死ねなかった子の話
一.
両親に自死された子がいた。それも同時に。彼女は学校に来なくなった。高校一年の事だった。
当時私はその子との接点が無かったので、その事実を知らなかった。彼女と中学が同じだったという友人Tがその事を私に伝えてきて、どうか話を聞いてあげて欲しいという事だった。私は中学の時に病で父を失っていたので、そういう事情には了解があると思われたようだ。かく言う私もそれらにまつわり、日々不眠と無気力と希死念慮に締め上げられつつあったので、その相談には興味を持った。私の内にわだかまる異常な感情を、確かめる機会のように感じたのだ。
中学の時の私は、学校ではいじめに遭っていて、教師達からも煙たがられていたために居場所がなかった。家では介助に追われて常に気は休まらなかった。私は学校から帰るなり、父の容体に気をもんでいた。それは子供が悪戯をするかのように、気まぐれに悪化していった。父は脳幹に腫瘍が多発する難病だった。薬はなく、手術も不可能だったので、在宅だった。要するに「もう病院でできることは無いので、死にそうになったら来てください」という事だ。日々少しづつ苦しみを増しながら死んでいく父に、手をこまねく事しかできない虚しさが募っていった。
日常とはこうも残酷なのか。次第に私は異常な胸の内を抱き始めたが、母には自閉スペクトラムがあってそれには気付きもしなかったし、もとより気合いと根性の人だったので、私がにわかにそれを吐露したところで、ただ激励を増すだけだった。そうした遣り場のない無力感だけが日常を支配していた。
だが父が苦しみ抜いて亡くなった時、私は父がやっと解放されたかのような、晴れやかな感覚を覚えた。暗闇の中に出口を見つけたような気がした。そして生きる事には意味を全く見いだせなくなった。
それでも目下のところは、両親とも障碍者でお金もなかったので、ただなるべく良い公立高校に受かる事だけが、私の精一杯の親孝行かつ人生の目標としてあった。だがそれに入学した今となっては、猛烈な虚無感とその異常な感情だけが取り残されていた。
二.
夏休みに入った日の深夜1時、デイリーヤマザキの前での待ち合わせだった。その窓から漏れる蛍光灯の光が、ぬるくて重たい空気に満たされた夜闇を、透明に四角く切り抜いていた。その空間に幽霊のように忽然と現れた彼女は、地味で、伏せ目がちで、これといって特徴の無いのが特徴のような子だったが、しかしその尋常な風貌からは、巨大な感情に今にも圧壊しそうな、あるいは絶望を何千万トンも溜め込んだダムのような迫力を感じて、私は思わず息を呑んだ。彼女の小さな呼吸の一服ごとに、その身に詰まった暗黒が世界へと流れだしているかのように思えた。
お互いに黙りこくっていた。言葉にできない絶望を確認するような沈黙だった。『沈黙』――前に読んだ遠藤周作の同名の著作が脳裏をよぎった。だが信仰のない私たちにとっては関係がない。これは神のいない沈黙なのだと思った。私たちの沈黙すべき絶望は、言葉にすればたちどころに風化して、その窓際に並ぶ当たり障りのない雑誌の1ページのように消費されていくような気がしていた。
だが私は語らずとも、彼女の絶望の方が一回りも大きい事を内心感じていた。なにせ両親を同時に、しかも自殺で亡くしたとあっては、どんな方法を尽くしたところで、その絶望は私の想像を絶するに決まっている。最後に達する結論が同じでも、その確度の違いは明白に思えた。だから私が抱いているどこか煮え切らない破滅的な感情を、彼女は遥かに強く明確に抱いていると確信して、私はこの子を優先しなくちゃいけない、この純粋な感情を穢してはならないと思った。もはや沈黙の内に、するべきことは決したような気がした。私の知る解決方法はそれしかないし、彼女はそれを確信に変えてくれるだろうという期待すらあった。私は彼女が導いてくれると――、と言うよりそうして欲しいと願って、すがりたかった。
長い沈黙のあと、彼女が先に口を開いた。
「今日は来てくれてありがとう。」
その岩清水の垂れてきたかのような清廉な声と言葉に、私は世界を恨んだ。
その後どうでもいい話だけをした。内容は覚えていないし、事実どうでもよかった。それは殆ど沈黙の余韻に等しかったからだ。昼間は暑かったねとか、どれだけ寝たとか、今どんな本を読んでるのとかいう話を、ただ今を引き延ばす苦しみを紛らわせるかのように、ぽつりぽつりと話した。そういえばその時に読んでいたのが大岡昇平の『野火』だったので、すっかり記憶してしまったその序文、“たとえ死の影の谷を歩もうとも、私は災いを恐れず――”(旧約聖書詩編23:4)を思い出して、死の影と、夜の闇とを重ねて思案していた。
――死は平等だ。人は普通その影におびえ、神と共に歩む意識を持つことで、なんとか谷を抜けることができるのだ。だが私たちはどうだろう、神は無く、ひときわ深い谷の底で影の中に取り残されている。光射す地上と影で隔たれた私たちを唯一繋ぐことができるのは、いずれ必ず来る夜の闇だけだ。――そしてその人類に平等な夜闇の、そのあまりに短く儚い事を、白みはじめた空を横目に、恨めしく思いながら別れた。さようなら。
三.
程なくして彼女は、ベゲタミン120錠をあおって昏睡し、救急搬送された。そのニュースを友人Tから聞いた時、私はあまり驚かなかった。いまがその時になっただけで、いずれそうなるのを知っていた事のように思ったからだ。それどころか父が死んだ時の様な、解放された晴れやかな気持ちに似た感情をすらまた抱いていた。彼女がついに順番を私に回して、疑念を確信へと変え、道を指し示してくれたかのように感じた。いつでも飛び立てる羽を得たかのように、心は軽やかだった。にもかかわらず友人はひどく悲痛な面持ちをしていたので、私は少し申し訳なく思った。
数日後、私は彼女の入院する病院を訪れた。“普通とは違う意味で”、彼女の容体が気がかりだったからだ。夜だったので人気は少なく静かだった。集中治療室で見つけた彼女は、無数の管に繋がれて、黄疸してむくんだ顔が薄暗く蛍光灯に照らされ、なんだか気持ち悪かった。それは衰弱した父の死に際とは、似て非なる感じに見えた。強いて言うならベクトルの違いだ。蓋然死に向かう父のそれとは違うベクトルを感じた。私は複雑な不安を覚えていた。あるいは不信感のようなものだったとも思う。反発する磁石のように、極性を合わせれば上手く重なり合わない現実に、ひどくむしゃくしゃした。それから彼女自身に対してもそうだ。あれほど確信をもって、それしか道が無かったはずなのに、どうしてもそれに抗う力を感じてしまう。生と死の拮抗する音――薄暗い病室に響き渡る、バイタルサインの単調なリズムと、いろいろな装置が唸る音が、だんだんと煩く感じられてきて、たまらなくなって病室を飛び出した。そして彼女に「どうか死んで、はやく死んで私に確かめさせてよ!」と心の中で、ついに不埒でグロテスクな感情をあらわにして泣いてすがった。
それから1週間ほどして、彼女は目を覚ました。あの状態からの回復は奇跡的だという。私はそれも薄々果然に感じたが、何か全てがどんよりとして、“『蜘蛛の糸』”が途切れたような、途方もない感じがした。友人Tはすぐに会いに行こうと言ってきたが、私はどんな顔をして会えばいいのか分からず、なんやかんや理由をつけて断った。彼女の方からもとくに何も言ってこなかった。次があるかもしれないとも思ったが、それをどう捉えるべきかにも混迷していた。しばらくして退院した彼女は、聞きづてによると地元の不良グループとつるんでいるらしかった。毎日のように酒や煙草をのんでは夜遊びをする荒んだ日々を送っているらしい。まるで思いつく限りの自分に悪い事をすべてやっているかのようだと思い、その様子に少し太宰治を彷彿として、彼女もまた混迷の中にいるような気がした。
四.
その後初めて彼女と顔を合わせたのは、冬休みに入ってからの事。彼女の住む祖母の家に呼ばれた時だった。低く差し込むきりりとした冬晴れの日差しの中、久しぶりに目にした彼女の風貌は、上下灰色のだぼついたスウェットの上からでも一目で分かるほどに、ODの後遺症なのか不健康そうな肉がついて、以前からは想像がつかないほどの貫禄が出ていた。芸人の<まちゃまちゃ>に少し似ているなと思った。
「よう、死に損ない」
酒とたばこで焼けたのか粒子の粗くなったその声に、清水のようなかつての印象は無かった。友人への歓迎の笑顔でもなく、また嫌悪の不愛想でもない、その神妙な面持ちから発せられたそれに、私は心の内をすべて見透かされたような気がして凍り付いた。あの日彼女に泣き縋った「どうか死んで―」という言葉が、心臓を貫いて口から飛び出しそうになった。だがすんでのところで、彼女はニヤッと笑って踵を返して、私を招き入れた。
彼女の部屋は一軒家の二階だった。家の古さもあってか、年頃の女子のそれとは思えない、華やかさや可愛げのない、無骨ささえ感じる地味なそのインテリアからは、かつての彼女から感じた慎ましやかな寂寞を垣間見た。しかしその上に築かれた、灰皿が見えなくなるほどに積もった吸い殻と灰、至る所に散らばったチューハイの缶、空になった薬のPTPシートの山……、――それらはまるで退廃的な暮らしぶりの中年のそれを思わせる有様だったが、“惰性的な生”を感じさせない不思議さがあった(たぶん壁紙の黄ばみとか、そういう積もる年季が無かったせいだと思う)。吸い殻の山の前にあるパソコンで、最近は2ちゃんねるにクソスレを立てて過ごしているという。窓からの写真をうp(アップロード)したら、特定されかけて焦ったとか言っていた。相変わらずどうでもいい話で何かを紛らわせている事に変わりは無いようだったが、もはやするべき事も無いような、まさにその日の高く澄んだ青空を思わせる、空疎な開放感を感じた。
うっすらと埃の溜まった小さな本棚に目をやると、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』が上に積まれているのが目についた。彼女はそれについて「何の役にも立たなかった」と苛立たしげに言い放った。
それから私が、煙草の灰のちりばむ机の上に、無造作に置かれた共産党議員の名刺をみつけて、それを物珍しげ眺めていると、彼女は口を開いた。
「ソイツ大嫌い。所詮はデカい組織のツラ借りてるだけのくせに、いかにも“私は親切な良い人”ですって態度でさ、隙あらばなんか青年部?だかに入れさせようとしてきて、マジでキモい。だけどソイツがいないと、ナマポ(生活保護)貰えないんだよね、家あるから。ムカつくけど、ソイツが来るとさ、役所も態度をコロッと変えて何でもすんなり通すの、マジでありえん。でも役所のカネで生きてるようなもんだし、全部しゃーない。ウチはばあちゃんしかいないからさ、母子家庭扶助も貰えんのよ。父親もいないのにさ、おかしな話ばっかりだよね」
彼女が息巻いて話す傍ら、私は何やら階下が騒がしい気がした。すぐに彼女もそれに気づいて押し黙ると、彼女の祖母が何者かと諍うような声がしていることが分かった。すかさず彼女は部屋から飛び出していく。私もそれを追うと、その彼女の背中と階段越しに見下ろす玄関には、安っぽいスーツを着た今どき珍しい若い訪問販売員が居座っているが見えた。彼女に気づいた彼は一瞬、何か一言かましてやろうというような素振りを見せたが、それがたちまち吃驚と畏怖の入り混じった表情に変化するのを見て、背中越しの彼女にどんな剣幕が宿っていたのか、なんとなく想像する事が出来た。
「ゴルァ!てめえどこのもんだ、出てけつってんだろ!」
廊下に立てかけてあった木刀を引っ掴んて詰め寄る彼女がそんなようなことを言い終わるか否かのうちに、そいつは大慌てで資料を黒い書類カバンに乱暴に突っ込んで、文字通り逃げるように飛び出していった。私もその迫力には腰を抜かしそうになった。
気づけば冬至を過ぎたばかりのその日の太陽は既に沈みかけて、空は深い紫に染まっていた。夜の冷え込みが強くなる前に、私も帰る事にした。
帰りのバスの中で、私は思った。怒りだ。いまや彼女の中にあるのは、遣り場のない怒りだ。今日は最初から、すべて怒りの代償行為だったのだ。いま彼女の全身から感じるのは、ドス黒い絶望ではなく、溢れんばかりの真っ赤な怒りだ。生きることに対する怒り。それもまた、私の想像を絶する感情に決まっていた。
それからこうも思った。私は彼女に縋ったのだから、彼女が生きている限り、私の順番はまだだ。私には権利がない。それは当然の帰結だ、彼女もそう思っているに違いない。だからもしもその順番を破ったら、彼女はその溢れんばかりの怒りをすべて私に向けて……、たとえばそうだ、私の葬式やら家やら、とにかくすべてを滅茶苦茶に破壊しに来るはずだ。まるでゴジラみたいに。
でもそれが恐ろしかったというわけではない。いつのまにか私は自分自身ではなく、彼女の死を願っていた事が後ろめたかった。死ねなかったのは彼女なのか私なのか。今日最初に聞いた「よう、死に損ない」という言葉は、心臓に刺さったままだった。
五.
その後は素行の悪さについて行けず、次第に彼女とは疎遠になっていった。だがまだ生きている。二度目も無い。
彼女の絶望については、自殺した両親についてどう考えていたのかとか、死についてどう思ったとか、いまだに具体的に話したことは無い。あの日の沈黙で全てを語ったので、その必要も感じていない。ただその後に起きた事、――昏睡から覚めた時の事については、一言だけ語ってくれた。「ああ、まだ生きてた」と思ったと。その言葉の真意は今もよく分からない。多分いっぺん死んでみないと分からないのだろう。だが言葉通りに受け取るとしたら、私にもそう思う時がある。
もう会う事はほとんど無いが、彼女からは時々、――今では年に一度あるかないかの頻度にはなったが、連絡が来た。
「生きてる?」「生きてるよ」
いつもそれくらいの、簡単な確認だけだ。その時に私も“ああ、まだ生きてた”と思う。それは私に思い出させる。――私たちの順番を、彼女の怒りを、私の縋った死を、共に歩んでいる谷を。――そのために訊いてくるのだ。これは一種の脅迫だ。私にも“ああ、まだ生きてた”と思わせるための。私はそう思っている。
今では異常な情動は無い。死についての考え方もだいぶ変わった気がする。
いつかこの脅迫が止んだとき、私たちはどうなっているのだろうか。
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