短編小説「湯船で見た夢」
これはわたしが体験した不思議な出来事について話そうと思います。
ある日の夜のこと。
わたしは仕事帰りで、心身共に疲弊していて、おまけに紙で指を怪我をした。
そんな日だった。
自宅までの道のりがいつものように遠く感じた日。
少しの勾配があれば辛いなと愚痴を溢した日。
到着しては家の鍵を探すのに手間取る日。
そんな日だった。
玄関を開ければ、足の踏み場も見えない真っ暗な闇で、上がり框に足の指をぶつけては荷物を落とす日。
手を洗おうと蛇口を捻れば、シンクのコップが水を跳ね返す日。
冷蔵庫を開けて物を仕舞おうとしたら、チューハイが雪崩れてくる日。
そんな日だった。
脳のスイッチが急に切れて、今日はどうでもよくなって、色んなものを放っておいて。
「お風呂にでも入ろうかあ……」
こんな独り言を言う始末。
本当に今日は、そんな日だった。
湯を張り終えるまでは、現実からは逃げられない。
手の指の絆創膏を剥がして、目の周りを揉む。
足の爪が割れていないか確認して、足首からふくらはぎを揉む。
濡れてしまった床を拭き、服を乾かし、冷蔵庫を整理する。
そんなころにはお風呂のアラームが鳴る。
服を脱ぎ、椅子に掛ける。下着を放る。
そのまま浴室までバスタオル一つを肩に掛けて。
戸を開ければ、湿気た空気がわたしを襲った。
髪の毛が重くなり、肌は居心地の悪さをわたしに伝える。
何も考えずに、わたしは湯船に体を投げた。
シャワーを浴びるより先に、わたしの衝動がわたしを突き動かした。
髪の毛が湯に浸かろうが、この際は気にしない。気にしたら負けだと思う。
肌に染み入る湯の熱は、手の指の怪我とぶつけた足の指をじわじわと甚振る。血はもう出ていないけれど、湯はしっかりと痛みを思い出させる。
熱された血液は、体を循環し、全身を温める。
飽和した水蒸気が、視界を、ぼやけさせ、集中力を、削いでくれる。
浴槽の縁に、頭を預ければ、暖色の、蛍光灯が、わたしの、瞼、を重く、する。
――――――――――――――――
月が、綺麗だなあ。
わたしは船に乗っていて、夜の海原を漂っている。
不安を感じる程の小さな木造の和船にわたしは乗っている。
満月が綺麗で、とても明るくて、周りの星が見えないほどに。
波は穏やかで、ギリギリ凪とは言えないくらいの緩やかな波が、わたしを揺らしてくれる。とても幸せな気分。
さっきまではお風呂に入っていた記憶がある。けれど服を着ていて、海を見ている。けど、そんな記憶は気のせいかもしれない。だって今は今この時が一番大事なんだから。
水平線に小さな光が見える。赤い光だ。
ゆっくりと揺れるその光は、わたしを呼んでいるように見える。感じた。理解した。そんな気がする。
船の中の櫂、オールを見つけたわたしは、その光の方へと船をゆっくりと漕ぎ進めていった。
跳ねる海水は冷たく無く、暖かくも無い。オールで漕ぐときの抵抗も少なく、その割には良く進む。まるでわたしの筋力が異常に強くなったかのように思える。
わたしは光の下まで、疲れもせず嫌にもならず、気が付くと目の前まで漕ぎ進めていた。
その光は水面より少し上に、灯るように浮かんでいた。大きさは手のひらに収まるほどだ。
近づいても熱くは無く、触ってみてもそれは同様。けれど、暖かいような気がする。暖かくは無いのに。
掴もうと思えば、何の抵抗も無く掴める。けれど触感は無く、空間を切り取って、手の中に収めているような感覚だ。握り込もうとは出来なくて、神経がこれ以上指を曲げられないと言っている気がする。
その光は手を離せば、ひざの上に浮かんで佇んでいる。そしてもう一度掴むこともできる。
何でこの光はわたしを呼んでいたんだろう。この光はわたしに何をして欲しかったんだろう。
わたしは光を軽く握る。
その瞬間、辺りが暗くなる。船上は赤い光があったから反応に少し遅れた。
周りを見渡しても何も見えない。しかし、少し時間がたつと辺りは明るくなった。
そのとき、明るくなって、やっと暗くなった理由が分かった。
――月が消えていたんだ。
わたしは、目の前に起きたことを理解しようとしたが、意味が解らなかった。
月が消える? どういうこと? あの瞬間だけ、新月になったっていうこと?
わたしは月から目が離せなくなった。
赤い光を足元に残して。
月を見ていた。
ずっと見ていた。
瞬きをした。
再び月を見る。
――月が見ていた。
そのまま、文字通り、月が、わたしを、見つめていた。
白い月の、その中央に、黒い瞳孔。
わたしは直感する。見てはいけないものだと。
あれは月ではない。大きな、眼球だ。
小さな、漆黒の瞳孔は、その考察を証明するかのように僅かに動く。
見ていると吸い込まれそうなその瞳孔は、わたしの血流、神経、思考を止める。
恐ろしく、穢らわしく、冒涜的で、威圧的なそれ。
薄橙色に灰色の虹彩がぬらぬらと模様を変え、のたうち回るように蠢いている。その虹彩はゆっくりと大きく拡がり、ゆっくりと小さく狭まる。それは呼吸をするかのように繰り返している。
再び暗くなる。そして明るくなる。
それは、あれが、瞬きをしていたのだと知る。
暗くなったとき、わたしはわたしを思い出す。呼吸を思い出す。力むことを思い出す。思考することを思い出す。
わたしは考える。今はきっと良くない。良くない状況だ。
月をずっと見てはいけない。それだけは解る。
けど、どうすればいいのかわからない。
船が傾く。波も無く突然に。
バランスを崩し座り込むわたしは、どうにか海に落ちないように縁にしがみ付く。
揺れが収まって目を開ける。
そこには、無数の蠢く黒い”それ”、細い触手のような、太い髪の毛のような、”それ”が水面からわたしと船を囲むようにくねりうねっていた。
その毛のような”それ”は、船に張り付き、這いずるように包む。
わたしは後ずさり、出来る限り”それ”から距離を置こうとした。けれど、”それ”は四方八方からわたしに向かって這いずってくる。
わたしはもうこれ以上どうすることも出来なくなってしまった。わたしに残ったこの赤い光を抱き、祈るしかなくなった。
木の軋む音がする。船が壊れるのを感じる。木の弾ける音がする。
船が沈むように、地面が落ちる。
水中は冷たく無く、暖かくも無い。
水底は何も見えず、深海の闇が手を伸ばしているように感じる。
水面に出ようと藻掻いても、一向に水面へと出ない。
動きとは関係なく、どんどんと体は沈んでいく。
赤い光は水中でも輝きを止めず、わたしに何かを訴えている。
わたしは藻掻くことを止め、このまま光に身を委ねることにした。
しばらく沈み続ける。
どちらが上で、どちらが下かわからなくなる。
白い光がある方が上なんだろうか。
赤い光がある方が上なんだろうか。
赤い光が手元にない。
じゃあ赤い光の方に行かなくちゃいけない。そんな気がする。
赤い光が近づいてくる。
水面が見えてきた。やっぱり赤い光の方が上だったんだ。
息が苦しくなる。
水中だったことを思い出す。
水面に出ようと藻掻く。
呼吸が限界に近づく。
漏れ出た空気の気泡が目に映る。
目を閉じて泳ぎに集中する。
水面から手が出る。
「ぷはあぁ!! すうぅ――、はあぁ!!」
何とか水面に出て来れた。無我夢中で呼吸をする。
酸素が脳を動かす。脳が正常な判断が出来そうだと言う。
目を開ければそこは湯船の中だった。暖色の蛍光灯が浴室を照らす。
酸欠で頭がまだくらくらとする中、今いる場所は浴室だとしっかり認識できている。
先ほどまで沈んでいた海とは違い、湯船の湯は暖かい。
わたしが沈んでいたのは湯船の中だったんだろうか。けれど夢にしては生々しく、現実味のある光景だった。あの海、あの光、あの月、あの毛のような何か、全て実際に見て、聞いて、感じて、記憶に刻み込まれたんだろうと思う。夢であってほしいと思うけれども。
わたしはすぐに湯船からでて、シャワーで汗を流し、浴室の隅で体を洗い、この浴室をさっさと後にした。
――――――――――――――――
そこからどうやって眠りについたかは覚えてない。起きたら自分のベットの上にいたので、しっかりと寝れたんだろうとは思う。
目を閉じればあの月が、ありありと思い出せてしまう。
思い出すたびに悪寒がして、足元がぞっとする。
あれから湯を張ることは無くなった。いつか湯船に浸かれる日が来たら良いとは思う。
それと、そのこと以外に変わったことがあった。
――指の怪我、治らない。
――何かが、蠢いているようで。
――目が見えるの。目が。
――赤い、目が。