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捨てるための日記_10「水不足からギリシャ哲学の起源について思いを馳せる」

■四国は水不足でピンチでした

晴れ。外は暑いらしい。家から一歩も出ずに引きこもっている。
四国の水不足が一応解消されたので、今日ようやく毛布を洗って干すことができた。懸念材料がひとつなくなってよかった!

今年は梅雨明けが6月下旬とめちゃくちゃ早く、雨がほとんど降っていなかったので、平成6年の大渇水に迫る勢いで石手川ダムの貯水率が落ちていたのだ。
実感あるほどではなかったが取水制限がかけられ、市民にはひとり1日10リットルの節水を求められていた。

雪国で生まれ育ち、雪解け水の恩恵を常に受けてきた人間にとって、水不足なんてほとんど他人ごとの世界だったものだから、私は内心とても心配でダムの貯水率をはらはらしながら見守った。良人はペットボトルの水を買ってきた。
ずっとここに住んでいる人たちは、貯水率こそ気にしていたけど、あまり深刻そうではなかった。60%くらいじゃまだ慌てる段階じゃないっぽい。

さいわい、先週の雨で100%近くまで貯水率が回復したので一安心。
「雪は降らないし、瀬戸内の気候は穏やかで過ごしやすいし、いいわね」と思っていたが水不足だけはいただけない。ここにずっと住んでいる人には申し訳ないけど、私はここに住めないよ…。水不足に対する耐性がなさすぎるもの…。工事のための数時間の断水ですら「うお~!」ってなるのに。

■「水は大切」からの「万物のアルケーは水である」

今回、渇水の不安を味わったことで「人間は水がないと生きていけない」という基本的な認識を新たにした。
そりゃ古今東西、水の利権で争うわけですよ。

西洋哲学史では紀元前7~6世紀にイオニア地方で哲学が始まったとする。
当時はエジプトやバビロニアがギリシャよりも文化的に進んでいて、イオニアの人々はその先進文化に触れやすかった。
「万物のアルケー(元のもの)は水である」と言ったタレスは、イオニア地方のミレトスで生まれたのである。

「アルケー」は「始まり・原理」という意味だが、タレス以前は神話という形で世界観を形成していた。その神話形式を脱してロゴスでの始まりを問うたのがギリシャの哲学者たちである。

私は、かつて哲学の授業で先生に問われたことを忘れられずにいる。
「なぜ哲学がこの地から生まれたのかを考えてほしい」

多分、一般的にいわれている定説は「雨が少ない土地で、水が貴重だったから」である。

定説というのは多くの人が一番「もっともらしい」と納得した説だ。
西洋哲学は原初・始原をロゴスにおいて追及する思考・態度なので、何度も検討されてきたことだと思う。

けれども先生は、いわゆる一般教養の「哲学科目」で私たちに問うたのだ。
「なぜ哲学がこの地から生まれたのか」

■問いを一段あげる

私たちはここで、先生の問いの段階をひとつ繰り上げることができる。
「先生はこの問いを発することで私たちに何を考えさせようとしているのか」
である。

私がこのとき先生から教わったことは
「常識(定説)を一度疑ってみること」
そして
「自分の頭で考えてみること」
である。

ただし、そこにはちゃんと言葉で説明できるくらいの根拠がなくてはならない。
先生からの問いは私のなかに依然「宿題」として残っている。私なりの、根拠をもった考えを模索している。
それが結局のところ定説に行き着いたとしても、考えた時間を無駄だったとかは思ったりしない。それが哲学的思考の一端だと思うし、なにより私は考えることが好きだからだ。

■参考文献


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