静止しつつ流れゆく川 ⑦
アチャン・チャー
「長い」という概念がなければ、「短い」という概念も存在しえません。同様に、「正しい」という概念がなければ、「間違い」という概念も成り立ちません。最近の人々は、「善」や「悪」については、よく学んでいるようです。しかし、彼らは、「善」や「悪」を超えたものについては、何も知りません。彼らが知っているのは、「善」や「悪」についてのみです。
「私は『善』だけが欲しい。『悪』には関心が無い」
ですが、善だけを得ようとしても、しばらくすればそれは悪へと変化してしまうでしょう。善とは、悪に通じるものなのです。世間の人々は善や悪については追及しますが、善と悪を超越したものは探求しようとはしません。善や悪について学び、功徳を積もうとはしますが、善と悪を超えたものについては、何も知らないのです。言い換えるなら、彼らは「長いもの」や「短いもの」についてはよく知っているけれども、「短くも、長くもないもの」については、まったく何も知らないのです。
刃物には、「切っ先」と「腹」と「柄」の部分があります。あなたはその刃物の、腹の部分だけ持ち上げることができますか? もしくは、刃物の切っ先だけ、柄だけを持ち上げることができますか? 「切っ先」と「腹」と「柄」は、すべて同じ刃物の一部分なのです。あなたがナイフを手に取るとき、それら三つの部分は、一つのものとなっているのです。
ナイフの例と同様に、「善」を求めれば、同時に「悪」も付いてくるのです。世間の人々は、「善」を追求し、「悪」から離れようとしますが、善でも悪でもないことについては、探求しません。しかし、このことを探求しなければ、仏道の完成はないのです。善と悪は、対になったものです。楽と苦も、対になったものです。善に執着し、悪を拒絶するような修行は、子どものダンマであり、おもちゃのようなものです。もちろん、そうしたレベルの仏道も、一概に悪いとは言えません。けれども、たとえ「善」であろうと、それに執着すれば、そこには必ず「悪」がつきまといます。そうした種類の実践は、最後には混乱を生むだけです。ですから、あまりおすすめできないのです。
(続く)
アチャン・チャー『Living Dhamma』より
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .