四聖諦 ⑦
アチャン・チャー
ブッダは、何があっても、
「これは『私』ではない」
「これは『私のもの』ではない」
と観察することこそが、苦しみを超越するための最高の修行法であると説きました。けれども、私たちは普段、こうしたことを実践しません。苦しみが生じても、私たちはそこから何も学ばず、ただ泣くのみです。私たちに必要なのは、泣くことではなく、現象を正しく観察し、知る者を自らの内に育てることなのです。
皆さんの中には、こうした話がダンマの教えであることを知らない人もいるかもしれません。今日は、経典に書かれていないダンマの教えについて語りましょう。ですから、注意をして聴いてください。ほとんどの人は、経典を読んでも、ダンマそのものを観ようとはしません。ですから、今日は経典に書かれていないダンマを説こうと思います。理解できない人もいるかもしれませんが、どうかご容赦いただければと思います。
二人の人が一緒に歩いていて、アヒルとニワトリを見かけたとしましょう。そのうちの一人が、こう言いました。
「どうしてあのニワトリは、アヒルのようになれないのだろう? どうしてアヒルは、ニワトリのようになれないのだろう?」
彼はニワトリをアヒルに、アヒルをニワトリに変化させることを望んでいるのです。そんなことは可能でしょうか? いいえ、不可能です。彼がもし、アヒルがニワトリに、ニワトリがアヒルになることを願ったとしても、それは一生叶うことはありません。なぜなら、ニワトリはニワトリであり、アヒルはアヒルだからです。ですから、そうした考えに執着する限り、彼は一生苦しむことになるでしょう。もう一人の人は、
「ニワトリはニワトリで、アヒルはアヒルだ」
と考えています。この場合、何の問題も生じることはありません。彼は物事を正しく見ていると言えます。アヒルをニワトリに、ニワトリをアヒルにしたいと願うとき、私たちは心の底から苦しむことなるのです。
(続く)
アチャン・チャー『Living Dhamma』より
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .