タイ仏教の革新者、ルアンポー・ティアン

 二〇一四年八月二三日、タイの仏教界に衝撃が走った。タイ仏教を代表する高僧、ルアンポー・カムキエンが亡くなったというのだ。タイ仏教があまり人口に膾炙していない日本では馴染みの薄い名前かもしれないが、タイ仏教界においては知らぬものはいないというほどの高僧である。日本では、スカトー寺の住職で、タイを代表する開発(かいほつ)僧として著名なプラ・パイサーン・ウィサロー、そして同寺の副住職であり、日本人比丘でもあるプラユキ・ナラテボーらの師僧であると言えばイメージがしやすいであろうか。
 
 今回は、そのルアンポー・カムキエンの師であり、その法脈の祖である、ルアンポー・ティアン(Luangpor Teean)について、紹介をしてみたいと思う。

ルアンポー・ティアンの略歴


 ルアンポー・ティアンは、一九一一年、タイのルーイ県チエンカーン市にある、ブホムという村に生まれた。ちなみに、ルアンポー・ティアンという名の「ルアンポー」とは、タイ語で「師父」を意味するため、ルアンポー・ティアンとは、日本語で「ティアン師」という意味である。彼は、若くして父親を亡くしたという。ルアンポー・ティアンが幼年期を過ごしたブホム村には学校がなかったため、彼は正規の教育を受けることはできなかった。そのため、幼少期には、村の他の少年少女たちがするように、母親を助け、農作業に打ち込まなければならなかった。父親がいないという面があるとはいえ、特別、彼の家が貧しかったわけではなく、その地域の子どもたちは皆、そうするのが普通な時代だったのである。
 
 十一歳の時、ルアンポー・ティアンの人生に転機が訪れた。ブホム村にあった僧院で、沙弥として出家をしたのである。当時、その僧院には、彼の叔父が比丘として滞在しており、ルアンポー・ティアンは叔父と共にその僧院で暮らすようになった。それまで正規の教育を受けていなかった彼はその僧院でまず、読み書きを学び、やがてはラオ語で書かれた仏教経典や、その土地に古くから伝わる独自の経典なども読むことができるようになった。
 
 また、彼はその僧院において、いくつかの瞑想実践の方法も学んだという。その中には、「プットー」瞑想や、日本の禅宗でおこなわれるような数息観(呼吸の出入りをカウントする瞑想法)も含まれていたという。「プットー」瞑想とは日本では馴染みが薄いかもしれないが、「プットー」とは、タイ語で「ブッダ」を意味する言葉である。実践方法は、息を吸うときに「プッ」、吐くときに「トー」と心の中で唱えながら、呼吸を続けていくというものである。深く習熟することによって、禅定状態に入ることを可能とする瞑想方法といえる。
 
 こうしたルアンポー・ティアンの僧院生活は一年六か月続き、その後、再び母親と家族の生活を助けるため、還俗をし、在家としての生活に戻った。

比丘としての再出家


 還俗をした後、十三歳から七年間、ルアンポー・ティアンは再び母を助け、家族の生活を成り立たせるために必死で農作業に打ち込んだ。そうして、二十歳の誕生日を迎えた頃、彼はタイの青年たちが伝統的に行うように、功徳を積むために比丘として再出家をした。このとき、再出家をしたのも、沙弥のときと同じブホム村の僧院で、そのときもまだその僧院に滞在していた叔父と共に、教学に励み、瞑想実践に打ち込んだ。このときの出家生活は六か月間で終わり、その後、ルアンポー・ティアンは生活のため、再び還俗をした。
 
 還俗をして二年ほどたった頃、ルアンポー・ティアンは一人の女性と巡り会い、結婚をした。二十二歳の時のことであった。夫婦は仲睦まじく、三人の息子に恵まれた。還俗した後も、仏道に関して深い関心を抱き続けた彼は、村で行われる仏教活動のリーダー的存在であり、皆から尊敬される存在であった。何度か村の長(おさ)に選ばれることもあったが、そうした公的な責務を果たしつつも、真面目に瞑想実践も続ける日々であった。
 
 子どもたちが学校に通う年齢になった頃、ルアンポー・ティアンは故郷のブホム村を出て、より都心部のチエンカーン市に居を移した。村には、子どもたちを通わせる学校が無かったためである。市街部に引っ越したため、もう以前のように農業はできない。そこで、ルアンポー・ティアンは小さな汽船を手に入れ、それを使って商売をするようになった。メコン河を縦断して、チエンカーン市から、ノーンカーイ県、ラオスのビエンチャン、さらには、ラオス北部のルアンパバーンまで足を伸ばすこともあった。商売は順調にいき、子どもたちもすくすくと育っていった。
 
 そのような充実した日々においても、ルアンポー・ティアンは在家の修行者として欠かさず瞑想実践に励んでいた。また、彼は商人として様々な土地を訪れることができる立場を利用して、それぞれの土地の高名な瞑想の師のもとを訪れ、教えを乞うた。そうした日々を過ごすうちに、彼の中で法(ダンマ)を究極まで追求したいという意志が日増しに強くなっていった。
 

真理探究のため、家を去る


 そんなある日、長年にわたって在家の修行者として仏道の教学に励み、瞑想を実践し続けたルアンポー・ティアンに、ある転機が訪れた。先ほども述べたように、彼は模範的な在家仏教徒として、日々在家の五戒を守り、機会を見つけては積極的に布施をし、毎日の瞑想実践も欠かさなかった。
 
 テーラワーダ仏教圏では、毎年一回、「カティナ衣法要」という大切な行事がある。これは、雨安居明けに厳しい修行を行った比丘サンガに対して、在家が新しい衣をお布施し、そのことによって在家もまた無量の徳を積むという伝統行事である。ルアンポー・ティアンも、毎年のようにこの行事に積極的に参加をしていたが、ある年の法要の折、彼と家族の間で、法要への参加について口論が生じた。
 
 そのような事態に直面して、ルアンポー・ティアンの心の中に、
「私は今までの人生において、戒律を守り、あらゆる機会にお布施をし、功徳を積んできたのに、心の中にはまだ怒りの感情がある。私の心は、未だ苦しみ(ドゥッカ)に束縛されているのだ。今こそ、この苦しみ(ドゥッカ)に終止符を打つべきだ」
という考えが生じた。
 
 一九五七年、もう少しで四六歳になろうとしていた頃、ルアンポー・ティアンは悟りを開くまではもう家には帰らないという硬い決心と共に、自らの家を去った。

ついに悟りを開く


 家を出たルアンポー・ティアンは、ノーンカーイ県のシーチエンマイにあるワット・ラングシムクダラムという寺へと向かった。その僧院では、比丘たちが「動いている」「止まっている」などと自分の現在の動作を心の中でラべリングをする瞑想をおこなっていた。しかし、ルアンポー・ティアンはそのようなラべリングはおこなわず、ただ、自分の心と身体の動きに対して気づいているということにのみ集中をして瞑想実践をした。
 
 そうした実践を数日間続けるうち、一九五七年の八月のある朝、ルアンポー・ティアンの心は完全なる苦の消滅に達した。長年にわたる彼の疑念に、ついに決着がついたのである。このように、特定の師につかず、またその師による瞑想指導を受けずして解脱に達するということはタイでも異例のことであった。
 
 こうして自らの修行を終えたルアンポー・ティアンは、僧院に留まらず、自分の家に帰ることを決断した。そして、二年と八か月の間、在家の瞑想指導者として、自分がつかんだ法(ダンマ)を自分の妻や、親類縁者たちに伝えた。

ルアンポー・ティアンの説いた瞑想


 そうした在家の瞑想指導者としての日々が約三年弱続いた後、ルアンポー・ティアンは自分がこうして在家でいるよりは、比丘という立場になったほうが、より多くの人々に自分のつかんだ法(ダンマ)を伝えられるのではないか、と考えるようになった。再出家の決意を固めた彼は、一九六〇年二月、比丘として再出家をした。
 
 ルアンポー・ティアンが教えた瞑想法はチャルーン・サティ(気づきの開発)と呼ばれるものである。チャルーン・サティには、座って行う瞑想(ヨックムー・サーンチャンワ/手を上げてリズムを創る)と、歩いておこなう瞑想(ドゥーンチョンクロム/丸くなるまで歩く)の二つがある。このうち、座って行う瞑想は、座りながら両手を動かして行うため、「手動瞑想」などと呼ばれることもある。
 
 手動瞑想の手の動かし方は十五種類の動作から成り、最初は覚えるのにとまどうかもしれないが、繰り返すうちに慣れて、すぐに覚えることができる。大切なことは、ただ正しく手を動かすのではなく、その動作の一つ一つに気づくことにある。気づきがなければ、単なる手の体操になってしまうからである。
 
 現在、インターネットのYouTube上にこの手動瞑想のやり方を日本人比丘プラユキ・ナラテボーが解説した動画が投稿されており、こちらの動画を見るのが手動瞑想の動きを覚えるのに最適な方法だろう。
 

 
 歩行瞑想を行う際には、十数歩くらいで歩ける距離を最初に決め、普段歩いているのと同じくらいのスピードで、その距離を行ったり来たりして歩く。(ドゥーンチョンクロム/丸くなるまで歩く)といっても、円周を描くように歩くわけではなく、直線上に行ったり、来たりするのである。その際に、手動瞑想の時と同様にただ歩くのではなく、一歩一歩きちんと地面に足が触れているのに気づきながら歩くようにする。また、その際にマハーシ式のヴィパッサナー瞑想のように言葉で「右足上げる」「運ぶ」「降ろす」などのラべリングは行わないようにするのがその特徴である。

ルアンポー・ティアンの教え


 こうした具体的な瞑想法の他は、ルアンポー・ティアンの説いた仏道は型にはまらないものであり、伝統的なテーラワーダ仏教の教義に収まりきらないスケールを持ったものであった。
 
 ルアンポー・ティアンは、宗教というものは単にある人が理解したと思っている真理に、ラベルを貼った言葉に過ぎないと考えていた。そして、そうした教えは、世界中に数限りなくある。それゆえ、もし、私たちがいったん「宗教」について語りだせば、それはありとあらゆる論争、疑念、争いを呼び起こすものとなる。だから、「宗教」について語るのを、ルアンポー・ティアンは好まなかった。
 
 けれども、もし、法(ダンマ)について真摯に求道心を持って探求してくるものがいるならば、彼はそれを決して拒むことはなかった。そして、ルアンポー・ティアンはもし、私たちが法(ダンマ)について真の理解を得たならば、「宗教」についてのあらゆる疑問もまた、氷解すると語っている。
 
 ルアンポー・ティアンは、法(ダンマ)とは、何か私たちの外部にあるものではないと言う。彼もまた、自らの修行に決着を着けるまでは、法(ダンマ)とはあたかも何か対象のように自分の外側にあるものだと、長いこと勘違いをしてきたと語る。だが、そうではなく、本当は法(ダンマ)とは、今まさに私たちの目の前にあるものなのである。
 
 こうしたルアンポー・ティアンの教えは、煩瑣なものではなく、常にその主題は気づき(サティ)という一点に集約されるものであり、その教えは国内のみならず、海外へもたちまち広まっていった。

ルアンポー・ティアンの最後


 ルアンポー・ティアンの身体は決して頑健とはいえず、健康状態が優れないことも多かった。だが、彼は自分の人生の全てを、人々に法(ダンマ)を説くことに捧げ続けた。
 
 一九八二年、ルアンポー・ティアンは、胃がんと診断された。けれども、病身であるにもかかわらず、がん治療を続けながら、精力的に瞑想指導者としての仕事をその最後の日を迎えるまで行った。
 
 一九八八年九月十三日の朝、ルーイ県でルアンポー・ティアンはその七十七年の生涯を閉じた。安らかな最期であったという。
 
 ルアンポー・ティアンの身体は亡くなったが、その法脈は現在に至るまで尽きることはない。その教えは高弟である、スカトー寺の前住職、故ルアンポー・カムキエンを通じ、その弟子であり、スカトー寺の現住職プラ・パイサーン・ウィサロー、副住職プラユキ・ナラテボーらによって、現在も世界中に脈々と伝えられている。私たちは、彼らを通じて、ルアンポー・ティアンの教えの真髄に触れることができるのである。 

参考文献


プラユキ・ナラテボー『「気づきの瞑想」を生きる』(佼成出版社、二〇〇九年)
プラ・パイサン・ウィサロー「森の修行を基盤に社会にコミットする、タイ・エンゲージド・ブディズムの論客僧」『サンガジャパンVol.18』(サンガ、二〇一四年)
 
日笑(ひえみ)ふぁあ空しど~♪♪
http://uramasafaa.ti-da.net/
 
Mahasati Meditation
http://www.mahasati.org/index.html
 
An Interview with an Awakened Master Luangpor Teean
http://the-wanderling.com/teean2.html
 

初出:『宗教問題 9』
 

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