母親という呪い
2020年7月に公開された「MOTHER」を見た。
主演長澤まさみ。言わずと知れた演技派女優、その息子を演じたのは本作がスクリーンデビューという奥平大兼。
様々な愛のカタチを描く作品はこの世に星の数ほどあるが、わたしは家族愛をテーマにしたものについて関心が高い。それはわたし自身が父親の借金、暴力そして離婚というもはや王道(?)とも言えるザ母子家庭で育ち、親という生き物の在り方、主に「母親」について様々な感情を抱いて生きてきたからだと思う。
大好きで、大嫌いで、心から尊敬しつつも「ああはなりたくない」と思わせ、感謝してもしきれないけれどお願いだから死んでくれと願ったことさえある存在。
母親は「聖母か怪物か?」と問いかけられる本作を見て、自分の母について考えた。
家族という呪い
シングルマザーの秋子(=長澤まさみ)はパチンコに明け暮れ、その日暮らしの生活。金がなくなれば小学生の息子・周平を実家へ連れて行き「今回だけだから」と何度でも両親から金をせびる。
でも秋子はそのお金さえ、ゲームセンターで出会ったホストの遼(=阿部サダヲ)と酒を飲み使い果たす。
秋子は元夫の元に周平を向かわせ「修学旅行がある」と嘘をつかせて数千円をせびり、さらにその足で妹の楓の家にも行かせる。
楓は「はぁ?もうこれまで20万以上貸してるんだけど。あのね、まず1円でも返せって言っといて。ふざけんなって言っときな」と言って雨でずぶ濡れの周平を玄関の外に押し返す。
トドメに秋子が遼の子どもを妊娠したかと思えば、案の定それをダシに周平を実家に向かわせお金をせびらせる。
周平が秋子の実家で「お母さん妊娠したっぽい。お金がいる」と言うと、母親の雅子は「嘘ついてお金を巻き上げようとしてんだろ」と言い、発狂したように叫び散らす。
近くの神社で待っている秋子に「ダメだった」と周平が報告すれば、秋子は不貞腐れたように「なんでだよ」と連呼し、周平は健気にも「もう一回行こうか?」と尋ねる。
秋子はそんな周平を呼び止め無言で抱き寄せる。
まるでこの世の胸糞悪いこと全部盛り。
なんて酷い母親だろう、周平はなんて可哀想なんだろう。
そう思うのが当然だと思うが、わたしはそうは思わない。というか、そうとは言い切れない。
小学生の「孫」である周平に対して「そんな子に育てた覚えはない。もう二度と顔を見たくない、親子の縁を切るから」と怒鳴り散らかす母親、そんな様子を見てもただオロオロしている役立たずの父親、罪のない周平にまるで姉を重ねているかのように冷たい言葉をかけて追い返す妹。
そんな家族に囲まれて育ったのが「秋子」なのだ。
秋子だってかつては周平と同じ子どもだった。生まれたときから当然のように、理不尽にそこにある「家族」の中で幼少期を過ごし、成長したのだ。
娘「秋子」と孫「周平」を区別出来ずに一緒くたに責め立てる雅子を見てわかるように、親子、「母親」と「子ども」は同一化して見られることが常なのだ。
「親が親なら子も子ね」とか「この親にしてこの子あり」とかよく耳にするし、誰しも大なり小なり実際に感じたことがあるだろう。
そもそも周平は何も悪くない。
ただたまたま生まれたのが秋子の元だっただけ。
秋子は周平にとっては唯一の母親。確かに周りの母親とは違うけれど、たった1人のお母さん。
その母親が、自分の知る限り全ての親類から責め立てられる姿を見れば「自分は味方でいてあげたい」と思うだろう。
かく言うわたしもそうだった。
「可哀想」という呪い
わたしの母は秋子と違ってパチンコなどはしなかったが、元々お金の管理ができない人だった上に、旦那(わたしの父親)が多額の借金をしていたために家計はいつも火の車だった。
特にわたしが小学生になるまでは悲惨で、元凶である父親は惨めな自分を受け入れられず精一杯の虚勢を張って、目には見えない力を誇示するかのようにわたしや母を怒鳴ったり殴ったりしていたし、母は借金を返しながら5歳(わたし)と3歳(妹)の娘を育てなければならないために水商売をしていた。母は当時27歳だった。
若い頃の母はキレイだった。
子ども心に自分のお母さんが可愛いことは自慢だった。
母は仕事に行く頃になると、化粧をし始める。口紅を塗っているところを見ると「お母さんがもうすぐ行ってしまう」と思い、「帰って来なかったらどうしよう」とどうしようもなく不安だったことを覚えている。
「化粧=出掛ける」とインプットしていたので、昼夜問わず母が化粧し始めるたびに「どこか行くの?」と聞いていた。
それだけ不安だった。
とにかくわたしの世界では母が全てだった。
母はよくわたしを連れて実家に行った。
秋子と同じように(程度の差はあれど)お金を借りに行っていたのだ。
わたしはおじいちゃん子で、おじいちゃんが畑仕事をしている後ろをついて回るのが大好きだった。
わたしの顔を見るとニコニコして可愛がってくれるおじいちゃんは、母にとっては「気難しく怖い父親」だった。
だからこそわたしが一緒だと都合がよかったのだと思う。
お金を借りては親戚から非難され、お盆だか年末だかの集まりのときに「全部わたしが悪いんでしょ!わたしが出ていけばいいんでしょ!」と叫んで飛び出して行ったことも覚えている。
母は10代の頃、典型的なヤンキーだった。
地元で有名な暴走族の総長と付き合っていたというまさに田舎的エピソードを裏付ける写真には、漫画でしか見たことないリーゼントに短ランボンタン姿の男性と一緒にタバコを片手にスケバンルックの母が写っている。
そんな母は、実家にとって汚点だった。
母の実家は「30年以上前」の「九州のド田舎」を象徴するような公務員家系。
でも母は元ヤンで中卒、親の面汚しで、デキ婚したと思ったら旦那は借金まみれで別居状態。
お盆や年末年始の親戚の集まりで、わたしは名前も知らない親戚のおっさんやおばさんたちから「可哀想だね」と言われて育った。
わたしは「可哀想」と言われるたびに悔しかった。わたしは何も可哀想ではない、母はわたしや妹のためにこんなに頑張っている、悪いのは父親であるはずなのにみんななぜ母を責めるのか。
「そうだ、わたしが賢く、褒められるような存在ならばお母さんは見下されないのではないか」と思い、当時5歳のわたしは極めて気丈に振る舞うようになった。
今振り返ってみても、ちょっと引くくらいそれはそれはお利口さんだった。
長女の呪い
映画の中で秋子は周平に「周平だけだからね」と言う。
わたしも「お母さんの話を聞いてくれるのは里沙子だけ」と言われていた。
そんな言葉を真に受け、わたしは5歳にして母の中にある家族の呪いを理解し、その母を支えなければいけないというなんちゃって使命を持っていた。
思えば長女(長男)は当然、母親にとって「初めての子」なのだから期待や思い入れがあって当然だ。
さらに、弟や妹ができるまでは2人で過ごす時間が圧倒的に多いのだから、長女(長男)にとってもお母さんが特別であることも当然ともいえる。
「里沙子だけ」と言った当時の母の気持ちも、なんちゃって使命に燃えた幼いわたしの気持ちも自然な流れだった。
水商売をして明け方に帰ってくる母は、わたしの幼稚園のお迎えバスが来る頃には疲れて寝ていた。
わたしは目覚ましの音で1人で起きて、ベランダに椅子を持って行き、干してある制服を取り込み、自分で着て、キッチンにあるパンを齧って、時間になればバスのお迎えがくる場所に1人で行っていた。
客観的に想像すると何だか涙が出そうになるが、当時のわたしからすればそれは「当然」だし別に苦ではなかった。
起床~登園など当時のお利口さん里沙子ちゃんには屁でもなかった。
でも、近所のお母様たちは当然奇異の視線を向けてきたし、幼稚園の担任の先生は頼んでもいないのに「里沙子ちゃんが可哀想です」と言って電話をかけてきた。
電話を受けた母は「娘が可哀想な思いをしているのは良くない」と言って、仕事終わりの疲れた顔に寝起きのボサボサ頭のまま一緒にバス乗り場まで来てくれるようになった。
優雅に朝イチ化粧をしている近所のお母様たちからすればそれこそ「可哀想」であって、全く何も解決しないどころか状況が悪化していることに自分が子どもであることを憎み、早く大人になりたいと思った。
「大人にさえなれば、わたしがお母さんを守ってあげられるのに」と。
不器用という呪い
お利口さんのわたしは当然おもちゃを欲しがったことなど一度もなかった。
小学生になったときには丸付けをする赤鉛筆がどんどん小さくなって、いよいよ削れなくなったものを無理やりチマチマ使っているわたしを見て、母が「何でそんなに小さいのを使ってるの?」と声をかけてきた。
何も答えられないわたしを見て、何かを察したように母は「お金は無いけど、学校で要るものくらいは買ってあげられるよ」と言って文房具屋に連れて行ってくれた。
そんな母親はわたしが小学生になると同時に、通信制の高校に通い始めた。当時母は29歳。いくら田舎とは言え中卒で働ける場所は少なく、高卒資格を取らなければならないと考えたのだ。
仕事をしながら4年間、スクーリングに課題に、母はよく頑張ったと思う。徹夜している姿をたくさん見た。
めでたく高卒資格を取得した母は収入が少し上がったようで、年に一度の誕生日には欲しいものを買ってくれた。
クリスマスにはイオンのおもちゃ売り場で欲しいものを選ばせてくれて、サンタさんが持ってきてくれる(母が枕元に置く)「サンタさんはイオン経由」という暴論を説いてきた。
みんなが「ちゃお」や「なかよし」を読み出した頃には「妹と付録を取り合いするのは可哀想だから」と言って毎月2冊買ってくれた。
小5くらいのときには「テレビゲームのひとつくらい買ってあげたい」と言って突然閉店間際のイオンに車を飛ばしてゲームキューブを買ってくれた。
夏にある近所のお祭りに友だちと行くと言えば、「お祭りの出店は高いからね!」と言って5千円くらいくれた。(お小遣いという制度はなく、必要なときに貰っていた)
母は料理上手だった。お弁当も絶対に作ってくれたし、いつもおいしかった。洗濯も上手で、いろんな洗剤を使い分けて時には手洗いする手間も惜しまず、絶対ニットを縮ませないし、どんなシミもキレイにしていた。
複雑なバックボーンにより生じた不都合を除けば、本当に母はしっかり「母親業」をしてくれた。それに、ほかでもない愛情を感じていた。
すごく子どもで気分屋な人だけど、それゆえ子どもの気持ちがわかる人だった。よそのお母さんとはちょっと違うけど、そんなお母さんの昔話を聞くのが大好きだった。
ただすごく不器用で、褒めてもらった記憶は全然ない。
テストで100点、読書感想文の全国入賞、運動会で1位、どれもこれも「お母さんの子どもだから当たり前でしょ」と言われていた。
当時は寂しく思っていたが、今ならその不器用さも理解できる。
母は、自分の求めていた「家族」となりたい「お母さん」を実現させるために一生懸命、毎日、自分の中にある呪いと戦っていたのだ。
いつの日か母が「わたしが子どもの頃友だちと遊んでいると、お父さんは『あの子のお父さんはどんな仕事をしているのか』と聞いてきた。わたしはそれがすごく嫌で、自分が親になったときには子どもがどんな友だちと遊んでいても否定しないって決めたんだ」と言っていたことも覚えている。
呪いからの解放
それからわたしは中学生になり、周平のように母親を守る人生に嫌気がさして、死ぬほど壮絶な反抗期を迎えた。割愛するがめちゃくちゃ酷いことを言ったりしたりした。
まぁでも、小さなわたしが背負わされた呪いを思えば人間の心の成長過程として当然だと思う。(周平はあまりに過酷な環境下だったためにそれが出来なかったのだと思う)
高校卒業と同時に大阪という大都会に出てきて、ハタチのときに就職した会社での様々な出会いや経験を経て、母親と自分の人生をようやく乖離させることができた。
「お母さんのせい」
「お母さんのおかげ」
お母さん、お母さん。
そうやって生きてきた20年、わたしは母親の呪いにかかっていた。
でも今は思う。
母には母の生まれ育った環境があり、選んだ道、選ばざるを得なかった道、選ばなかった道、選べなかった道があるのだと。
母の人生は母の人生。
わたしの人生はわたしの人生。
感謝すべきこと、許せないこと、色んなことがあるけれど、自分以外の「他人」は全て、赦し、手放すことが出来る。
「家族だから」「親だから」という理由で、自分と一体でなければならないかのように思ったり、期待したり失望したりしているのは、まだ呪いの中にいるからなのだ。
映画の終盤、周平は「でも俺、お母さん好きなんですよね。それもダメなんですかね。お母さん、1人じゃ生きていけないですよ」と言う。
わたしはその言葉に胸が締め付けられる思いがした。
周りが何と言おうと、自分がどれだけ成長しようと、母親の元に生まれた事実と流れた時間は否定しようがない。
世界中に存在するであろう様々なカタチの「母親の呪い」に縛られる全ての人が、お互いの精神を乖離させ、それでいて受け入れ、赦し、手放せることを願う。
秋子は、周平は、そこかしこにいる。
本作品の監督・脚本を務め、そのほかわたしが大好きな「セトウツミ」「日日是好日」なども担当されている大森立嗣さんに最大限のリスペクトと感謝を。