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四聖諦(全訳)

アチャン・チャー

●この法話は、1977年、イギリスのカンブリア州にある、マンジュシュリー協会で語られたものです。
 
 今日はこの協会の会長に招かれ、皆さんにお話をすることになりました。どうかご清聴いただければ幸いです。言葉の壁がありますので、通訳を介して皆さんにお話をすることになります。そのため、話を理解するには少々集中力が必要かもしれませんが、どうかご容赦いただければと思います。
 
 この場所での滞在は、とても快適でした。この協会の会長も、会員の皆さんも、真のダンマを実践している人々にふさわしく、皆とても親切で、友好的です。施設もとても充実していますね。ダンマを修行する場所を作るため、皆さんがおこなった献身を、心より賞賛いたします。
 
 私ももう、長いこと瞑想を指導してきましたが、苦労の連続でした。現在、私の僧院であるワット・パー・ポンには約40の分院がありますが、最近になっても、教えを乞うてやって来る人々の中には、指導をするのが困難な人がいます。*1 瞑想のやり方を知らないのに、正しく学ぼうとしない人々がいるのです。また、瞑想方法を知っていても、まったく実践しない人もいます。そういう人々には、私もお手上げです。おそらく、彼らは無知モーハなのでしょう。けれども、私がそのことを彼らに指摘しても、彼らはそのアドバイスに耳を傾けようとはしません。こうした人々に、これ以上何かできることがあるでしょうか? 瞑想実践をする人の心は、常に疑念に満たされています。彼らは皆、涅槃ニッバーナに達したいと口にします。しかし、涅槃ニッバーナへの道を歩もうとは、決してしません。まったく不可解な話です。彼らに瞑想をするように言っても、やらないか、やってもすぐに居眠りをしています。そのくせ、私が教えたこともないような瞑想方法を実践したりもしています。以前、ここの僧院長に会ったとき、生徒さんたちの瞑想実践の具合はどうですか、と尋ねました。私のところと同じようなものだと、彼は答えました。瞑想指導者の苦労は、万国共通なようです。
 
 今日、私が皆さんに紹介する教えは、今生において、今、この瞬間に問題を解決するためのものです。世間の人々は、
「仕事が忙しいから、仏教の修行なんてする時間は無い」
と言います。そんな時、私は彼らにこう尋ねます。
「おまえさんは忙しすぎて、仕事中に呼吸もしないのかい?」
すると彼らは、
「そんなわけないじゃないですか。もちろん、仕事中も呼吸をしていますよ」
と答えます。そこで私は
「仕事が忙しいのに、なぜ呼吸をする時間の余裕はあるのかね?」
と聞きます。彼らは、答えることができません。
「仕事をしている間も、気づきサティの実践に励めば、修行のための時間はいくらでもあるじゃろう」
 
 瞑想実践も、呼吸をすることと同じです。私たちは、仕事をしている時も、寝ている時も、座っている時も呼吸をしています。なぜ必ず呼吸には時間を割くのでしょうか? それは、呼吸の重要性を理解しているからです。ですから、呼吸の場合と同様に、瞑想の重要性を理解すれば、私たちは確実に瞑想に時間を割くようになるでしょう。
 
 皆さんは、これまでの人生で苦しかったことはありますか? 幸福だったことはありますか? この苦しみドゥッカ幸福スカこそが真理であり、それらを観察することがダンマの実践なのです。幸せを感じるのは誰でしょう? 心ですね。苦しみを感じるのは誰でしょう? 心ですね。苦しみドゥッカ幸福スカが生じる場所こそ、それらが滅する場所でもあります。あなたは苦しみドゥッカを経験したことがありますか? 幸福スカを経験したことがありますか? つまるところ、私たちの人生の問題とは、これらのことにつきます。ですから、苦(苦しみ)・集(苦しみの原因)・滅(苦しみの終わり)・道(苦しみの終わりに至る方法)という四聖諦を理解することができれば、私たちの人生の問題は解決するのです。
 
 苦しみドゥッカには、「普通の苦しみ」と「特殊な苦しみ」という、2種類のものがあります。普通の苦しみドゥッカとは、私たちが立っているとき、座っているとき、横になっているときに感じるもので、私たちが現象サンカーラの世界に生きている以上、逃れることのできない性質のものです。ブッダでさえ、生きている間は、この法則から逃れることはできませんでした。ブッダもまた、私たちと同様に、時にはドゥッカを時にはスカを経験しましたが、彼はこれを自然の法則として受け入れていました。そして、スカドゥッカというものをただ受け入れるだけでなく、それらの本質を理解することによって、乗り越えることが可能であることも知っていました。そのため、「普通の苦しみ」に直面しても、ブッダはそれに動揺することはなかったのです。
 
 重要なのは二番目の「特殊な苦しみ」のほうです。私たちは病気になると、病院へ行って、注射をしてもらうことがありますね。注射をするとき、針が皮膚に刺さると、多少の痛みを感じます。ですが、これはごく普通のことです。そして針を抜くと、その痛みは消えます。これは「普通の苦しみ」です。特に問題にするようなものではありません。それに対して、「特殊な苦しみ」とは、現象への執着(upādāna)から生じるものです。これは、毒の入った注射器で注射をするようなものです。その際生じる痛みは、ただ痛いということにとどまらず、私たちを死に至らしめます。現象への執着(upādāna)から生じる苦しみとは、それほど恐ろしいものなのです。
 
「あらゆる現象は無常アニッチャである」ということを知らないと、邪見を抱いて生きていくことになります。諸行(あらゆる現象)とは、輪廻サンサーラの世界のことです。「物事が変わってほしくない」と考えるなら、私たちの人生は苦しみに満ちたものとなります。「この身体は自分自身である」「この身体は私のものである」などと考えるようになると、自分の身体が変化するのを見ることが怖くなります。呼吸を想像してみてください。息を吸ったまま、吐かないでいられますか? 息を吸ったら、必ず吐かなければならないのです。そうしてはじめて、また新たに息を吸うことができるのです。それが自然の法則というものです。この法則に沿って、私たちは生きていきます。これが現象サンカーラの真の姿ですが、私たちはそのことを理解していないのです。
 
 日々の生活の中で、何かを失ったとしましょう。もし、その失ったものが、自分の「所有物」であると考えるのなら、そのことによって、私たちは思い悩むことになります。「何かが失われることは、自然の法則である」と受け入れられなければ、私たちは苦しむことになります。よく考えてみてください。息を吸ったまま、吐かないでいることなどできるでしょうか? あらゆる現象は、常に変化しなければならないのです。そのことを理解することが、無常アニッチャというダンマを理解することなのです。常に変化するからこそ、私たちは生きていけるのです。こうした真理が理解できれば、私たちは現象に執着することなく、それを手放すことができるようになるでしょう。
 
 ダンマを学ぶとは、苦しみドゥッカが生じないようにするために、現象の真の姿を理解することです。もし、間違った考え方をするのなら、私たちは自然の法則(ダンマ)と対立することになります。病気に罹り、入院した場合を想像してみてください。大抵の人は、
「死にたくない。病気を治したい」
と考えますよね。でも、それは間違った考えです。そうした考えは、苦しみドゥッカを生み出すだけです。そうではなく、
「死ぬときは死ぬ。治るときは治る」
と考えるのが、正しい考え(正見)なのです。なぜなら、私たちには、自分の健康状態を望むようにコントロールする力など無いのですから。そのように考えることができれば、死のうが生きようが、何も心配はいりません。
「何が何でもよくなりたい」
「死ぬことは恐ろしい」
こうした考えは、現象サンカーラを正しく理解していないことによって生じます。そうではなく、
「良くなったらなったでいいし、良くならなくても構わない」
と考えるべきです。そうすれば、間違った行動をとることもないし、恐怖に泣き叫んだりすることもありません。なぜなら、そのとき、私たちは自然の法則に則った生き方をしているのですから。
 
 ブッダはこのことを、完全に理解していました。ブッダの教えは常に正しく、決して時代遅れになるということはありません。ですから、現代社会においても、ブッダの教えは有効なのです。ブッダの教えを学ぶことによって、私たちの心は平安になり、幸福に生きることができます。
 
 仏教には、無我アナッターという教えがあります。「自己」という概念への執着を断ち切るためにも、無我アナッターについて学んでください。私たちが人生において苦しむのは、「自己」という概念に執着しているためです。このことを、よく覚えておいてください。
 
 今日、一人の女性がお寺にやって来て、怒りへの対処法について、私に質問をしました。そこで、私は彼女に、
「今度怒ったら、目覚まし時計をセットして、目の前に置きなさい。そして、怒りが消えるまで二時間待ってみなさい」
と言いました。もし、私たちが自分の感情を思うようにコントロールできるのなら、怒りに対して、
「二時間以内に消えろ!」
と命令することもできます。しかし、私たちの感情というものはコントロール不能なものですから、そうした命令は不可能です。結局、怒りは二時間経っても消えないかもしれませんし、一時間もすれば消えてしまうかもしれません。予想はできないのです。怒りという感情を「自分のもの」と錯覚し、握りしめれば、苦しみドゥッカを引き起こします。もし、怒りの感情が本当に私たちの所有物であるのなら、それはコントロール可能なものであるはずです。自分がコントロールできないのなら、「自分のもの」とは言えませんよね? どうか、こうした錯覚に騙されないようにしてください。嬉しいときも、悲しいときも、その感情と一体化したり、「自分のもの」と思わないようにしてください。好きという感情も、嫌いという感情も、私たちの所有物ではありません。一過性の現象サンカーラです。
 
 この中に怒ったことがある人はいますか? 怒ったとき、いい気持ちがしましたか? それとも、嫌な気持ちになりましたか? 嫌な気持ちになったのなら、なぜそうした感情を握りしめるのでしょうか? そのような感情に執着し、握りしめるような人は、賢い人間とは言えません。生まれてこのかた、いったいどれほど怒りの感情に振り回されてきたのですか? 怒りドーサの感情は、家族全員を諍いに巻き込み、大喧嘩をさせることさえあります。それにも関わらず、私たちは怒りドーサの感情に執着し、それを握りしめ、その結果として苦しんでいます。この怒りドーサの感情に気づくサティことができなければ、私たちはいつまでも苦しみ続けることになります。それが、輪廻サンサーラの世界の真実です。ですが、こうしたからくりを知れば、私たちは輪廻を乗り越えることができるのです。
 
 ブッダは、何があっても、
「これは『私』ではない」
「これは『私のもの』ではない」
と観察することこそが、苦しみドゥッカを超越するための最高の修行法であると説きました。けれども、私たちは普段、こうしたことを実践しません。苦しみドゥッカが生じても、私たちはそこから何も学ばず、ただ泣くのみです。私たちに必要なのは、泣くことではなく、現象を正しく観察し、知る者ブッドーを自らの内に育てることなのです。
 
 皆さんの中には、こうした話がダンマの教えであることを知らない人もいるかもしれません。今日は、経典に書かれていないダンマの教えについて語りましょう。ですから、注意をして聴いてください。ほとんどの人は、経典を読んでも、ダンマそのものを観ようとはしません。ですから、今日は経典に書かれていないダンマを説こうと思います。理解できない人もいるかもしれませんが、どうかご容赦いただければと思います。
 
 二人の人が一緒に歩いていて、アヒルとニワトリを見かけたとしましょう。そのうちの一人が、こう言いました。
「どうしてあのニワトリは、アヒルのようになれないのだろう? どうしてアヒルは、ニワトリのようになれないのだろう?」
彼はニワトリをアヒルに、アヒルをニワトリに変化させることを望んでいるのです。そんなことは可能でしょうか? いいえ、不可能です。彼がもし、アヒルがニワトリに、ニワトリがアヒルになることを願ったとしても、それは一生叶うことはありません。なぜなら、ニワトリはニワトリであり、アヒルはアヒルだからです。ですから、そうした考えに執着する限り、彼は一生苦しむことになるでしょう。もう一人の人は、
「ニワトリはニワトリで、アヒルはアヒルだ」
と考えています。この場合、何の問題も生じることはありません。彼は物事を正しく見ていると言えます。アヒルをニワトリに、ニワトリをアヒルにしたいと願うとき、私たちは心の底から苦しむことなるのです。
 
 仏教では、あらゆる現象は無常アニッチャであるとされます。もし、あなたが、その無常という自然の法則に抗い、何かを永続させようとすれば、苦しむことになります。人生の中で、無常アニッチャに直面するたびに、あなたは失望することになるのです。無常アニッチャを受け入れる人は、心に葛藤を抱くことはなく、いつも安らいでいます。反対に、物事が変化しないことを望む人は、常に葛藤を抱き、眠れない夜を過ごすことになるでしょう。無常アニッチャを理解しないことは、大変危険なことなのです。
 
 では、ダンマを理解するには、私たちはどうすればいいのでしょうか? ダンマは、本の中にはありません。私たちの心と身体を観察する以外に、ダンマを理解する方法はありません。観察すべき対象は、心と身体の2つのみです。ただし、心は肉眼では観察できませんから、「心の眼」でもって見る必要があります。同様に、身体を観察する場合も、私たちの心によって、身体を観察します。私たちの心と身体以外の場所で、ダンマを見つけることはきません。なぜなら、スカの感覚もドゥッカの感覚も、私たちの心と身体の中で生じるものなのですから。森の木々の中から、スカの感覚が生じるのを見たことがありますか? 川や天気から、スカの感覚が生じるのを見たことがありますか? そう、スカドゥッカという感覚は、常に私たち自身の心と身体に生じるものなのです。
 
 ですからブッダは、「今、ここ」でダンマを観察するようにと説いたのです。ダンマは私たちの心と身体に生じるものですから、どこか他の場所に行って、観察をする必要はないのです。一部の瞑想指導者は、ダンマを学びたいなら、本を読みなさいと言います。ですが、あなたがいくら本を読んでも、そこに真のダンマを見出すことはできないでしょう。仏教に関する本を読むのなら、読んだあとに、自分でもその教えを実践して、確認してみなければなりません。そのようにするのなら、ダンマを理解することができます。本当のダンマというものは、私たちの心と身体に存在します。これが、ヴィパッサナー瞑想の本質です。
 
 自分の心と身体を観察すれば、心に智慧パンニャが生じます。心に智慧パンニャがあれば、自分が体験するどんな出来事の中にも、ダンマを見ることができます。言い換えるなら、あらゆる物事の中に、無常アニッチャドゥッカ無我アナッターという真理を見出すことができるようになる、ということです。無常アニッチャとは、あらゆるものは常に変化するということを意味します。そして、常に変化をするものに執着すれば、苦しむドゥッカことになります。なぜなら、それらは私たちの思った通りには、決して変化しないからです。それにもかかわらず、私たちは、それらを「私」であるとか「私のもの」であると考え、執着するのです。
 
 これは、世間の多くの人々が、世俗諦を理解していないために起こることです。私たちは、世俗諦を理解しなくてはなりません。例えば、今、ここで話を聴いている皆さんは、自分の名前を持っていますよね。この名前というものは、生まれつきのものですか? それとも、生まれた後、付けられたものですか? 生まれた後に、付けられたものですよね。ですから、名前というものは世俗諦です。世俗諦は、私たちが社会生活を送るにあたって、有用なものです。例えば、A、B、C、Dという4人の男性がいるとしましょう。この場合、コミュニケーションや共同作業の便宜を図るため、全員が個別の名前を持っている必要があります。名前を付けておけば、Aさんと話したいときは、「Aさん」と呼べば他の人ではなく、確実に彼が来ます。これが世俗諦の便利なところです。しかし、より深く現象を観察してみれば、そこには本当は誰も存在していないことが分かるでしょう。勝義諦の観点から見れば、そこには地、水、火、風という4つの要素しかありません。私たちの身体は、この4つの要素によって構成されているのです。
 
 それにもかかわらず、「私」という概念に強く執着する(attavādupādāna)ため、私たちは自分の身体が地、水、火、風という4つの要素から出来ているという事実を、受け入れることができません。ですが、現象を明晰に観察すれば、世間で「私」と呼ばれている観念には、実体が無いことが分かるでしょう。私たちの身体の固い部分は地の要素、液体の部分は水の要素、熱を供給する部分は火の要素から出来ています。私たちの身体を分解してみると、そこには地、水、火、風という4つの要素しか存在しません。「私」などというものは、どこを探しても存在しないのです。
 
 だからこそブッダは、現象を観察し、「これは『私』ではない」「これは『私のもの』ではない」と気づくこと以上の修行は無い、と説いたのです。「私」や「私のもの」といった概念は、世俗諦に過ぎません。この事実を明確に理解すれば、私たちは心の平安を得ることができます。今すぐ無常アニッチャという真理を受け入れ、あらゆる現象は「私」でも「私のもの」でもないということを理解すれば、何を失っても、私たちは平穏でいられます。実際のところ、あらゆる現象は、地、水、火、風という4つの要素が一時的に集まったものに過ぎないのですから。
 
 確かに、このことを理解するのは難しいですが、不可能というわけではありません。無我アナッターが理解できれば、私たちの心は安定し、ローバ怒りドーサ無知モーハといった感情に振り回されることが少なくなります。心の中に、常にダンマがあるようになるのです。そうなれば、嫉妬や恨みといった感情とは無縁でいられます。なぜなら、私たちは誰もが単に、地、水、火、風という4つの要素が一時的に集まったものに過ぎないのですから。それ以上のものは、何もありません。この真理を理解すれば、ブッダの教えの核心が理解できるでしょう。
 
 無常アニッチャ無我アナッターといった、ブッダが説いた真理を理解することができるのなら、何人もの瞑想指導者の道場を、渡り歩く必要はありません。瞑想指導者の法話を、毎日聴く必要もありません。真理を理解したのなら、あとは必要なことを実践するのみです。それにもかかわらず、多くの修行者の瞑想が上達しないのは、彼らが教えを受け入れず、指導者に対して論争を挑んだりするからです。瞑想指導者が目の前にいるときは、いくらか大人しくしていますが、ちょっと指導者が目を離すと、途端に泥棒のような振る舞いをします! 他人に瞑想を教えるのは、本当に大変です。タイ人はこんな性格だから、これほどたくさんの瞑想指導者がタイにはいるのでしょうね。
 
 注意深くなければ、ダンマを理解することはできません。指導者の教えを注意深く聴き、よく咀嚼することです。この花はきれいですか? この花の中にある、醜さが見えますか? この花は、何日間その美しさを保つことができるでしょうか? 数日後、この花はどうなるでしょうか? なぜ、花は変化するのでしょうか? 3、4日もすれば、花は枯れ、捨てることになります。花の美しさが失われたから、捨てるのです。私たちは美に執着します。何かを見て、「いいな」と思ったら、その虜になってしまうのです。ブッダは、何か美しいものを見ても、ただ「きれいだな」とだけ確認して、執着しないようにと説きました。日々の生活の中で、何か好ましい体験をしても、それに執着してはいけません。何かを見て、「美しいな」とか「いいな」と思っても、それは永続するものではありません。この世には、確かなものなど何も無いのです。受け入れがたいかもしれませんが、それが真実です。「美しさ」に限らず、あらゆる現象というものは、常に変化をするものです。あらゆるものは、常に変化をするということが、真理なのです。もし、何かを見て美しいと思っても、その美しさが衰えたら、私たちの心の中の「美しい」と感じる感情が消えます。もし、何かを見て「いいものだ」と感じても、状況が変われば、私たちの心の中の「いいものだ」と感じる感情が消えます。また、自分が「いいものだ」と思っているものが、壊されたり、傷つけられたりすると、私たちは苦しみます。ブッダは、それらのものは、一時的にこの世に生じた現象に過ぎないと説きました。花の持つ「美しさ」は一時的に生じ、何日も経たずに消え去っていきます。こうしたことを観察することによって、私たちの智慧パンニャは育っていくのです。
 
 ですから、私たちは無常アニッチャを観察するべきなのです。何かを見て「きれいだ」と思っても、「そうではない」と自分に言い聞かせるべきです。反対に、何かを見て「醜いな」と思っても、「そうではない」と自分に言い聞かせる必要があります。常に、物事をそのように見るようにしてください。そうすれば、現象の中に真理を見出し、不確かなものの中に確かなものを見いだすことができるでしょう。
 
 今日、私は「苦」と「苦の原因」と「苦の滅」と「苦を滅するための道」の四つから成る、四聖諦について解説をしました。苦しみドゥッカを理解したのなら、私たちはそれを手放すべきです。苦しみドゥッカの原因を知り、それを手放すのです。苦を滅するために、修行に励みなさい。現象の中に、無常アニッチャドゥッカ無我アナッターを観察すれば、自然と苦しみドゥッカは消滅していくことでしょう。
 
 苦しみドゥッカが消滅したとき、私たちに何が起こるのでしょうか? 私たちは、何のために修行をしているのでしょうか? 私たちは、何かを手に入れるためではなく、手放すために修行をしているのです。今日の午後、一人の女性が私に面会をしにやって来て、「自分は苦しんでいる」と訴えました。そこで私は、彼女にどうしたいのかを尋ねました。すると、彼女は「悟りを開きたい」と言いました。私は彼女に、
「悟りを開きたいと思っている限り、おまえさんは悟りを開くことはできない。仏道修行では、何も求めないことが大切なんじゃ」
と答えました。
 
 苦しみドゥッカという真理を理解したとき、私たちは苦しみドゥッカを手放せるようになります。苦しみドゥッカの原因を知れば、もうそのような原因を作る行為は止めるでしょう。そして、代わりに苦しみドゥッカを滅するための修行を始めるのです。苦しみドゥッカを滅するための修行とは、
「これは『自己』ではない」
「これは『私』でも『彼ら』でもない」
と物事を観察することです。そのように現象を観察すれば、苦しみドゥッカは消滅します。私たちは目的地に到着したら、自然と歩みを止めますよね。それと同じです。これが「苦しみの滅」です。それは涅槃ニッバーナへと近づくことを意味します。別の言い方をするなら、前に進むのも、後退するのも、立ち止まっていることも、どれも苦しみドゥッカなのです。では、前進も、後退も、立ち止まることもしなければ、どうなるのでしょうか? そのとき、何が残るのでしょうか? そこに至ったとき、私たちのナーマ身体ルーパの活動は停止するのです。これが「苦しみの滅」です。理解するのが難しいですか? 今は難しく感じるかもしれませんが、皆さんが熱心に弛まず修行を続けるなら、やがて現象を超越し、この教えを理解できるようになるでしょう。そのとき、皆さんの苦しみドゥッカは消滅するのです。これがブッダの究極の教えであり、修行の終着点です。ブッダの教えのゴールは、あらゆることを手放すことにあるのです。
 
 今日の法話で、私が何か間違ったことを言ったのなら、どうかお許しください。ですが、性急に判断をすることは避けてください。まずは、虚心坦懐に話を聴いてみてほしいのです。例えば、私が皆さんに、
「この果物はおいしいですよ」
と言っても、その言葉を鵜吞みにしてはいけません。まだ、実際に食べていないのですからね。今日、私が語った法話も、それと同じです。もし、その果物が甘いのか、酸っぱいのかを知りたければ、手に取って味見をしてみることです。そうすれば、甘いのか、酸っぱいのかが分かるでしょう。そうして初めて、私の言っていることが正しいのどうか、分かるのです。ですから、今日、私が皆さんに語った法話という「果物」を、捨てずに家に持ち帰り、自分自身で味わい、その味を知ってほしいのです。
 
 ブッダには、師はいませんでした。あるとき、一人の行者がブッダに、
「あなたの師匠は誰ですか?」
と尋ねると、ブッダは、
「私には師はいない」
と答えました。行者はただ頭を振り、その場を立ち去っていきました。ブッダはとても正直な方でした。ですから、真理を理解することも、受け入れることもできない人に対しても、ブッダは常に真実を語ったのです。私が皆さんに、私の言うことを鵜吞みにしないでくださいと言ったのは、ブッダが、
「自分で理解をしていないのに、他人をやみくもに信じるのは、愚かである」
と説いたからです。これが、ブッダが
「私には師はいない」
と言った理由なのです。これは事実です。しかし、この言葉は慎重に受け止める必要があります。このブッダの言葉を、誤解して受け止めないように注意してください。この言葉を誤解して理解すると、自分の師に対する敬意が揺らぐことになってしまいます。ですから、皆さんは不注意に
「私には師はいない」
などと言わないようにしてください。何が正しく、何が間違っているのかを教えてくれる師匠を頼りにし、その言葉に従って、瞑想実践を進めていくのです。
 
 今日は、ここに居る全員にとって、幸運な日です。皆さんとお会いできる機会を持て、嬉しく思います。普段、私たちは近所に住んでいませんから、滅多に会うことはできません。今日、こうして会うことができたのは、何か特別な縁があったからに違いありません。ブッダは、生じるものにはすべて原因があるはずだと説きました。このことを忘れないようにしてください。私たちが出会ったのには、何か必ず原因があったはずなのです。もしかすると、前世で私たちは家族だったのかもしれません。その可能性はあります。今日、ここに別の瞑想指導者が来る可能性もあったのに、実際に来たのは私だったのですから。そして、私たちは今、この瞬間にも、新しい原因を作り続けているのです。
 
 今日お話ししたことは、私から皆さんへの贈り物です。真剣に修行に取り組んでください。私たちの人生において、ダンマの実践に勝るものはありません。ダンマとは、私たちが生きる全世界を根本から支えているものです。現代社会の人々が混乱しているように見えるのは、ダンマを知らないからです。ダンマと共にあるのなら、私たちは満ち足りているはずです。今日の私の法話が、皆さんのダンマの実践の助けになれば、嬉しく思います。皆さん、どうかお元気で。私は、明日ここを発ちます。次に、どこへ行くかは分かりません。来るものがあれば、去るものもある。これが自然の法則です。それが世間ローカというものです。どうか皆さんは、世間ローカの変化に一喜一憂しないようにしてください。スカな出来事が生じても、やがてドゥッカに転じます。逆にドゥッカな出来事が生じても、やがてスカに転じます。得な出来事があっても、次には損な出来事が起きたりします。逆に損な出来事があっても、その後に得な出来事に出会ったりします。このように世間ローカとは、変化の連続なのです。
 
 ブッダの在世時、一部の弟子たちはブッダの存在を疎ましく思っていました。ブッダは自分の弟子たちに、勤勉であること、不放逸アッパマーダであることを求めました。そのため、怠け者の弟子たちは、ブッダを恐れ、嫌っていたのです。ブッダが般涅槃したとき、一部の弟子たちは自分たちを導いてくれる存在がいなくなったことを知り、嘆き悲しみました。別のグループの弟子たちは、自分たちを叱る存在がいなくなったと考えて喜び、安堵しました。第3のグループの弟子たちは、平静を保っていました。彼らは、生じたものは必ず滅するのだと、理解していたのです。皆さんは、この三種類の弟子たちのグループのうち、どれに入りますか? ブッダが亡くなったことを、喜ぶグループに入りたいですか? ブッダが亡くなったとき、嘆き悲しんだ弟子たちは、まだ悟っていませんでした。ブッダが亡くなったことを喜んだ弟子たちは、普段からブッダに対して不満を抱いていた人々です。ブッダはいつも、彼らのやりたがることを禁じていましたから。彼らはいつも、ブッダに叱責されることを恐れて生きていました。ですから、ブッダが亡くなると、安心したのです。
 
 今日でも、こうした状況はあまり変わりません。皆さんの中にも、自分の瞑想指導者を嫌っている人がいるかもしれません。表面に態度としてあらわす人はいないかもしれませんが、心の中でそう感じている可能性はあります。煩悩がまだ残っている人が、そうした感情を抱くのは普通のことです。ブッダでさえ、一部の人々からは憎まれていたのです。私にも、私のことを嫌っている弟子たちがいます。私は彼らに悪行為をすることをやめるように言いますが、彼らは悪行為をすることが大好きなのです。ですから、必然的に私は彼らから嫌われることになります。そのような弟子は多いです。今日、この話を聴いている皆さんは聡明な方々でしょうから、しっかりとダンマを実践してくれることを期待いたします。
 
【注】
*1 1992年現在、ワット・パー・ポンの分院は、大小合わせて約100程度ある。

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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星 飛雄馬
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