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静止しつつ流れゆく川 ④

アチャン・チャー

 このように安らかな心で日常生活を過ごすためには、観察をする必要があります。世間の人々が通常考えるような「心の安らぎ」とは、気持ちが落ち着いている程度のことであって、煩悩が静まった状態のことではありません。それは雑草を岩で覆い隠しているようなもので、煩悩は一時的に抑えられているにすぎません。3、4日後に、雑草の上の岩を取り除くと、またあっという間に雑草は元通りになってしまいます。雑草は枯れたのではなく、岩で押さえつけられていただけだったのです。サマーディ瞑想も、この岩と同じようなものです。一見、心は落ち着いたように見えますが、煩悩が消えたわけではないのです。サマーディというのは、確かなもの、頼れるものではありません。本当の心の安らぎを得るには、智慧パンニャを身につけなければなりません。サマーディでも一応、心は落ち着きますが、雑草の上の岩と同じで、岩を取り除けば、草はまた元通りです。つまり、サマーディで得られるのは、一時的な心の安らぎだということです。それに対して、智慧パンニャによって得られる心の安らぎとは、雑草の上に岩を置き、ずっとそのままにしておくようなものです。そうすれば、雑草が再び生えてくることはありません。智慧パンニャによってのみ、煩悩は克服され、真の心の安らぎが得られるのです。
 
 ここまでの話では、智慧パンニャとサマーディを別々ものとして語ってきましたが、両者は本質的には同じものでもあります。智慧パンニャとはサマーディの動的側面であり、サマーディは智慧パンニャの受動的側面なのです。智慧パンニャとサマーディは、同じ場所から生じるにもかかわらず、異なる方向性と機能を持ちます。それは、マンゴーの実のようなものです。小さくて青いマンゴーは、やがて熟すまでどんどん大きくなっていきます。まだ熟していないマンゴーも、熟したマンゴーも、マンゴーという意味では同じです。ですが、その状態は異なります。ダンマの修行においては、ある状態をサマーディと呼び、またある状態を智慧パンニャと呼びますが、本質的には、シーラサマーディパンニャの三学は、すべて同じものです。マンゴーの実の場合と一緒なのです。
 
(続く)

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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星 飛雄馬
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