよ…」

「おう、生き写したあ、この事よ』

「歌麿は、てえしたもんだな」

「おうよ、の女を、紙に写しとっちまうんだからな。こりゃあもう、妖術よ」

「歌麿の絵は妖術…なんかゾっとしねえな」

「違げえねえ。そうさね…真を写すから…『写真』ってのはどうだ?」

「歌麿の絵は『写真』…いいじゃねえか!」

「違えねえ…」


美人画には、現代のアニメや漫画に共通する要素が、確かにある。そして、浮世絵の女性達が写実的でない理由も、現代と同じ感覚で類推してしまう。

だが、寛政三美人がリリースされたのは1790年代なので、今より約230年前。当時の江戸っ子の感覚は、その前提から大きく異なるのだ。家電製品も、電話も、クルマも、そしてカメラも写真もない。

存在しないものは、想像もできない。

浮世絵の美人さんは、現代のアニメのようにデフォルメされているのは共通している。製作者が、大衆受けを狙う動機も同じだろう。

でも消費者の受け取り方はまるで違う。

写真がないのだ。

平面に、人間がそのまま写し取られている写真の存在自体を知らない。そして知らないのだから想像もできない。

江戸っ子にとって、美人画はデフォルメではない。
あの顔が、彼らにとっての写実だったのだ。

あんな顔の人間は、確かに存在しない。
でも、江戸っ子の目には、おそらく本当に、あれがリアルに映ってたのだ…

脳内でビジュアルが補正されるのは、現代の脳科学でも証明されている。

やはり、江戸っ子は粋だ。

実物とかけ離れた美人画を、本物とみなせる想像力を持っている。

彼らが、B小町の実写版を見たら、何というだろうか?

『実写だあ?野暮な事してんじゃねえよ』



いいなと思ったら応援しよう!

まし  |  言葉の何気なインサイト
気に入っていただけた方は、応援お願いします!