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働き方改革は、時間を忘れて仕事に没頭する機会を奪うのか。

広告やデザイン、企画などいわゆる創造性を必要とする仕事がある。経験のある人は分かると思うが、その成果物の質量は、必ずしもかけた時間と比例しない。

例えば、我々は自らが手がけるアウトプットが自分にとってしっくり来る迄、手直しをする。手直しする時間は、10分で済む事も有れば、3時間かかる事もある。

なぜそんなに差が出るかを説明するのは難しい。自分の行動はコントロールできるが、自分に「しっくり来い」と命令する事はできない。

自分の中に審判がもう一人いる感覚だろうか。

で、その審判は

アイデアを思いついた時
そのアイデアを形にする時
形にしたものを手直しする時

など、アウトプットが確定するまて各段階で登場する。

審判は自分であって自分ではないので、合格にどのくらい時間がかかるかは予測がつかない。個々の案件にどのくらい時間がかるかは審判さん次第なのだ。前述の通り、10分の時もあれば3時間の時もある。

で、ジャッジを受ける側の時間感覚がどうかというと、実は10分でも3時間でもほとんど変わらない。

審判さんに合格をもらう事に集中してる間は、時が経つのを忘れてしまうのだ。いわゆる、没頭している状態だ。
「没頭してる」間は、楽しいとかワクワクするとか、追い詰められてるとかは考えない。
脳のリソースはその対象に全振りされ、合格に向けて全エネルギーを注ぐ。

没頭は、良質なアウトプットを生み出すために不可欠な感覚と言っていい。

もちろん仕事であり、プロである以上、いくらでも時間をかけていいという話はない。逆説的であるが、ここでも没頭経験が役割を果たす。
没頭の経験値が重なると、少しずつではあるがその事を自覚できるようになる。自覚すれば、気まぐれな審判さんとの折り合いもつけれるようになる。

没頭の経験を通して、丁度いい没頭の仕方を学ぶのだ。
それは決して、座学では会得できない。


そして令和の現代。

働き方改革で、労働時間が厳しく制約される事により
若者達は、没頭を経験する機会を奪われている。

昔とて、その機会が与えられていた訳ではないし、時間をかけていいと言われていた訳でもない。むしろ自分の身を守る為には、時間をかける余裕は今よりなかったかもしれない。

それでも自己責任において、自ら没頭を選ぶ自由があった。

今、没頭を選ぶ自由はない。

多くの若者が、没頭の経験をする事なくクリエイティブに向き合わなくてはいけないのだ。これでは、クリエイターとしての成長など望むべくもない。




いや、そう思うのは早計だ。自分で「時間は関係ない」と言いながら、労働時間のせいで没頭できないとは、そもそも矛盾してるではないか。

働き方改革と、没頭経験は両立できる。

その方法を考える事に、没頭し続けるしかない。

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