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「雑文39856」 本多裕樹
「雑文39856」
詩が書けない。昔はスラスラ書けたのに、いくら書いても華が無い。無味乾燥なつまらないものになっている。感情が入らない。それはなんだろうかと思うのだが、やはり若い人の感性には負けるのだ。いつまでも中学生、高校生の感性ではいられないどこかで鈍ったり更年期障害で落ちる部分がやはりあるものです。仕方のない事ではあります。いつまでもアルチュール・ランボーではいられない現実が今あります。
であるなら、今できる詩を書けばいい。いくら若い頃に詩作ができてもいつかは落ちるものであると今、知るにいたりました。私は感性が落ちても、詩の魅力がなくなってもできる詩を書けばいいだけです。老害の詩をこれから書いていく事になるでしょう。
もはや、若き天才たちに勝てない状況にあります。どこの世界でも絵画でも詩でも天才に勝てない。
高校生の時は音楽をたくさん聴いたし、漫画もたくさん読んだ。創作はしなかったけど、なんか全てが輝いて見えた。
中学生の時は牢獄であった。
詩を書き始めたのが19歳の時だった。夕焼けを見てそのまま写実というか詩における写生詩を書いて詩作の訓練をした。その後、様々な勉強や経験をして、少しずつまともな内容の詩を書けるようになった。やはり、私は若き天才でなかったし、様々な経験や勉強をしないとマシな文章を書くことはできなかった。天才ではなかった。
世の中にはやはり、とてつもない天才がいっぱいいる。その天才の状態を維持できる人は少ない。若い頃、それこそ絵画や詩の世界でも天才はあったし、そういう人に会ってきた。それから時が経ってまだ芸術を続けているかというとそうではない。大抵、仕事をして月給取りになったり、結婚して家庭を持ったりして芸術は過去の思い出になって美しい日々のアルバムに入っている。
今、私は40過ぎの年季の入ったおじさんでありますが、続けている人はやはり続いている。どこかで芸術に懸命になり、何か大切なものを捨ててしまっていることが見受けられる。
人生は何でもは手に入らない。何かを捨てて何かを得るのだ。何かを得る時には何かを捨てる。その中で芸術を捨てた人も多いことだろうと思う。それはその選択に誰も反対しない。むしろ芸術という化け物に囚われて人生を捧げてしまい。女性であれば結婚や恋愛を捨てたり、家庭を放棄したりもするだろう。男性であればアルバイトやパートで生活をしのいで芸術に精進するお坊さんもいるだろう。
本当を言えば、芸術をやることはある種の宗教に精進するものだと思う。のめり込んで大切なことやものを犠牲にして傑作を夢見るのであるから、誰もがいける道ではない。そんな芸術の精進は身を滅ぼし人生を滅茶苦茶にして、病んででも描く狂気の人になっていくのだ。普通の幸せを捨てて燃やす事になる。誰もが行こうとして行けるものではないのだ。一部の呪われた者たちの芸術信仰なのだ。
芸術に死すという言葉は尊いように思うかどうか知りませんが、私はちゃんとしっかり人間生活をしている人の方が尊いと思う。誰もがお坊さんになる必要はない、誰もが貴族であってもバランスが取れない。ごく平凡な人生の人、普通に生きている人がとても素敵だと思うし、見ていてほのぼのする。お坊さんは、芸術のお坊さんになると修羅道である。修羅であってはやはりいけないのである。しかし、もし、芸術の天使に魅入られて呪われたら、それこそ死すまで芸術に精進し、その世界にいくだろう。それはあらゆる大事な幸福を火で燃やし、燃料にして芸術になっていくでしょう。そうして燃焼し、ボロボロになってようやく普通の生活に戻れることもあるかもしれません。
ここまで読んでくださり感謝します。
ありがとうございます。
2024年8月17日 本多裕樹