おとなののみもの

(約2000文字)

 わが家の冷蔵庫には、わけもなく缶ビールが一本必ず冷えている。蒸し暑さを覚える時期になると、私は性懲りもなく、仄かな期待を抱きながら、よく冷えたそれをプシュッと言わせ、おそるおそる唇をつけ、口に含み、そして結局すぐに後悔するのだ。やっぱりまずい。

 私はどうにも、ビールと言う飲み物が苦手だ。お酒が苦手というわけではない。ワインやウイスキーなら少しは飲める。焼酎や日本酒もあるいは。それからあの、きれいな色の抽象画を溶かしたような、カクテルとか言うジュエリーみたいなエモ消費のための飲み物。それを愉しんだ後に頭痛がしなければ、――アルコールが入っていなければ、好いのになと、いつも思っている。やっぱり私はアルコールが嫌いらしい。そんな忌々しいアルコール入り飲料の中でも、特にビールを嫌悪している。あの独特な匂いも味も、何一つ好きになれない。

 私は酒が嫌いだからには、――と言うより私の生来の気質の問題でもあるのだが、――飲み会も苦手だ。飲み会が嫌すぎて大学を辞めたほどだ。「お疲れ」と「レジュメ」まではなんとか許せたが、「呑み行こ」には耐えられなかった。「ワンちゃん」は可愛いと思う。いつもどこにもいないけど。

 酒は古代、預言者が神託を授かるのに用いられたという。その点において、私に酒は必要ない。私は終末 アポカリプスがどのように訪れるのかを知っているからだ。「とりあえずみんなビールでいい!?」というラッパの音を合図に審判は始まる。そのニガヨモギに染まった水を無理に飲んで頭痛に苛まれたくなくば、「あ、私はビールいいです…」と言って白けた視線を集めた業火に身を焼かれるか、ほとんど口をつけずに「あれー?ぜんぜん飲んでないじゃーん(笑)」というダル絡みの裁きを受けるのだ。天国と地獄は同じ場所を示しているのかもしれない。ある者にとっては天国でも、またある者にとっては地獄なのだ。約束された神の国 パライソで永遠のオールだなんて、私には地獄としか思えない。そうして洗礼を受けた皆が子供のようにわちゃわちゃしながら、やにわに瞼をぎゅっとこわばらせて、私が忌み嫌う黄色い液体を、気持ちよさそうにグイグイと飲み干してゆく様子を眺めていると、私はなんだか羨ましくなってきて、子供のころの気持ちを思い出す。

 クリームソーダがこの世でいちばん美味しい飲み物だと思っていた頃、親戚が集まる機会があると、大人たちが こぞっておかわりをねだる飲み物に、私は気もそぞろだった。なめらかな白い クリームを戴いた、暗く透き通った黄色い炭酸飲料 ソーダ、――もちろんビールの事だ。いつもは福沢諭吉のような威厳を湛えた風貌の大叔父も、ビールを前にしては少年のように朗らかな笑みを浮かべて饒舌になる。私は、あの厳しい大叔父を陽気に変貌させる、その飲み物の味に思いを馳せた。――メロンソーダの緑色に代わる、あの深みのある山吹色のソーダはリンゴ味だろうか。バニラアイスの溶け出たそれより透けていてふわふわときめ細かい、あの泡はどんな味がするのだろう。

 私はいつか堪らなくなり、大人の目を盗んで、注がれたままになっているコップに素早く指を突っ込んで、舐めてみた。――思わぬ味に呆気にとられた。匂いも変だ。想像していたような甘くてとろけるような味わいは無く、ほろ苦くてどこか酸っぱい。その想像との落差に顔を しかめていると、一部始終を見ていたのであろう誰かが笑いながら言った。
「大人になったら美味しさが分かるよ」

 (大人になったら分かる、か……)と心の中で反芻した。その言葉が真実だとしたら、私はまだ大人になれないでいる。いい歳して、いまだにビールの美味しさが分からない。飲み会の、酔う事の、生きることの、苦労の、恋愛の、喜びを知らない。あるいは知ろうとしなかったのかもしれない。飲み会が大学生の本業と言われる所以は、精いっぱい背伸びして、知ったかぶりをして、やっと、知らず知らずのうちに大人になれるからだろう。私は背伸びする努力が足りなかったのかもしれない。身長はある方だったから。――でもそれは子供だから何にも生かせなかった。

 記憶と経験の海の波に揉まれて思春期の苦悩が溺れて行っても、アルコールも飲み会もいまだに楽しくない。今はもうクリームソーダを飲むこともないし、ビールの味に幻想も抱かない。それでも、ビールの変わらないマズさが、それを思い出させてくれる。もう少し、あと少しで分かるかもしれない。そう思いながら、私はまた性懲りも無く、缶ビールを一本だけ買ってくる。とりあえず冷蔵庫に入れて置くだけでも映える、お洒落なデザインのやつ。いつか美味しく思える日が来ると信じて。

あとがき
今回はGoose Island; Midway。そのデザインと、キャンディマットターコイズグリーンの色合いが感性に刺さった。どうして人は酒の事となると、こうもエモいデザインを繰り出せるのだろう。今それを飲みながら書いている。相変わらずマズい。

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