私たちはなぜ、この世界に生まれてきたのか? ⑧
アチャン・チャー
もし、私たちに智慧がなければ、自分の周囲にあるものは、すべて苦しみの源となります。ですが、もし私たちに智慧があれば、自分の周囲にあるものは、すべて苦しみから脱出するためのきっかけを与えてくれるものになります。私たちには、眼、耳、鼻、舌、身、意の六根が備わっています。ですが、目が見えるということは、必ずしもいいことばかりではありません。機嫌が悪ければ、他人を見ただけで腹が立ち、夜眠れなくなることもあります。あるいは誰かを見て、好きになってしまうこともあります。もし、相手が手に入らなければ、恋愛感情は苦しみの原因となります。好きという感情も、嫌いという感情も、苦しみの原因であることに違いはありません。何かを好きになっても、苦しい。何かを嫌いになっても、苦しい。そして、欲したものが仮に手に入ったとしても、私たちは幸せにはなれません。その場合は手に入れたものを失うことを恐れますから、それもまた苦しみには違いないのです。人生はすべて苦しみです。このような世界で、私たちはいったいどうやって生きていけばいいのでしょうか? 仮に豪邸に住んでいても、心が満たされなければどうしようもないのです。
私たちは、自分自身を見つめ直すべきです。
「私たちはなぜ、この世界に生まれてきたのだろうか?」
「今生で真に何かを得ることができるのだろうか?」
といったことを、真剣に考えるのです。ここの村では、子どもの頃から、家の田植えの手伝いをします。そうして17、18歳になると、周囲から急かされたように皆、結婚をします。家庭を持ってからも、働き詰めです。それから80歳、あるいは90歳になるまで農作業を続けます。私は彼らにこう尋ねます。
「生まれたときからずっと働き詰めじゃな。じゃが、もうそろそろこの世とおさらばする時じゃ。ところで、来世には何を持っていくのかね?」
その問いに答えられる人は、誰もいません。彼らに言えるのは、
「さぁ、俺には分からんね」
ということだけです。この村に古くから伝わることわざに、
「道で野イチゴを摘むのに夢中になってはいけないよ。あっという間に夜がやって来るから」
というものがあります。放逸だから、そんなことになってしまうのです。彼らは地面に座り、野イチゴを頬張りながら、
「さぁ、俺には分からんね」
といつまでも言い続けるのでしょう。
アチャン・チャー『Living Dhamma』より
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .